焦らずに、見えないズレを共に見つめながら。
理念と現場のあいだに、
思考を立ち上げていく歩み方を紹介します。
― 銀座スコーレの関係構造 ―
銀座スコーレは、サービス提供者と顧客という構図では成り立ちません。
私たちが扱っているのは、課題の解決や成果物ではなく、思考と認識の変化そのものです。
ここでは、「何をしてもらうか」ではなく、「何を共に見ていくか」が関係の基準になります。
私たちは相談役ではなく、探求の同伴者として関わります。
はじめての方には、「問いの体感セッション」を入口としてご案内しています。
これは、銀座スコーレという思想と構造に最初に触れていただくための時間です。
問いを“立てる”のではなく、“立ち現れる”ものとして扱い、個人や組織の認識構造を丁寧に可視化していきます。
焦点は“正しさ”ではなく、“動き”にあります。
これまでの思考や言葉の使い方を一度離れ、内側で起きている変化を体験的に捉え直すセッションです。
一度関わりが始まると、そこから先には決まったメニューは存在しません。
壁打ち、構造設計、理念形成、語りの整備など、テーマや状況に応じて共に組み立てていきます。
共通しているのは、いずれのプロセスも思考の構造を更新することに焦点を置いている点です。
それは、経営や組織デザインの表層ではなく、その根底にある「ものの見方」を再構築する行為です。
私たちは依頼を受けるのではなく、問いの輪郭を共に確かめながら、探求を伴走します。
この関係には、明確な終点があるわけではありません。
対話が続くかぎり、問いは更新され、思考は動き続けます。
プロジェクトや契約の期間が終わっても、そのときに生まれた関係や洞察は、次の探求へと接続していきます。
私たちは、継続的な伴走を“サービスの延長”としてではなく、共同思考の継続として扱っています。
契約や報酬の枠組みは、探求を支えるための形式であり、関係の本質は、そこに生まれる思考の往復にあります。
継続とは、拘束ではなく、思考が呼び合い、必要に応じて再び立ち上がる運動です。
双方向であること(教える/教わる構造を前提にしません)
成果物よりも、認識の変化を重視すること
感情的な共感と構造的な理解の両立を大切にすること
継続性は契約ではなく、対話の更新によって決まること
知の共有は、善意ではなく正確さと信頼によって成立すること
銀座スコーレにおける“関係”とは、依頼と提供の往復ではなく、思考・感受・構造が交差しながら進化していく知の生態系です。
そのなかで、私たちは個としても、集合としても、より広い理解の地平を見にいきます。

「うちは風通しがいいって、言われるんですよね」
彼はそう語ったあと、自分でその言葉に小さく首をかしげた。
それはたしかに“そういう空気”でつくられた職場だった。
笑顔もある。報連相もある。反論も一応できる。
でも、どこかが不自然だった。
誰かが本当に迷っているとき、
誰かが納得していないとき、
誰も、口を開かない。
議論の場では意見が出る。
けれど、それは「言っていいこと」の範囲を出ない。
「何か言いにくいことって、ありますか?」
ある日、そう訊かれたとき、
彼は反射的に「特にないですね」と答えた。
でもそのあと、なぜか胸のあたりがざわついた。
“自分自身も、誰かにとっての言いにくさの一部なのかもしれない”
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
問いが届くとは、どういうことなのか。
それは、「答えられる問い」に出会うことではなかった。
むしろ、自分が見ていなかった視点が、
急に目の前に差し出されるようなことだった。
セッションのあと、
彼は部下と話すときの自分の表情が、気になるようになった。
口を挟むタイミングが、一瞬だけ遅れるようになった。
風通しをつくっている“つもり”と、
風が通っている“実感”のあいだには、
ずいぶん距離があることに、ようやく気づき始めたところだ。

特に困っているわけではなかった。
仕事も順調で、それなりに任されていたし、
人間関係も大きな問題はなかった。
強いて言えば、忙しさのわりに、
手応えがある日とそうでない日の差が、
最近ちょっと大きい気がしていた。
セッション前に送られてきたコラムを、
移動中に軽い気持ちで開いて読んでいた。
そこで出てきた問いのような一文に、
なぜかスクロールが止まった。
内容はよく覚えていないけれど、
「自分で選んでいると思ってたけど、本当にそうだろうか」
みたいなことが書いてあって、
なんとなく、それだけが残った。
考えたくて残ったわけじゃない。
たぶん、“思い出させられた”のだと思う。
日々の中で、考えないようにしてきたことを。
べつに答えが欲しいわけじゃなかった。
問いそのものが、ただ残っていた。
あの日から、何かが始まった──
……ような気がしている。
でもそれも、まだよくわからないまま、日々が流れている。

彼女は完璧だった。
資料は整理され、言語化も抜群。
最新のリーダーシップ論も、セルフコーチングも習得済み。
部下の話も最後まで聞くし、自己開示も忘れない。
“できている”はずだった。
なのに、どこかでいつも空回っていた。
目の前のチームが“本当に動き出す感覚”が、ずっと訪れなかった。
信じている理念もある。
正しいはずの姿勢もある。
でも、何かがつながらない。
自分だけが深呼吸をして、まわりは息を止めているような空気。
「みんなは、今、何を感じてるんだろう?」
それを誰にも聞けないまま、数ヶ月が過ぎた。
ある日、セッションで問いかけられた。
──「あなたが“うまくいっている”と信じている、そのやり方は、あなたのものですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
気づけば、やってきたことのほとんどが
“良いと言われてきたもの”をなぞることだった。
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ、自分に静かに根を張っていく感じがした。
すぐに何かが変わったわけではない。
でも最近、
言葉が出てこないとき、黙っていることを自分に許せるようになった。
問いのないまま語るよりも、問いを残したまま立ち止まるほうが、
本当はずっと勇気のいる行為だったことを、いま少しだけ実感している。

彼は、いつも正解を持っていた。
部下に示す指針、顧客への回答、家族のための決断。
迷う前に動くことが、美徳だと信じていた。
ある日、「問いに向き合うセッション」があると聞いた。
正直、それが何の役に立つのか、すぐには分からなかった。
けれど気づけば、彼はその場にいた。
セッションの帰り道、手元に答えはなかった。
ただ、一枚の紙に書かれていた問いが、頭から離れなかった。
──「誰に見せるための“正しさ”を演じていますか?」
その問いは、数日経っても消えなかった。
会議中、ふとした沈黙のとき、夜に一人でお酒を飲むとき。
誰にも言えないまま、彼の中でその問いは形を変えながら残りつづけた。
半年後。
彼はまだ、その問いに明確な答えを持っていない。
けれど、何かを決めるときの速度が少しだけ遅くなった。
立ち止まり、問いを思い出す時間ができた。
そして最近、部下にこう言われた。
「……最近、課長って、なんか言いかけて止まるときありますよね」
彼は笑ってごまかしたけれど、内心ではわかっていた。
その“言いかけた言葉”の裏に、問いがある。
それはまだ形にならないけれど、確かに自分の中に居座っている。