理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 マーケットの糖質依存 》

- 高カロリー・低栄養の時代へようこそ+ -

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プロローグ:甘さに慣れた私たちへ

すぐ効くもの、手軽に届くもの。
マーケットには、甘くて軽い「糖質」のような選択肢が溢れている。

瞬間的な熱狂、誰でも手が届く魔法、等価という錯覚。
それらはたしかに、希望のかたちをしていた。

しかし、その消費の速度は、
私たちの思考や感受性をも削っていく。

これはただのビジネス論ではない。
市場に映る「私たちの体質」を、ゆっくり見つめなおす試みである。

Vol.0|市場の血糖値が上がるとき

— 「即効性」に偏る市場構造 -

■ 「すぐ効く(映える)もの」ばかりが並ぶ風景

ふと気がつけば、
市場には、軽やかで、派手で、瞬間最大風速だけが高く、
あっという間に消費されるものが溢れ返り、
その片隅には、かつての別の息づかいが確かにあった。

手づくり作品や焼き菓子、小さなマルシェに並んだ一点ものたち。
それはかつて、量ではなく質を、規模ではなく温度を大切にする表現のかたちだった。

誰かの手がつくったという物語や、
目の前で生まれたというリアルが、
商品の奥にちゃんと息づいていた。

そして、その情景のまわりには、
「誰でも起業できる」「誰でもブランドになれる」といった言葉が
徐々に、しかし確実に広がっていた。

甘やかされたのは、誰だったのか

参入のハードルが下がることは、悪いことじゃない。
事実、それによって拓かれた可能性も、たくさんあったはずだ。

ただ──どこかで、入れ替わってしまったものがあるように思う。
「始めやすさ」と「続ける重み」が。
「届きやすさ」と「育てる時間」が。
「跳ねること」と「根づくこと」が。

ビジネスの規模にかかわらず、
本来であれば求められていたはずの視点や責任が、
“軽やかさ”という名のもとに、どこか遠くへ追いやられていった。

結果として市場には、テンポのいい成功譚(せいこうたん)と、一瞬の熱狂だけが残る。
そして、その熱狂のあとに残されたものは──意外なほど、何もない。

それでも私たちは、
「とにかく軽く」「すぐ効く」ものを求めてしまう。
まるで、血糖値の急上昇だけを繰り返すような代謝のなかで。

これは、構造の話であり、体質の話でもある

誰かの軽率さや未熟さを責めたいわけではない。
むしろ、自分もまた、その甘さのなかにいた。

すぐに形になるもの、すぐに反応が返ってくるもの。
そうしたものに惹かれてしまう心の動きは、否定できない。

だからこそ、この話は「誰かのせい」ではなく、
「私たちの体質」の話なのだと思う。

マーケットそのものが、まるで過剰摂取に陥っているかのようなこの時代に、
いま改めて、ほんの少し立ち止まってみたい。

「マーケットの糖質依存」とは何か。
なぜそれが広がったのか。
そして、私たちはそこに、どう関わってきたのか。

これから、ゆっくり解きほぐしてみる

軽やかで、甘くて、
すぐに体温が上がるようなものばかりが流通する時代に、
どこかで、食べごたえのあるものを探してしまう自分がいる。

ほんの少し、咀嚼に時間のかかる問いを。
すぐには効かないけれど、どこか奥のほうに届いていくような思考を。

いま必要なのは、そんなゆっくりとした解きほぐし方なのかもしれない。
舌ではなく、体の奥で味わうような時間を取り戻すことが。

Vol.1|燃え尽きる設計図

— 短命化を前提にしたマーケティングの加速 -

短命化を前提にした
マーケティングの加速

一瞬の光に、全力で火を注ぐ

目の前で、まばゆいほどの光が放たれる。
商品のローンチ、キャンペーン、SNSでの仕掛け。

あらゆる場面で、「瞬間の熱量」が最重要とされている。
もちろん、それはかつてからマーケティングの常套手段だった。

しかし、今のそれはどこか違う。
“バズる”ことが主目的となり、
その燃焼の瞬間こそが価値であるかのような振る舞いが、
あらゆるレイヤーにまで染みわたっている。

もはや、光を灯すための導線づくりや、
持続する熱を育む設計ではない。
“燃え尽きること”を前提としたプランが、
当たり前のように立ち上がる。

■ ロングテールという言葉が、遠くなる

かつては、「ロングセラー」が理想だった。
ゆっくりでもいい。時間をかけて、じわじわと届いていく商品や作品。
そうしたものにこそ、信頼が宿るとされていた。

でも今は、「ロングテール」と言いながらも、
本当に望まれているのは、その“テール”ではなく、
一瞬だけ跳ね上がる“頭”のカーブなのかもしれない。

どれだけ長く残せるかより、
どれだけ速く、どれだけ大きく火柱を立てられるか。

その勝負のために、私たちは今日も企画を考え、
言葉を選び、拡散のシミュレーションを繰り返している。

■ 設計された短命という構造

「短命に終わった」のではない。
「短命であるように設計されていた」のだとしたら──?

次の手が続かないように、初速だけが最も効くように、
飽きられる前にすり抜けるようにと、
私たちは無意識のうちに、商品の“寿命”を短く設計しているのかもしれない。

深く育てるより、さっさと次へ。
味わうより、反応を見る。
関係を築くより、話題になる。

そんな設計図のうえに、
私たちの多くの仕事が立ち上がっているとしたら──
それは果たして、進化なのだろうか。
それとも…

■ 熱狂のあとに、何が残るか

もちろん、すべてがそうではない。
しかし、確実に空気は変わった。

市場の呼吸が浅くなり、言葉の血糖値が上がっている。
一瞬の熱狂は、たしかに美しい。

だが、そのあとに何が残るかは、
いつも曖昧なままにされている。

誰もが「忘れられる前に」と焦るこの時代に、
私たちは、忘れられないものを作ろうとしているのだろうか。
それとも、忘れられる前提で走っているのだろうか。

■ それは、加速ではなく、消費かもしれない

急がなくてはならない。
飽きられる前に、次の話題を。
止まったら、終わる。

そう思い込んで走り続けるほどに、
私たちは、燃料ではなく自身を燃やしているのかもしれない。

それは果たして、加速なのか。
それとも、ただの消耗なのか。

火を灯すことの意味を、もう一度見つめなおしたい。
燃やし尽くすためではなく、ほんとうの熱を届けるために。

Vol.2|誰でも、の魔法

— 参入障壁の低下が生んだ期待と消耗 -

それは、やさしい扉だった

いつからか、「誰でも」という言葉が、強く、やさしく、光を放つようになった。

誰でも起業できる。
誰でも本が出せる。
誰でも影響力を持てる。
誰でも、自分の好きなことで、生きていける——。

その言葉の並びは、
かつて届かなかった場所への入り口を示すかのように見えた。

資格はいらない。
資金も、人脈も、実績も、それほど問われない。
今すぐこの場所からでも、はじめられる。

扉は開かれていた。
とても、やさしい音を立てて。

■ 入り口は広がった。でも…

この現象は、ひとつの希望だったと思う。
“閉じられた専門性”に風穴をあけ、
“参入の障壁”を取り払ったことには確かに意味があった。

問題は、その入り口の先に何が待っていたか、だ。

「誰でもできる」ことと、
「誰がやっても同じ」ことは、まったく違う。

しかし、いつしかその区別は、あいまいに溶けていった。

魔法はたしかにあった。
でもそれは、
「すぐに叶う」一方で、「すぐに冷める」魔法でもあったのかもしれない。

■ 魔法が生む、熱と焦り

人は、自分にもできると思えば、期待する。
期待すれば、動く。
動けば、結果を見たくなる。

でも、思うようにいかないとき、
「できなかった」という事実よりも先に、
「自分には才能がなかったのかもしれない」という疑念がやってくる。

SNSで目にするのは、“誰でも”の成功例ばかり。
その裏側で、静かに姿を消していった無数の“誰でも”たちは、記録にも残らない。

成功も、撤退も、等しく「やってみた」の一例にすぎないという景色。

魔法は熱を生むけれど、同時に焦りも育てる。
「わたしも、今すぐに何かを始めなきゃ」と。

■ 「才能ではない」と言われた時代に

この十数年、
「才能より努力だ」「好きなことなら続けられる」
というメッセージが、ひとつの通念になっていった。

それは、チャンスを拡張する言葉でもあり、
同時に、「できなかったことは努力不足」「好きじゃなかっただけ」と
自分を責める理由にもなりうる、両義的な刃だった。

“才能”を棚に上げ、
“好き”さえあれば乗り越えられるという語りは、
ほんとうにわたしたちを励ましていたのだろうか。

それとも、無理を肯定するための甘い糖分だったのか。

■ 誰でもできる、だからこそ——

「誰でもできる」は、正しい。
でも、「誰にでも、できるわけではない」も、また真実だ。

この違いを丁寧に受け止めるには、勇気が要る。
やさしい言葉の裏にある厳しさを、見ないふりをするほうが楽だから。

しかし、誰かがそこで踏ん張らなければ、
市場は、“誰でも”という希望を使い捨てにしつづける。

入口ばかりを広げ、出口のない迷路を増やしていく。

■ それでも、魔法を信じたいなら

「誰でも」は魔法だった。
しかし、その魔法に触れたすべての人が、救われたわけではなかった。

もし、魔法のような一歩を踏み出したいのなら。
その先には、魔法のようではない時間があることも、
静かに見つめておきたい。

「誰でも」の力を、本当に自分のものにするために。
誰でも、ではなく、「自分が」始めるために。

Vol.3|等価という錯覚

— プロフェッショナルの解体線 -

その人じゃなくても、できる気がした

誰がやっても、たいして変わらない。
そんな空気が、そっと市場を覆いはじめた。

プロの手によるものも、アマチュアの手によるものも、
画面越しには、同じように「それっぽく」見える。

長年培った経験も、細部へのこだわりも、
相場より少し高い価格の中に溶けて、見えなくなっていく。

「信頼」に払われていたはずのコストは、
いつの間にか、値引きの対象になってしまった。

■ “ちゃんとやってくれそうな雰囲気”が勝つ

この人、レスが早い。雰囲気が明るい。作品も映える。
もう、それだけで「信頼される側」に立ててしまう。

言語化能力と、セルフブランディングと、ちょっとの無敵感。
現代の市場が求める“プロらしさ”は、そのあたりの組み合わせでできている。

でもそれは、“信頼される誰か”ではなく、
“信頼されそうに見える何か”にすぎないのかもしれない。

■ 信頼は、時間の中でつくられるものだった

かつて信頼は、「一度で完璧な成果」ではなく、
「繰り返し、期待に応えてきた時間」によって生まれていた。

遅延やトラブルがあっても、丁寧に対応してくれること。
細かな注文にも真摯に耳を傾けてくれること。
曖昧なニュアンスを読み取り、汲み取り、すり合わせていけること。

それは、目に見えるスキルの外側にある、
“プロフェッショナルの所作”と呼ぶべきものだった。

しかし今、その「見えにくいもの」への支払いは後回しにされる。
“結果さえあればいい”という速さのなかで、信頼は値札を失った。

■ フレンドリーという名の踏み台

「応援してるから」「信頼してるから」「知り合いだから」
——そんな言葉とともに、無償の依頼がやってくる。

そのたびに、プロフェッショナルは試される。
“いい人”であること、“協力的”であることが、
仕事の前提になってしまう場面が増えていく。

断ったら感じが悪い。受けても報われない。
そんな綱渡りを、私たちは“関係性”という名のロープの上で繰り返す。

信頼が、報酬ではなく“前提”にすり替わったとき、
プロとしての境界線は、音もなく崩れていく。

■ その違いは、まだ言葉になるか

誰でも発信できる。誰でも売れる。誰でも“プロっぽく”なれる。
しかし、その「誰でも」は、プロフェッショナリズムの逆説でもある。

“ちゃんと”を積み上げるには、時間がかかる。
信頼に、値段をつけるには、覚悟がいる。

だからこそ、それが失われていくとき、
市場はただ便利で、ただ浅く、ただ安くなっていく。

■ 遠くのプロフェッショナルよりも、近くの親戚

それでも、こんな思いもよぎる。

遠くのプロフェッショナルよりも、近くの親戚。
完璧な対応よりも、すぐに返事が返ってくること。

そういう“安心感”もまた、私たちが信頼と呼んできたものだった。
それは軽くて、柔らかくて、あたたかい。
だからこそ、「重さ」とは違うかたちで、人を支える。

プロフェッショナルとアマチュアの境界が曖昧になるこの時代に、
私たちが求めている“信頼”そのものも、変わってきているのかもしれない。

Vol.4|選ばれなくなるプロフェッショナリズム(解体)

— 技術や誠実さが評価されにくい理由 -

技術があっても、選ばれない

うまくて、速くて、誠実で。
それでも、なぜか選ばれない。
——そんな場面が、少しずつ増えてきた。

理由は不明。クレームもない。
ただ、「別の人に頼むね」とだけ言われる。

そんな不可解な“選ばれなさ”が、あちこちに顔を出す。

かつてプロフェッショナルが持っていた「明確な優位性」は、
もはや“選択の条件”として機能していないのかもしれない。

■ 「ちゃんとしてる」は、めんどくさい?

完成度が高い、納期も守る、質問にも丁寧に答えてくれる。
そんな“ちゃんとしてる人”が、なぜか敬遠されることがある。

それは、信頼ではなく「緊張感」として伝わってしまうからだ。
プロフェッショナルの誠実さは、
ときに“依頼者側の準備不足”を浮かび上がらせる。

「そこまで考えてないんだけど…」
「もうちょっと気軽に頼みたかったんだけど…」
——そんなズレが、いつの間にか“選ばれない理由”になっていく。

■ 不安の時代には「安心感」が勝つ

完璧さよりも、寄り添ってくれること。
知識よりも、共感してくれること。
正確さよりも、柔らかく受け止めてくれること。

プロフェッショナルであることの「重み」が、
そのまま、選ばれない理由になることがある。

「大丈夫だよ」「それでいいんだよ」と言ってくれるほうが、
私たちには、たしかな“安心”に感じられることがある。

たとえ、技術や精度が少し落ちたとしても——。

■ 評価されるのは、「人柄」か「対応力」

選ばれる理由が、スキルではなく“雰囲気”に移っていく。
それはある意味、健全なことかもしれない。
プロフェッショナルが「人間らしさ」を求められるようになったという意味で。

しかし、その裏側には、
プロフェッショナリズムそのものの“価値の解体”がある。

どれだけ深い専門性を持っていても、伝えきれなければ意味がない。
どれだけ努力していても、「感じのいい誰か」に負けてしまうことがある。

信頼を勝ち取るのではなく、最初から「信頼されているふう」であること。
それが、選ばれる条件になってしまった市場では——。

■ プロフェッショナルが、プロフェッショナルをやめたくなる瞬間

選ばれない。報われない。軽んじられる。
そのたびに、少しずつ「もういいかな」という気持ちが積もっていく。

信念を持つことが、疲れる。
誇りを守ることが、空回る。
努力を続けることが、バカらしくなる。

そうして、「ちゃんとやってきた人」が、少しずつ市場から姿を消していく。
彼らを見送る者は少なく、求める声も聞こえない。

それでも、彼らがいなくなった後の“空白”は、
きっと誰かの形をしたまま、残っている。

Vol.5|選ばれない時代に続ける理由

— 選ばれない時代に続ける動機の再定義 -

正しさに疲れた私たちが、それでも求めているもの

信頼は軽んじられ、努力は空回りし、
どれだけ「ちゃんとやっても」報われないことばかり。

それでも——
なぜか、やめられない人がいる。

それでも——
誰かのためにと、火を灯しつづける人がいる。

その火は、もう“選ばれるため”のものではない。
誰かに勝つためでも、認められるためでもない。
もっとずっと、静かで、個人的なものだ。

■ 「正しさ」ではなく「確かさ」のために

このシリーズでたどってきたように、
マーケットは“正しいもの”に報いなくなってきている。
むしろ、“正しすぎるもの”が、忌避されることすらある。

だからこそ、「確かさ」を頼りにしてみたい。
完璧でなくていい、誠実でなくてさえいい。

でも、自分にとって「確かにこれだ」と思える行為や関係だけは、
手放さずにいたいと思う。

それは市場の評価軸とはズレているかもしれない。
でも、それを“自分の火”として灯しつづけられるかどうかが、
この時代においては、プロフェッショナリズムの新しい形なのかもしれない。

■ 祈りに近い営みとしての「続けること」

誰かに届くかもわからないまま、
今日もまた、火を灯す。

売れなくても、バズらなくても、
その営みをやめない人たちがいる。

それは、「選ばれる」ことを目指す行為ではない。
むしろ、「選ばれなくてもなお続ける」ことにこそ、
何かしらの祈りのようなものが宿っている。

問いがある限り、やる。
誰かが見ていなくても、やる。

ただそれだけの理由で火を守りつづけることは、
この社会における、もっとも静かな反抗なのかもしれない。

■ 火を灯しつづける人に、光を当てるために

私たちはいつのまにか、
「光っているもの」にしか目を向けなくなっていた。

しかし本当は、「灯している人」がいたからこそ、
その光が存在していたのかもしれない。

火を灯す人は、目立たない。
でも、その光に照らされてきた誰かは、たしかにいる。

このシリーズの最後に、そんな人たちの存在に、
静かに目を向けてみたいと思う。

選ばれることに疲れたこの社会の片隅で、
選ばれなくても灯しつづけることにこそ、
“問いを生きる”という営みの希望が、あるのかもしれないから。

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