”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 次の「扉」は、気持ち悪さの先にある 》

―内省と問いが、脳を変えるとき —

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プロローグ:

人の厚みは、
答えをたくさん持っていることでは生まれない。

矛盾や違和感をそのまま抱え、
問いのままでいられる人に、
静かににじんでいくものだ。

脳は楽なルートを選びたがり、
見方や感じ方も気づかぬうちに固定化していく。

だからこそ、
違和感をごまかさず、
少しだけ留まる時間が必要になる。

このコラムは、
そんな揺れたままでいる自分に、
そっと寄り添うための話。

Vol.0|薄っぺらさは、その人だけの問題だろうか

「この人、なんだか薄っぺらいな」
そんなふうに感じたことは、誰にでもあるのではないだろうか。

表面的な言葉、借り物の思想、無理に整えた態度。
そうしたものに触れたとき、
私たちはどこか、軽さや薄さを嗅ぎ取ってしまう。

薄さがにじみ出る理由は、一つではない。
ときに、それはその人自身の内側の問題でもあり、
ときに、その人が置かれた場や関係性の影響でもある。

「わからない」と言えない空気や、
問いが立たない関係性にいると、
人は知らず知らずのうちに、薄さをまとってしまう。

同じように、問いや内省を手放し、
正解に寄りかかりすぎても、
厚みは自然と失われていく。

だからこそ、「内省」という営みを、
自分の内側にも、場にも根づかせられるか。

その問いから、この話を始めたい。

Vol.1|問いが立たないと、薄さがにじむ

厚みは、目に見えないところに滲む

人の厚みは、言葉では説明しきれないものだ。

知識や経験、実績がどれだけあっても、
そこに厚みがあるかどうかは別の話になる。

逆に、目立つ肩書きがなくても、
不思議とその人から静かな重みや奥行きを感じることがある。

厚みというのは、もっと見えにくい場所、
つまり、その人が問いを持ち続けているかどうかに、
静かににじみ出てくるものだと思う。

問いを持つ人には、言葉の間や立ち居振る舞いに、余白がある。
揺れていい、と自分に許せているからだ。

矛盾や未整理なものを抱えたまま、
それでも前に進める人。

そんな姿勢そのものが、厚みとなって表れていく。

■ 問いが消えると、人は薄くなる

問いを持ち続けるのは、簡単なことではない。

特に、自分を取り巻く場や関係性によって、
問いは気づかぬうちに、静かに消えていく。

「わからない」と言いづらい空気の中で、
問いは立ちづらくなる。

正解や答えばかりが求められる場では、
揺れを抱えたままでいることは難しい。

そうして人は、問いを置き去りにし、
自分を守るために、薄さをまとい始める。

場が問いを許さなくなると、関係性も浅くなる。

浅さの中では、安心を装うために、
軽い言葉や借り物の態度が増えていく。

結果として、人の輪郭も、
どこか平面的に見えてしまう。

■ 自分自身の内側も、問いを拒むことがある

問いが消えていくのは、
場や関係性のせいだけではない。

自分の内側でも、
問いを遠ざけたくなる瞬間がある。

「もう、わかってしまったことにしたい」
「揺れ続けるのは、しんどい」

そんな感覚が、誰の中にもある。

問いを持ち続けるというのは、
常に安心から遠ざかる営みでもある。

不確かさと一緒にいる時間は、決して楽ではない。

けれど、その時間を避け続けることで、
人は薄さをまとうことに、知らず知らず慣れていく。

■ 厚みは、問いが立つ余白の中に生まれる

問いを持ち続けられるかどうかは、
自分の在り方と、場や関係性、
その両方に影響される。

厚みとは、問いが消えずに残り続けている人に、
静かににじみ出てくるもの。

そして、問いが立つ余白を失わない場や関係こそが、
その人の厚みを育てる土壌になる。

問いのある場所、問いを許せる自分。

それを少しずつ取り戻していくことが、
薄さから距離を置く、最初の入り口なのだと思う。

Vol.2|内省は、スッキリさせないための営み

答えを急ぐと、厚みは消えていく

違和感を覚えたとき、
人はつい答えを出したくなる。

白黒をはっきりさせて、
スッキリしたいと思ってしまうのは、
ごく自然な反応だ。

自分の中に、曖昧なものや、
はっきりしないものが残り続けるのは、
居心地が悪い。

ただ、
その居心地の悪さをすぐに埋めようとすると、
問いは立たなくなる。

問いが立たなければ、厚みは育たない。

曖昧さを放置できる人だけが、
問いを抱え続けられる。

問いを抱え続けられる人だけが、
厚みを滲ませていく。

安心したい、スッキリしたいという感情に、
すぐ飛びついてしまうと、
そのまま人は、薄く軽くまとまってしまう。

内省は、
その衝動を少し脇に置き、
揺れたままでいられる時間を持つことでもある。

■ 脳が“スッキリ”を求めたがる理由

そもそも、
私たちの脳は、違和感や曖昧さを嫌う仕組みになっている。

脳は常に、世界を予測しながら処理しているからだ。

人と会話をするとき、
仕事をするとき、
日常のあらゆる場面で、

私たちは無意識のうちに
「こうなるだろう」と予測を立てている。
たとえば

  • 「この人は、こういう反応をするはずだ」
  • 「この行動をしたら、こういう結果が返ってくるだろう」

そうした予測が外れると、
脳はエラー信号を発する。

このときに生まれるのが、
違和感やモヤモヤ、不安といった感覚だ。

■ 予測が外れた瞬間こそ、厚みの入り口

予測が外れると、人は不快になる。
その不快をすぐに埋めたくなるのは、脳の構造として自然なことだ。

ただ、
その不快をすぐに埋めてしまうと、
自分の見方や感じ方は、今までの回路のまま変わらずに繰り返される。

逆に、
不快なまま少しだけ留まることができたとき、
脳は「新しい理解が必要だ」と判断し、
回路を組み替えようとし始める。

この仕組みを
予測符号化理論(Predictive Coding)
と呼ぶ。

内省とは、
この「気持ち悪さ」をただの不快で終わらせず、
問いとして抱え続ける時間を持つ営みでもある。

■ スッキリしなくても、問いが残っていればいい

すぐに答えを出せなくてもいい。
問いが残っていることそのものが、厚みに繋がっていく。

スッキリしなさを抱えたまま進むことができるかどうかが、
内省の質を大きく左右する。

安心のために、問いを消すのは簡単だ。
問いを残す勇気を持つことは、
厚みを育てるために欠かせない時間でもある。

内省は、
自分の中の矛盾や違和感と、すぐに手打ちしないための営みだ。

その不安定さの中でしか、
人の厚みは、静かににじんでこないのだと思う。

Vol.3|エラー信号を、すぐに埋めなくてもいい

脳は“省エネ”で世界を処理している

私たちの脳は、常に膨大な情報を処理している。
そのすべてを一から丁寧に受け止めていては、とても追いつかない。

だから脳は、省エネのために
「こうなるはずだ」という予測を立て、
実際の出来事と照らし合わせながら、世界を理解している。

この仕組みについては、前の章でも少し触れた。

脳は、これまでの経験や、無意識の思い込みをベースに、
目の前の世界を「だいたいこんなものだろう」と理解しようとする。

そのおかげで、私たちは効率よく物事を判断できる。

ただ、この “だいたい” が外れたとき、
脳は違和感を覚える。

そしてその違和感は、
不快感やモヤモヤ、不安というかたちで、
意識に浮かび上がってくる。

予測が外れると、脳はエラー信号を出す

たとえば、こんな場面を思い浮かべてほしい。

「この人は、こう返してくれるだろう」
と思って話しかけたのに、全く違う反応が返ってくる。

「こうすれば、こういう結果が出るはずだ」
と行動したのに、思い通りにならなかった。

こうした瞬間、脳の予測は外れ、エラー信号が発せられる。
これが、私たちが感じる違和感や不安、モヤモヤの正体だ。

エラーが生じたとき、脳は警戒する。
「何かがおかしい」「危険かもしれない」と、無意識に構え始める。

だからこそ、人は違和感を “異常” だと感じやすい。
その不快を、すぐに埋めたくなるのも、自然な反応だ。

■  不快をすぐに埋めてしまうと、見方は変わらない

違和感を覚えたとき、多くの人は
その不快をすぐに埋めようとする。

たとえば:

  • 自分の中で無理やり解釈を加え、すべて納得したことにしてしまう
  • 相手や環境を、単純に「正しい」「間違っている」で整理しようとする

こうした行動は、一時的な安心感をもたらす。

ただ、その安心の裏側では、脳の回路は今まで通りのまま変わらず、
自分の見方や感じ方も、固定化されたままになる。

■ エラー信号は、脳が変わる入口でもある

脳は、エラーが生じたときにこそ、
「新しい理解が必要だ」と判断する仕組みを持っている。

このとき、脳の中では変化の準備が始まっている。

もし不快感や違和感をすぐに埋めず、
しばらくそのまま留まることができれば、

脳は、これまでの理解や回路では足りないと気づき、
新しい神経接続を探し始める。

このプロセスを経て、
脳は見方や感じ方を、柔らかく組み替えていく。

これが、次章で触れる
シナプスの新生や神経可塑性につながっていく。

■ 気持ち悪さに留まれる人は、厚みがにじむ

違和感を感じたとき、
すぐにスッキリさせようとせず、
問いのまま抱えていられる人には、
自然と厚みがにじんでいく。

矛盾や未整理なものを、そのまま抱えたままでいる姿勢は、
見方や感じ方の固定化を防ぎ、
自分自身を少しずつ柔らかく変えていく。

違和感は、脳が進化しようとする合図でもある。

すぐに埋めなくてもいい。

そのまま少しだけ、その場所に留まってみること。

それだけで、
脳も、自分の見方も、静かに変わり始める。

Vol.4|脳は、不快から組み替わる

新しい理解は、違和感の中から始まる

違和感やモヤモヤ、不快感。
こうした感覚は、できれば避けたいものとして扱われがちだ。

ただ、脳の仕組みを見つめていくと、
むしろその不快こそが、
見方や感じ方を変えるための入り口になることがわかる。

脳は、予測が外れたときに「エラー信号」を発する。

それをすぐに埋めずに、
しばらく抱えたままでいられたとき、
脳は、今までの理解や回路では足りないと判断する。

その瞬間から、
脳の内部では、静かな組み替えが始まっている。

■ シナプスの新生と神経可塑性

脳の組み替えを支えているのが、
シナプスの新生と神経可塑性(プラスティシティ)という仕組みだ。

シナプスとは、神経細胞(ニューロン)同士をつなぐ接続部分のこと。

私たちが新しいことを学んだり、
考え方を柔らかく変えたりするとき、
このシナプスが新しく生まれたり、つながり方が変わったりする。

この柔軟な変化を、神経可塑性と呼ぶ。

違和感や不快感に少しだけ留まることで、
脳は「新しい理解が必要だ」と判断し、
シナプスの新生が促され、
見方や感じ方を変える準備が整っていく。

つまり、厚みは、不快を避け続けることで手に入るものではない。

むしろ、不快なまま、問いのまま留まる時間の中で、
静かに脳が組み替わり、見方に奥行きが生まれていく。

■ 違和感を避けることは、変わらないことを選ぶこと

違和感やモヤモヤを感じたとき、
その不快をすぐに埋めたくなる気持ちは、ごく自然なことだ。

ただ、そこで踏みとどまれるかどうかが、
見方や感じ方を変えられるかどうかの、分かれ道になる。

すぐに結論を出し、
既存の理解のまま物事を処理すれば、脳は楽ができる。

その分だけ、自分の輪郭や視点は、変わらずに固まっていく。

変わらないことを選ぶのは、安心を得るためには便利だ。

ただ、その安心の裏側では、
厚みは、静かに失われていく。

■ 気持ち悪さを、育てる時間に変える

違和感やモヤモヤに留まれる人は、
脳の仕組みそのものを、味方につけている。

問いのまま抱え、
気持ち悪さをごまかさずにいられる人には、
自然と見方の柔らかさと、言葉の奥行きがにじんでいく。

安心を求めすぎず、問いを残すこと。
不快をすぐに埋めず、違和感に少しだけ留まること。

その時間の中で、
脳も、自分も、静かに組み替わっていく。

Vol.5|自分の見方は、自分で選んでいるとは限らない

見方や感じ方は、思っているより自動的にできている

「自分はこう感じる」
「私はこう考える」

そうした見方や感じ方を、
私たちは“自分自身”だと思いがちだ。

ただ、脳の仕組みを見つめていくと、
その実感も、少しずつ揺らいでくる。

脳は、これまでの経験や環境の中で、
無意識に回路を組み替えてきた。

違和感に留まれたときは、新しい回路が生まれ、
反対に、不快をすぐに埋めてしまったときは、
今までと同じ回路が、強化されていく。

そうしてできあがった回路が、
私たちの見方や感じ方の“下地”になっている。

つまり、今の自分の見方や感じ方は、
すべて自分が意識的に選び取ったものとは、限らないということだ。

■ 脳は「楽なルート」を選びたがる

脳は、省エネのために
“楽なルート”を好む。

見方や感じ方も、
その影響を強く受けている。

この“楽なルート”の下には、
気づかないうちに積み重なった
無自覚の前提が横たわっている。

たとえば:

  • 今までと同じ考え方や価値観で、
    物事を理解しようとする
  • 自分にとって安心できる情報だけを集めて、
    違和感を無視する
  • 同じような考え方の人とばかり、
    つながろうとする

こうした行動は、
無意識のうちに「楽なルート」に
乗っかっている状態だ。

■ 固定化に気づけるかどうかが、厚みの分かれ道

見方や感じ方が
完全に自分の意思だけで決まっていると思い込んでいると、
違和感や問いに耳を傾ける余白がなくなる。

反対に、
自分の見方や感じ方が、
無意識の回路の影響を受けていると気づけたとき、
少しだけ立ち止まることができる。

「これは本当に自分が選んだ見方なのか?」
「脳の楽なルートに、ただ乗っかっているだけじゃないのか?」

そんな問いが立つ瞬間、
自分の厚みを取り戻す小さな入り口が生まれる。

■ 無自覚の前提に、違和感が入り込む

自分の見方や感じ方は、
脳の“楽なルート”に沿って形づくられていく。

そして、そのルートの下には、
たいてい無自覚の前提が横たわっている。

「こういうものだろう」
「こうあるべきだ」
「これは正しい」

そうした前提が、
自分の内側に知らず知らず積み重なり、
その上に、今の見方や感じ方がのっている。

問いを持ち続けることや、
違和感に留まることは、
そうした無自覚の前提を一枚ずつ剥がし、見直していくための時間でもある。

自分の見方を、完全にコントロールすることはできなくても、
無自覚の前提に気づけるだけで、
見方や感じ方は少しずつ変わっていく。

その営みの中にしか、
自分の厚みは育たないのだと思う。

Vol.6|問いのまま、揺れている自分でいい

違和感や問いを抱えたまま進むのは、落ち着かないものだ。

つい答えを出したくなったり、正しさにしがみつきたくなったりする。

不快をすぐに埋めてしまえば、安心は手に入る。

ただ、その安心と引き換えに、見方や感じ方は硬くなり、

自分の厚みは、静かに失われていく。

だから私は、揺れている自分を、そのまま許したいと思う。

問いのまま、違和感のまま、曖昧さと一緒にいる時間が、

見方や感じ方を静かにほぐしていく。

自分の中に無自覚の前提があることを忘れずに、

気づき続けることを手放さない。

厚みは、答えを持つことで生まれるものではない。

むしろ、問いのままでいられる強さと、揺れたままでいられる余白の中に、

少しずつにじんでいくものなのだと思う。

今すぐスッキリしなくてもいい。

気持ち悪さをごまかさず、そのまま抱えて歩いていくこと。

その営みそのものが、静かに自分を変えていく時間になる。

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