”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 赦しの圏外 》

プロローグ:

赦されないまま生きていく、ということがある。

どれだけ悔やんでも、言葉にしても、戻らないものがある。

それでも人は、生きていく。

過去とともに、過ちとともに、沈黙のような記憶を抱えて。

Vol.0|過ちは、共に生きていくもの

あれは、本当にあれでよかったのか?

ふとした拍子に、過去の自分の言葉や態度を思い出して、
心の奥が少しだけざらつくことがある。

あのとき、あの場で、あの判断は本当に正しかったのか。

誰かの気持ちを慮っていたつもりで、
実は自分の安心を守ろうとしていただけだったんじゃないか。

言葉の端々に、どこか「わかっているつもり」が滲んでいたんじゃないか。

その場では、最善を尽くしたと思っていた。
でも、最善であることと、誰かを傷つけなかったことは、
まったく別の話なのだということに、後になって気づかされる。

そしてまた、静かに問いが返ってくる。

──あれは、本当に、あれでよかったのか?

反省は、共にあるもの

反省は「する」ものではなく、
たぶん「共にある」ものなのだと思う。

いつも自分の横に、黙って座っているような。
距離はあるのに、目線はいつも感じているような。

そんなかたちで、自分の中に居続ける。

「ちゃんと反省しています」と言葉にしても、
それで何かが終わるわけじゃない。
むしろ言葉にすることで、自分の内側から遠ざけてしまうこともある。

反省というのは、なにか具体的な行動や処理ではなく、
ただ「これでよかったのか?」という問いが、
これから先の選択のそばに居てくれること。

決して後ろめたさではなく、静かな注意深さとして。

それが、自分という不完全な存在を、
少しずつ育ててくれる気がしている。

無自覚だった前提の重み

気づかぬうちに人を傷つけてしまうのは、
ほとんどの場合、自分の中にある“無自覚な前提”によるものだ。

無意識の常識、無意識の正義、無意識の余裕。
その「無意識さ」こそが、誰かの声を遠ざけてしまう。

あとになって気づいて、
その無自覚がもたらした痛みに思い至るとき、
自分だけが成長しているような顔はできない。

「気づけたからOK」ではなく、
「気づけなかったときに、すでに誰かが傷ついていた」ことを
まっすぐ見つめるしかない。

その重さに触れることなく、自分の成長を語るのは、
どこか不誠実だ。

赦されたい、という気持ちの奥に

ときどき、「赦してほしい」と思うことがある。

けれど本当は、赦しを求めるその気持ちの中に、
どこかで“自分のため”が混じっていることも、知っている。

赦されることで、自分の物語を終わらせたくなる。

でも、相手には相手の時間がある。
忘れられないということには、
その人の痛みと記憶が折り重なっている。

そのことを思えば、赦されるかどうかは自分が決めることではない。

だから、「赦されたい」より先に、
「忘れない」ことができるかを、自分に問いたい。

忘れないという誠実さ

人は、失敗も、過ちも、罪も犯す。
そしてそれは、どれだけ後悔しても、なかったことにはできない。

ただ、なかったことにしようとしないこと。
忘れようとせず、ただ共にあることを受け入れること。
その態度こそが、誠実さの入り口ではないだろうか。

罪を背負うことは、裁かれることではない。
赦されることを前提にするのでもない。

ただ、自分がしてきたことに対して、
静かに責任を引き受けて生きていく、ということだ。

それは、自己否定ではない。
むしろ、そこからしか育たない優しさや、静かな強さがある。

自分という未熟と、共に生きる

自分は未熟だ。
だからこそ、間違えるし、傷つけもする。

その未熟さを、自分の中に留めておけるなら、
誰かの痛みに、少しだけ敏感になれる。

「もう二度と間違えない」という自信よりも、
「また間違えるかもしれない」と思える慎重さを、
自分の中に育てていたい。

過ちは、拭い去るものではなく、
共に生きていくものなのだと思う。

そのようにしか、人は人に優しくなれないのかもしれない。

または

結局のところ、その未熟さと一緒にしか、人は優しさを育てられないのだと思う。

Vol.2|「赦し」がないまま、それでも生きていくということ

■ 赦されなかったという現実から始まる問い

「あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました。
だからどうぞ送金はやめてください。
あなたの文字を見るたびに、主人を思い出して辛いのです。」

さだまさしの歌『償い』の一節が、ふと胸に残ることがある。

これは“赦し”ではない。
むしろ、赦していない、赦せないという感情の輪郭が、はっきりとそこにある。

でも、不思議なことに、そこには怒りや責めではなく、
ただ、深い「痛み」があるように感じられる。

その痛みの中に、“赦す”という言葉では到底包みきれない、
人の複雑な感情が静かに沈んでいる。

■ 赦されることを求めるのは、誰のためか

反省のかたちを取っていても、
その裏に「許してもらいたい」という気持ちがあるとき、
それは本当に反省なのか、どこか取引的なものに変わってしまうことがある。

「これだけのことをしたんだから、許してくれてもいいはずだ」
そんなふうに思ってしまった瞬間、
罪の重さではなく、自分の都合が中心になっている。

誰かの痛みを想うということと、
その人に“許してほしい”と願うことは、似て非なるものだ。

赦しは相手の自由にゆだねるもの。
その自由さの中で赦されなかったとしても、
そのことに耐える覚悟を持ってはじめて、
人は自分の過ちと向き合うスタート地点に立てるのかもしれない。

■ 罪を背負うとは、赦されることではない

罪は、拭えるものではない。
時間が経ったから、相手が何も言わなくなったから、
それで「許された」と思うのは、とても一方的な解釈かもしれない。

自分が犯した過ちと、それによって生まれた痛み。
その事実がある限り、たとえ赦されなくても、
その罪と共に生きるしかないという地点がある。

罪を引きずることが、自己肯定感を下げるのではない。
むしろ、引きずりながら生きるという選択のなかに、
人としての深みや静けさが宿っていくこともある。

自分を責め続けることが正しいわけでも、清いわけでもない。
けれど、軽々しく“忘れる”ことを選ばない強さが、
ときに人を優しくする。

■ 赦しのない世界でも、人は歩いていけるか

もしかすると、
赦されなかったという事実と共に生きていくことこそが、
本当の意味での“償い”なのかもしれない。

許しを得ることで自分を救おうとするのではなく、
許されなかったことに耐えることで、
誰かの苦しみに静かに寄り添うことができるようになる。

赦しのない世界でも、
それでも誰かを思い、自分を問い続け、
歩いていくという選択がある。

Vol.3|無自覚という罪と、自己肯定感について

知らなかったでは済まないという地点

誰かを傷つけてしまった──その事実に気づかなかった。
無自覚という壁は、しばしば見えないまま存在し、知らぬ間に人を傷つけてしまう。

けれど「知らなかった」という事実は、決して免罪符にはならない。
むしろその無知が、重い罪の土台となってしまうのだ。

傷つけられた側の痛みは消えない。
心の奥底に深く刻まれ、時間が経っても簡単に薄れるものではない。

そしてそれを知ったとき、私たちはもう決して元には戻れない。
無自覚であった過去は消せないし、そこに積み重なった傷もまた消えない。

それはとても苦しく、重い現実だ。
しかし、だからこそ無自覚なままに居続けることが許されないということでもある。

知らないでは済まされない。
知らなかった、に押しつぶされることなく、向き合わねばならない。

■ 気づいたからと言って、それで済むわけではない

無自覚であったことに気づいた瞬間が、反省のスタート地点だろう。
だがそれは、ただの始まりにすぎない。

反省はするものではなく、共に生きるものだと言ったが、その通りだと思う。

気づくことは罪の重さを認識することでもある。
だが、気づいただけでその過去が帳消しになるわけではないし、誰かの許しが得られるわけでもない。

そこからどう生きるかが問われるだけだ。

罪は背負い続けるしかない。
その痛みも抱えたまま、生きていくしかない。

この事実に押しつぶされそうになりながらも、なお前を向く。
それが人間という存在の矛盾であり、悲しみであり、ある種の強さなのかもしれない。

■ 罪を背負うことと、自己否定は違う

罪を背負うことは、必ずしも自己否定や自己嫌悪を意味しない。
むしろ、罪と共に生きることで自己肯定感の形が変わることもある。

自己肯定感という言葉が一人歩きしやすい現代において、
過ちを認めることと自分を否定することを混同しやすいが、そこには大きな違いがある。

罪や過ちを無かったことにするのではなく、
それらと共にいることを選びながら、
自分という存在を丸ごと抱きしめていく。

それは自己否定ではなく、
「自己受容」の深く静かな形であると言えるかもしれない。

自己肯定感を保つために過去を忘れようとするのではなく、
過去の傷を隠さず、その存在を認めた上で生きていく。

それが、人が本当の意味で自分を肯定することの一つのかたちではないだろうか。

■ 優しさとは、忘れないことかもしれない

罪や過ちを引きずることは、決して負の側面だけを抱えるわけではない。
忘れないことで、私たちは過去の痛みや経験から学び、
より深い優しさや思いやりを育てていける。

もちろん、忘れることも癒しにはなるだろう。
だが忘れないことは、別の種類の強さや静けさをもたらす。

それは、自分の過去の影と向き合いながら歩むこと。
罪と共にあることで、より人間らしい深みや温かさを獲得していく道筋。

そして、そうした罪の記憶があるからこそ、
人は人に優しくなれるのではないか。

深い傷と共に生きることが、
そのまま優しさとつながっていくのかもしれない。

Vol.4 補記|多様な視点と共にあることの意味

このコラムで描いた「罪を背負い共に生きる」という思想は、
決して万人にとって軽やかなものではない。

過去の過ちをいつまでも意識し続けることは、
息苦しさや重圧を感じる人もいるだろうし、
「忘れることも大切だ」との声があっても不思議ではない。

さらに、「赦し」の役割を軽視していると感じる方もいるかもしれない。
被害者にとっては謝罪や償い、そして赦しが不可欠であり、
それが関係性修復の道でもあるからだ。

また、「罪」という言葉が指す範囲は法的な意味から個人的な後悔まで幅広く、
解釈によって印象が大きく変わることも念頭に置きたい。
自己の内省に重きを置くあまり、
他者との関係改善を疎かにしてしまう印象を与えることもあるかもしれない。

それでも、このコラムが問いかけたいのは、
傷つけた事実を否定せず、共に生きる覚悟と誠実さである。

理想論や綺麗事と受け止められても、
そうした思考のプロセスが誰かの内面に届き、
新たな理解や優しさの芽を育むきっかけになることを願ってやまない。

多様な視点が交差する場所だからこそ、
このテーマは語り続ける価値があるのだろう。

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