自我では統御できない異質な力が、畏怖と魅了を伴って主体に侵入し、自己の輪郭を揺さぶる体験的契機。
宗教学者ルドルフ・オットーが『聖なるもの』で提唱した概念で、言語化や理性を超えた、圧倒的な他力性を持つ経験を指す。
その体験は、人間の意志とは無関係に訪れ、主体の感情・価値観・存在感覚に深い影響を与える。
ユングはこの概念を心理学領域に応用し、ヌミノースムを心的エネルギーの源泉として捉え、無意識が持つ神秘的作用の証左とした。
不可視性:対象は明確な形を持たず、概念化以前の感覚として立ち現れる。
両価性:畏怖(恐れ)と憧憬(魅惑)を同時に喚起する性質を持つ。
主体変容性:その体験は、主体の価値観や世界観に不可逆的変化をもたらす。
非所有性:理解や制御の対象にならず、主体はそれに“応答する”ほかない。
暗闇に立ち現れる光/説明できないのに確かに存在する重力/人知を超えた波動に触れた瞬間の感覚
〔社会〕
宗教儀礼・聖地巡礼・祭祀など、人々が特定の空間や行為を通じて“説明不能な神聖さ”を共有する場で顕在化する。
ヌミノースムは、合理性や科学的説明を超えた価値を社会に付与し、信仰体系や文化的規範の正当性の源泉となる。
共同体はそれを象徴として保持し、その力は国家意識や伝統行動にまで浸透することで、社会構造の深層を支え続けてきた。
そのため、社会制度や価値観の根拠を問い直す局面では、しばしばヌミノースム的経験が再浮上し、変革への引力として働く。
〔組織〕
企業文化や創業者理念が“理屈ではなく信じられている状態”に達すると、そこにはヌミノースム的な質が生じる。
根拠が示されずとも「この方向だ」と確信される感覚は、合理的判断を超えて組織を動かす推進力となり、多くの判断や行動を駆動する。
このような象徴的力は、組織が危機に直面した際、論理では折り合いがつかない決断を可能にすることもある。
つまり、ヌミノースムは組織における“目に見えない基準”として、文化形成と存続に作用する。
〔家庭・個人〕
人生の転機、事故、出会い、喪失など、説明不能な出来事に触れた瞬間、人は理解ではなく感得によって方向を選ばざるを得ない場面に立つことがある。
その体験は恐れや混乱と同時に「何かに導かれている」という不可思議な感覚を伴い、それまでの価値観を揺さぶり、自己理解の構造そのものを更新する契機となる。
ヌミノースムは、個人の意志や計画を飛び越えて訪れる“呼ばれてしまう経験”として作用し、意図を超えた行動の始点となることがある。
この質感こそが、単なる心理現象や偶然とは異なる次元を与え、個人史に深い刻印を残す。
聖なるもの(Das Heilige)/無意識/象徴/畏怖
ルドルフ・オットー『聖なるもの』
C.G.ユング『自我と無意識の関係』
2025/11/30 初稿

「うちは風通しがいいって、言われるんですよね」
彼はそう語ったあと、自分でその言葉に小さく首をかしげた。
それはたしかに“そういう空気”でつくられた職場だった。
笑顔もある。報連相もある。反論も一応できる。
でも、どこかが不自然だった。
誰かが本当に迷っているとき、
誰かが納得していないとき、
誰も、口を開かない。
議論の場では意見が出る。
けれど、それは「言っていいこと」の範囲を出ない。
「何か言いにくいことって、ありますか?」
ある日、そう訊かれたとき、
彼は反射的に「特にないですね」と答えた。
でもそのあと、なぜか胸のあたりがざわついた。
“自分自身も、誰かにとっての言いにくさの一部なのかもしれない”
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
問いが届くとは、どういうことなのか。
それは、「答えられる問い」に出会うことではなかった。
むしろ、自分が見ていなかった視点が、
急に目の前に差し出されるようなことだった。
セッションのあと、
彼は部下と話すときの自分の表情が、気になるようになった。
口を挟むタイミングが、一瞬だけ遅れるようになった。
風通しをつくっている“つもり”と、
風が通っている“実感”のあいだには、
ずいぶん距離があることに、ようやく気づき始めたところだ。

特に困っているわけではなかった。
仕事も順調で、それなりに任されていたし、
人間関係も大きな問題はなかった。
強いて言えば、忙しさのわりに、
手応えがある日とそうでない日の差が、
最近ちょっと大きい気がしていた。
セッション前に送られてきたコラムを、
移動中に軽い気持ちで開いて読んでいた。
そこで出てきた問いのような一文に、
なぜかスクロールが止まった。
内容はよく覚えていないけれど、
「自分で選んでいると思ってたけど、本当にそうだろうか」
みたいなことが書いてあって、
なんとなく、それだけが残った。
考えたくて残ったわけじゃない。
たぶん、“思い出させられた”のだと思う。
日々の中で、考えないようにしてきたことを。
べつに答えが欲しいわけじゃなかった。
問いそのものが、ただ残っていた。
あの日から、何かが始まった──
……ような気がしている。
でもそれも、まだよくわからないまま、日々が流れている。

彼女は完璧だった。
資料は整理され、言語化も抜群。
最新のリーダーシップ論も、セルフコーチングも習得済み。
部下の話も最後まで聞くし、自己開示も忘れない。
“できている”はずだった。
なのに、どこかでいつも空回っていた。
目の前のチームが“本当に動き出す感覚”が、ずっと訪れなかった。
信じている理念もある。
正しいはずの姿勢もある。
でも、何かがつながらない。
自分だけが深呼吸をして、まわりは息を止めているような空気。
「みんなは、今、何を感じてるんだろう?」
それを誰にも聞けないまま、数ヶ月が過ぎた。
ある日、セッションで問いかけられた。
──「あなたが“うまくいっている”と信じている、そのやり方は、あなたのものですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
気づけば、やってきたことのほとんどが
“良いと言われてきたもの”をなぞることだった。
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ、自分に静かに根を張っていく感じがした。
すぐに何かが変わったわけではない。
でも最近、
言葉が出てこないとき、黙っていることを自分に許せるようになった。
問いのないまま語るよりも、問いを残したまま立ち止まるほうが、
本当はずっと勇気のいる行為だったことを、いま少しだけ実感している。

彼は、いつも正解を持っていた。
部下に示す指針、顧客への回答、家族のための決断。
迷う前に動くことが、美徳だと信じていた。
ある日、「問いに向き合うセッション」があると聞いた。
正直、それが何の役に立つのか、すぐには分からなかった。
けれど気づけば、彼はその場にいた。
セッションの帰り道、手元に答えはなかった。
ただ、一枚の紙に書かれていた問いが、頭から離れなかった。
──「誰に見せるための“正しさ”を演じていますか?」
その問いは、数日経っても消えなかった。
会議中、ふとした沈黙のとき、夜に一人でお酒を飲むとき。
誰にも言えないまま、彼の中でその問いは形を変えながら残りつづけた。
半年後。
彼はまだ、その問いに明確な答えを持っていない。
けれど、何かを決めるときの速度が少しだけ遅くなった。
立ち止まり、問いを思い出す時間ができた。
そして最近、部下にこう言われた。
「……最近、課長って、なんか言いかけて止まるときありますよね」
彼は笑ってごまかしたけれど、内心ではわかっていた。
その“言いかけた言葉”の裏に、問いがある。
それはまだ形にならないけれど、確かに自分の中に居座っている。