分身(ダブル)とは、自己の内部に潜みながら、意識の前に別の像として現れる存在。
自分自身でありながら、コントロールできない“もう一人の自分”として体験される心理的現象である。
ミンデル著『シャーマンズ・ボディ』において、分身は自己の内なる要素の象徴的顕現として説明される。
未統合の感情や抑圧された欲望、理想像などが、意識の外側に現れたかのように知覚され、主体の行動や認識を揺さぶる。
個人はこれを幻影や影として感じることもあるが、心理的・儀礼的文脈で一貫して意味を持つ現象である。
内的他者性:自己の中に存在する見知らぬ視線。
影の射影:抑圧された感情や欲望が独立した存在として浮かび上がる。
同一性の揺らぎ:自己像が揺らぎ、選択や行動に不意の影響を与える。
これは単なる鏡像ではなく、意識の外側から自己を照らす契機として機能する。
影/鏡に映る別人
自分の輪郭を揺さぶる“未知の自分”
外界に投影された自己の分身
〔社会〕
文学や映画では、分身は主人公の選択や行動に影響を与える“もう一人の自分”として描かれることが多い。
これは、社会的役割や規範に縛られた自己が、内面的な未統合部分を外界に投影することで生じる現象であり、個人の行動や意思決定の曖昧さを映し出す。
つまり分身は、文化的・社会的文脈の中で自己の隠れた側面を顕在化させる媒介として機能する。
〔組織〕
組織内では、役職や立場に応じて求められる自己像と本来的な自己との乖離が、分身として現れることがある。
たとえば、表面的には冷静な意思決定を装う一方で、内面では未統合の不安や欲求が別の“自分”として浮かび上がる。
組織文化や暗黙の期待が、この内的分身を引き出す契機となり、行動や判断に微細な揺らぎを生む。
〔家庭・個人〕
家庭や親密な関係では、「本来の自分ならしないのに…」と感じる行動が分身として現れることがある。
抑圧されてきた感情や欲求が、家族やパートナーとの関係性を通して投影されることで、自己像の輪郭が一時的に揺らぐ。
こうした現象は、個人の内面構造を理解する手がかりとなり、無自覚の前提に気づく契機にもなる。
無自覚の前提/ヌミノースム/影(Shadow)/内的他者
ミンデル『シャーマンズ・ボディ』
カール・ユング『心理学的類型』
2025/11/30 初稿版(シャーマンズボディ準拠)

「うちは風通しがいいって、言われるんですよね」
彼はそう語ったあと、自分でその言葉に小さく首をかしげた。
それはたしかに“そういう空気”でつくられた職場だった。
笑顔もある。報連相もある。反論も一応できる。
でも、どこかが不自然だった。
誰かが本当に迷っているとき、
誰かが納得していないとき、
誰も、口を開かない。
議論の場では意見が出る。
けれど、それは「言っていいこと」の範囲を出ない。
「何か言いにくいことって、ありますか?」
ある日、そう訊かれたとき、
彼は反射的に「特にないですね」と答えた。
でもそのあと、なぜか胸のあたりがざわついた。
“自分自身も、誰かにとっての言いにくさの一部なのかもしれない”
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
問いが届くとは、どういうことなのか。
それは、「答えられる問い」に出会うことではなかった。
むしろ、自分が見ていなかった視点が、
急に目の前に差し出されるようなことだった。
セッションのあと、
彼は部下と話すときの自分の表情が、気になるようになった。
口を挟むタイミングが、一瞬だけ遅れるようになった。
風通しをつくっている“つもり”と、
風が通っている“実感”のあいだには、
ずいぶん距離があることに、ようやく気づき始めたところだ。

特に困っているわけではなかった。
仕事も順調で、それなりに任されていたし、
人間関係も大きな問題はなかった。
強いて言えば、忙しさのわりに、
手応えがある日とそうでない日の差が、
最近ちょっと大きい気がしていた。
セッション前に送られてきたコラムを、
移動中に軽い気持ちで開いて読んでいた。
そこで出てきた問いのような一文に、
なぜかスクロールが止まった。
内容はよく覚えていないけれど、
「自分で選んでいると思ってたけど、本当にそうだろうか」
みたいなことが書いてあって、
なんとなく、それだけが残った。
考えたくて残ったわけじゃない。
たぶん、“思い出させられた”のだと思う。
日々の中で、考えないようにしてきたことを。
べつに答えが欲しいわけじゃなかった。
問いそのものが、ただ残っていた。
あの日から、何かが始まった──
……ような気がしている。
でもそれも、まだよくわからないまま、日々が流れている。

彼女は完璧だった。
資料は整理され、言語化も抜群。
最新のリーダーシップ論も、セルフコーチングも習得済み。
部下の話も最後まで聞くし、自己開示も忘れない。
“できている”はずだった。
なのに、どこかでいつも空回っていた。
目の前のチームが“本当に動き出す感覚”が、ずっと訪れなかった。
信じている理念もある。
正しいはずの姿勢もある。
でも、何かがつながらない。
自分だけが深呼吸をして、まわりは息を止めているような空気。
「みんなは、今、何を感じてるんだろう?」
それを誰にも聞けないまま、数ヶ月が過ぎた。
ある日、セッションで問いかけられた。
──「あなたが“うまくいっている”と信じている、そのやり方は、あなたのものですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
気づけば、やってきたことのほとんどが
“良いと言われてきたもの”をなぞることだった。
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ、自分に静かに根を張っていく感じがした。
すぐに何かが変わったわけではない。
でも最近、
言葉が出てこないとき、黙っていることを自分に許せるようになった。
問いのないまま語るよりも、問いを残したまま立ち止まるほうが、
本当はずっと勇気のいる行為だったことを、いま少しだけ実感している。

彼は、いつも正解を持っていた。
部下に示す指針、顧客への回答、家族のための決断。
迷う前に動くことが、美徳だと信じていた。
ある日、「問いに向き合うセッション」があると聞いた。
正直、それが何の役に立つのか、すぐには分からなかった。
けれど気づけば、彼はその場にいた。
セッションの帰り道、手元に答えはなかった。
ただ、一枚の紙に書かれていた問いが、頭から離れなかった。
──「誰に見せるための“正しさ”を演じていますか?」
その問いは、数日経っても消えなかった。
会議中、ふとした沈黙のとき、夜に一人でお酒を飲むとき。
誰にも言えないまま、彼の中でその問いは形を変えながら残りつづけた。
半年後。
彼はまだ、その問いに明確な答えを持っていない。
けれど、何かを決めるときの速度が少しだけ遅くなった。
立ち止まり、問いを思い出す時間ができた。
そして最近、部下にこう言われた。
「……最近、課長って、なんか言いかけて止まるときありますよね」
彼は笑ってごまかしたけれど、内心ではわかっていた。
その“言いかけた言葉”の裏に、問いがある。
それはまだ形にならないけれど、確かに自分の中に居座っている。