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《 ボールを追う群れ 》
- 判断が拡散するとき -

プロローグ:
ボールが転がると、群れは一斉に走り出す。
その動きは、まるで園庭の子どもたちか、角砂糖に集うアリのよう。
私たちは、いつからか「反応すること」に安心を見出し、
「自分で考えること」を後回しにしていないだろうか。
判断が拡散し、空気が「正しさ」を形づくるとき、
思考はどこへ向かうのか。
群れの中で、静かに立ち止まる自由について考えてみたい。
● まるで角砂糖に群がるアリのように
ある種の話題が社会を賑わせるとき、
人びとの反応はとても似通って見えることがある。
どこかでボールが転がれば、群れは一斉にそちらへと走り出す。
その光景は、まるでサッカーを始めたての少年たちがボールを追いかける瞬間にも似ているし、
角砂糖に群がるアリの整然とした動きにも通じている。
そこに悪意があるわけではない。
むしろ、何かに反応するということは、生きている証なのかもしれない。
ただ、その「反応」は、
どれほど自分の意志に根ざしているのだろうか。
● 群れの中では、判断が薄まる
人が群れの中にいるとき、判断は往々にして希薄になる。
ある行動をとるとき、「それが正しいと信じたから」ではなく、
「みんながそうしているから」といった理由が、思いのほか強く作用することがある。
これは自然なことかもしれない。
なぜなら、「群れにいること」そのものが、安全の感覚をもたらすからだ。
ひとりで立ち止まり、異なる方角を見つめることは、とても心細い。
だからこそ、群れが向かう方向に、
私たちはつい身体を向けてしまうのかもしれない。
● 「正しさ」が集合されていく過程
ある問題について、誰かが「こうするべきだ」と言い始める。
やがてそれに頷く声が増え、気がつくと、それが一つの「正しさ」として定着していく。
このとき、その「正しさ」は、本当に熟慮の末に導かれたものだろうか。
それとも、不安や同調圧力のなかで、もっとも無難で、もっとも安心できる「空気」として形成されたものだろうか。
もしかすると私たちは、判断の責任を群れに委ねることで、
自分の内側の不安を処理しようとしているのかもしれない。
● 異なる選択は、なぜ脅威と感じられるのか
ときに、群れから外れた者が「異端」と見なされ、強く攻撃されることがある。
多数と違う選択をすることが、まるで「敵対的な行為」であるかのように扱われる場面だ。
だが、それは本当に「反社会的」な態度なのだろうか。
あるいは、群れの中にある不安が、自らの選択を揺るがされないようにと、他者に対して投影された結果ではないだろうか。
選ばなかった人を見て「なぜ?」と問う代わりに、
「おかしい」「ズルい」「危険だ」とラベルを貼る方が、
ずっと簡単で、ずっと安心なのかもしれない。
● 自分で考える、という選択肢
一斉にボールを追う群れの中にいても、立ち止まる自由はあるはずだ。
ほんの一瞬でも、「これは自分の判断か?」と問い直す時間を持つことができれば、
世界は少し違って見えるのかもしれない。
それは、孤独な行為でもある。
けれど同時に、思考という営みの最も根源的なかたちでもあるように思う。
答えを出すより前に、問うことをやめない。
その姿勢こそが、「反応する群れ」から抜け出すための、
ささやかで確かな第一歩になるのではないか。
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