”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 マーケティングは“3番目”- afterwords 》

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プロローグ:

伝えることは、いつも「最初」に来るとは限らない。
語るより先に、黙るという選択肢がある。
沈黙を恐れず、余白を残し、言葉を持たない接続を信じること。

そのうえでなお「届けたい」と思えたとき、
ようやくマーケティングは立ち上がってくるのかもしれない。

これは、“届ける技術”の話ではない。
「なぜ届けたいのか」という問いに向き合う、
その営みの記録である。

※このコラムは、コラム《 マーケティングは“3番目”に来る 》の続編的扱いとなっていますが、このコラムだけでも読むことは可能です。

Vol.5|届けない自由、沈黙という接続

■ 伝えないことの余白

マーケティングやコミュニケーションの世界では、
つい「どう届けるか」「どう伝えるか」に意識が向きがちだ。

しかし、その前提として「届けない」という選択肢も確かに存在している。

ときに、言葉をあえて飲み込むことや、
沈黙の中に身を置くことの価値を考える。

それは決してコミュニケーションの放棄ではなく、
「伝えたいもの」と「伝えられるもの」のあいだにある
微かな距離感を守るための選択かもしれない。

■ 沈黙の持つ力

沈黙は、時に豊かな意味を孕(はら)む。
無理に言葉にしないことで生まれる余白が、相手の想像や感受性を刺激することもある。

届けないことが、逆に強いメッセージになることもあるのだ。

マーケティングにおいても、「すべてを伝え切ること=成功」ではなく、
「伝えないことの自由」を含めて、どう接続するかを考える視点は新しい。

■ 距離感のデザインとしての届けない

「届けること」に注力するあまり、あらゆる情報を詰め込み、
受け取り手の余白を奪うことがある。

そこには、知らず知らずのうちに「伝えなければならない」という強迫観念が働いているのかもしれない。

しかし、あえて「届けない」という選択は、
受け手が自分のペースや感覚で受け止められる距離感を生み出す。

それ自体が「関係性の設計」なのだ。

■ 沈黙を共にするということ

コミュニケーションは必ずしも言葉だけで成立するわけではない。
沈黙や余韻、間の取り方も大切なメッセージになる。

たとえば、静かな空間を共有するだけで生まれる安心感や信頼感も、
言葉にしないメッセージとして存在している。

マーケティングにおいても、無理に語らないことの価値を認めることで、
もっと柔軟で人間らしい接続が可能になる。

■ 実例:届けない選択が生む関係性

たとえば、小さなカフェの話がある。
この店はSNSで積極的に情報発信をするのではなく、店内での体験を重視している。

店主は「来てくれた人だけに伝わればいい」と考え、広告やキャンペーンは最小限に抑えている。

その結果、常連は訪れるたびに新しい発見や静かな安心感を得て、
「知る人ぞ知る」という特別感が育まれている。

言葉を多く発しないことで、逆に深い接続を作っているのだ。

■ 実例:沈黙を尊重するコミュニティのあり方

あるオンラインコミュニティでは、参加者が無理に発言しなくても歓迎される空気がある。
話さないことを「沈黙の共有」と捉え、互いの存在を尊重する場だ。

発言がなくとも共感や安心感が伝わり、
メンバーは自分のペースで居場所を感じている。

マーケティングの文脈で考えると、
こうした「届けない」ことの積極的な意味づけは、関係性の多様性を広げるヒントになる。

Vol.6|共同体という“聞き手”を育てる

— マーケティングとコミュニティのあいだにある緩やかな関係性

聞き手がいないと、語りは生まれない

「伝える」以前に、「誰に届いてほしいか」は、とても大事な問いだ。
それは単なる“ターゲティング”じゃなくて、“聞き手を信じること”でもある。

コンセプトを育てるには、語りかける先が必要だ。
けれどそれは「広く拡散する」こととは違う。

むしろ、静かに受け止めてくれる誰かとの、時間のかかる往復運動。

■ 共犯関係としてのブランド:パタゴニアの例

たとえば、Patagonia。
彼らは商品を「地球環境のための行動」と結びつけ、その信念を発信している。

でもそれは「こうすればウケる」という計算からではなく、
「こうでしかありえない」というコンセプトの確信から来ている。

広告ではなく、活動。メッセージではなく、実践。
彼らの“語り”は、聞き手を信じて預けるような姿勢に近い。

そしてその姿勢に共鳴した人たちは、自然と自分の言葉で語り始める。

「そのジャケット、どこの?」から始まる会話の奥に、
「なんでそれを選んだの?」という価値観の共有が眠っている。

■ 育ち合う場としてのコミュニティ:「ほぼ日」の場合

もうひとつの例が、「ほぼ日刊イトイ新聞」。
ここでは“商品を売る”のではなく、“日常の会話を育てる”ことが第一に置かれてきた。

手帳も、カレーも、タオルも、
先にあったのは「買わせるためのコンセプト」ではなく、
編集部と読者との間に育ってきた“気配のような価値観”だった。

この距離感は、マーケティングの常識から見れば“非効率”かもしれない。
にもかかわらず、表層的なブームより、深層に長く残る関係性をつくっている。

■ 100人に1人の熱狂より、5人の静かな共鳴

こんな考え方もある。
100人に伝えて、5人が「静かに深くわかっている」状態。

それは、声にならない理解だったり、
「何となく好きで、理由は言えないけど持ち続けている」ような体験だったりする。

でもその5人は、ふとした瞬間に自分の言葉で誰かに語り始める。

それは“広げる”というより、“深く根付く”。
わたしはそれを「共同体の発芽」と呼びたい。

商品やコンセプトが、いつのまにか“語られる存在”になっていく。

■ コンセプトを手放さずに、関係を育てる

信念を曲げないためには、無理に売らない強さも必要だ。
表現の暴力性に自覚的でいること。
そして、「今じゃない誰か、いつかの誰か」に託すことも含めて、マーケティングの一部だと捉える。

聞き手は、“届けようとすることで”育つ。
同時に、“預けるように委ねることで”も、育っていく。

わたしたちにできるのは、
焦らず、急がず、信念を手放さずに、
聞き手が現れるまで語り続けることかもしれない。

Vol.7|わたしに返ってくるマーケティング

— 誰かに見せる」よりも「自分に問い直す」プロセスとしての再定義

■ 売るための努力が、精神をすり減らすとき

「どうやったら伝わるか」「どうすれば買ってもらえるか」
そのような問いに長く向き合っていると、ふと疲れを感じる瞬間がある。

伝えれば伝えるほど、
なぜか自分が遠のいていくような、あの感覚。

もしかするとそのマーケティングは、「届ける」ためではなく、
「わたしが何を信じているか」を、確認し直すための営みだったんじゃないか。

そんなふうに、あるとき思った。

■ 見せることと、見つめること

「見せる」ことがゴールになった瞬間、
コンセプトは“他人の評価を待つ構造”にさらされる。

でも、本当に大事なのは「見つめ返すこと」だったはず。

なぜこの表現を選んだのか。
なぜこの言葉に惹かれるのか。
わたしは何を恐れ、何を愛して、何を信じているのか。

マーケティングのプロセスは、本来、
自分自身に対するフィードバックループだったのかもしれない。

■ 「届けられなさ」から生まれる問い

何かが伝わらなかったとき、それは失敗なんだろうか?

たとえば、ある投稿に“反応がなかった”とする。
でもそれは、「伝わらなかった」んじゃなくて、
「もっと深く問う必要がある」というサインかもしれない。

わたし自身が、その言葉を、コンセプトを、もう一度見つめ直す。

マーケティングは「他人を動かす技術」ではなく、
「自分の確信を耕す技術」として捉え直すことができる。

「自分ごと」に還る循環を

ここまでの話を振り返ると、
わたしが本当にやりたかったのは「広げること」ではなく、
「自分の問いに戻ってくること」だったのかもしれない。

誰かに伝えたコンセプトが、巡り巡って、
相手の視点やフィードバックを通して、またわたしに返ってくる。

そのたびに少しずつ、自分の考えが整理されたり、
言葉や届け方の精度が変わったりしていく。

そうやって時間をかけて、少しずつ本質に近づいていく。

■ だからマーケティングは、終わらない

信念は完成しない。
表現は更新される。
接続は変化しつづける。

だからマーケティングも、終わらない。

わたしに返ってくるこの営みは、いつまでも未完成で、
それでいて、どこまでも誠実でいられる。

たった一人に届くこと。
それによって、自分の確信が少しだけ深まること。

その小さな循環の中に、わたしは「伝える意味」を見出している。

Vol.8|誰を生きているのか?

— 自己信頼としてのマーケティング

これまでの流れで語ってきた「コンセプト」「表現」「接続」は、
すべて外の世界とつながる話だった。

突き詰めれば、ほんとうはそのすべてが、
ぐるりと回って、自分自身に返ってくる道だった。

マーケティングは、
誰かを説得するための行為ではなく、
「わたしは、わたしを信じられるか?」という問いの連続かもしれない。

■ わたしを裏切らないということ

たとえば、自分の信念を、言葉にするとき。
少しでも“よく思われよう”とか、“伝わりやすくしよう”と考えすぎると、
言葉はするりと、他人の顔色を伺うものになってしまう。

そう思うと、問いが浮かぶ。
それって誰の言葉なんだろう?

「誰にどう見られるか」を優先した瞬間に、
コンセプトは、もう“わたしのもの”ではなくなる。

「誰かのために届けたい。」

その気持ちは本物でも、
その前に「わたしを裏切っていないか?」を問いたい。

■ 他人を大切にする前に、自分を粗末にしていないか?

この問いに、マーケティングの話を持ち込むのは、
なんだか意外に思えるかもしれない。

たとえば、見せ方にこだわりすぎるマーケティングや、
数字だけを追うSNS運用が、なんだか空虚に感じるとしたら、
その理由はきっと、「わたしがいない」から。

どこかで、自分をおざなりにしたまま、
“他人の期待”を満たすことにばかり時間を費やしていると、
コンセプトはイミテーションになり、
言葉はただのコピーになる。

■ 「わたしを生きる」ことの、こわさと強さ

わたしを生きる。
それは簡単なことではない。

何かに迎合したほうが、わかりやすいし、
誰かの型にハマったほうが、楽だったりする。

「正解っぽい」マーケティングも、世の中には溢れてる。

しかし、自分の深いところから湧き上がる“確信”を、
誰にも媚びず、誰にも隠さず、
ただ静かに信じ続けることには、圧倒的な強さがある。

それが、マーケティングの始まりであり、終わりかもしれない。

■ マーケティングとは、「わたしの声」を聞き直す営み

最後に、少し視点を変えてみたい。

マーケティングとは、
誰かに伝える技術ではなく、
「わたしの声を、わたし自身が、もう一度聞き直す」ための手段だとしたら?

それは、自己理解であり、自己信頼であり、
そして、自分と世界をつなぐ、ほんとうの“接続”なのかもしれない。

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