理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 敏感さは盟友 》

- 敏感を味方にする -

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プロローグ:

敏感であることは、生きづらさと共に語られやすい。小さな言葉に傷つき、場の緊張に飲み込まれ、心をすり減らしてしまう。だからこそ「鈍感になれ」という助言が差し出される。

だが敏感さは、ただの弱さではない。扱い方を学べば、見えない兆しを掴み、まだ形にならない声を聞き取る力になる。敏感さは敵ではなく、共に歩む盟友だ。

Vol.0|鈍感力は一時しのぎの対処療法

Vol.0|鈍感力は一時しのぎの
対処療法

— 繊細さという力 -

一時期「鈍感力」という言葉が流行したことがある。気にしすぎる人、考えすぎる人に向けて、「もっと鈍感になれば楽に生きられる」という処方箋として提示されたものだ。

確かに、外からの刺激に過剰に反応してしまう人にとっては、「受け流す」ことが心を守る手立てになる場合もある。小さな言葉に傷つきすぎず、些細な態度に振り回されずに済むなら、それは一つの救いだろう。

一方で、その救いは「敏感さをなかったことにする」という危うさを孕んでいる。敏感さそのものが欠点であるかのように扱われてしまうと、本来そこで働いている感覚や、他者のわずかな変化を察知する力まで閉ざされてしまう。

鈍感になることは、決して万能の答えではない。むしろ、敏感さを「抑え込む」ことでしか生きられないとしたら、人は自分が持っている大切な資質をも失ってしまうかもしれない。

だからこそ「鈍感力」という言葉には、どこか薄い違和感が残るのだ。敏感さを消すのではなく、どう扱い、どう共に歩むのか。その問いの方が、ずっと現実的で切実な課題ではないだろうか。

Vol.1|敏感さは盟友

— しんどさの奥に潜む洞察の源泉 -

◾️ 自分を試す存在

敏感さは、他者を傷つけるものではない。しかし、ときに持ち主自身を追い詰める。

相手の一瞬の表情に反応して眠れなくなったり、場の緊張を一人で背負い込んで疲れ果ててしまったり。繊細な感受性は、外に向かうよりも内に跳ね返り、持ち主を試すかのように働く。

■ 盟友“テスカトリポカ”

アーノルド・ミンデル著『シャーマンズボディ』に登場する「テスカトリポカ」は、人が避けたい影や恐怖を映し出す存在だ。その姿に向き合うのは苦しいが、そこから目を逸らさずにいることで、新しい可能性が開かれていく。

敏感さも同じだ。しんどさを伴いながらも、共に歩むことで深い洞察をもたらしてくれる。それは厳しいが確かに「盟友」と呼べる存在である。

■ 魔剣という比喩

この盟友は、優しくはない。扱いを誤れば、自らを傷つけてしまう。その危うさは、強力な魔剣に似ている。

切れ味が鋭すぎるために、常に持ち主の手の中で試される。敏感さもまた、力と危うさを同時に抱えている。

■ 扱い方を学ぶ

敏感さをなかったことにすれば、楽になるかもしれない。しかし同時に、他者には見えない兆しを掴む力も失う。

だから必要なのは、抑え込むことではなく、扱い方を学び続けることだ。盟友としての敏感さを尊重し、魔剣を磨くように鍛えながら共に歩む。

敏感さは盟友だ。危うさを含んだその刃と向き合い続けることが、この資質を生かす唯一の道になる。

Vol.2|演じる力と憑依力

— 嫌われ役が場を動かす -

誰も座りたがらない席

会議の場で、誰もが「自分は被害者だ」と主張している時がある。責任は自分にはないと、互いに譲らないまま時間だけが過ぎていく。

そのとき、ひとつの席だけが空席のまま残る。「加害者」の席だ。誰もそこに座らない限り、議論は前に進まない。

敏感さを持つ人は、その停滞にいち早く気づいてしまう。場が動かない理由も、必要とされている役割も見えてしまう。だからこそ、あえて「加害者」の席に座り、嫌われ役を引き受けることができる。

■ 社会のなかの「加害者」という役

これは会議室の中だけの話ではない。社会全体の流れの中でも、誰かが「加害者」の役を担わなければ動かないことがある。

たとえば、事故が繰り返される危険な交差点。長く信号設置が求められていたにもかかわらず、行政の判断は先送りにされていた。

そんな場所で悲しい事故が起き、命が失われた。その出来事を契機に信号が設置され、以後は事故が一切起きなくなった。

その人は加害者として裁かれ、人生は大きく崩れていった。犠牲の美談にすることはできないし、誰もそんな役を望んでいない。

それでも、世界のプロセスが動いたのは、その人が「加害者」の席に座らされたからだ。

■ 演じることと憑依すること

この構造は、演技の世界にも通じる。俳優が役を「演じる」だけでは、観客は納得しない。その人が「役そのもの」に見えるとき、場が初めて動き出す。演技力を超えて、役に憑依する力が求められる。

同じように、現実の場でも「自分をどう思われるか」よりも、「場を動かすこと」を優先して役を引き受ける瞬間がある。そのとき人は、ただ役を演じるのではなく、その役を生きる存在となる。

■ 扱い方を学ぶ

敏感さは、この憑依の力を支えてくれる。場の緊張や人の感情を鋭く察知するからこそ、必要な役割に身体ごと入り込むことができる。

しかし、それは常に負担を伴う。だからこそ大切なのは、敏感さを押さえ込むのではなく、その力の扱い方を学ぶことだ。

演じきる力と憑依力。その両方を手にすることで、敏感さは場を進める武器となり、同時に自分自身を支える軸ともなっていく。

Vol.3|草薙剣に学ぶ二面性

— 畏怖と尊崇を併せ持つ感性 -

 怪物の体から現れた剣

日本神話に登場する草薙剣は、もともと「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれていた。スサノオが八岐大蛇を退治したとき、その尾の中から現れた剣だ。

怪物の体内という異様な場所から取り出されたその剣は、最初から「畏怖」と共にあった。聖なる出自というより、むしろ「恐ろしいものに宿る力」として人々に受け止められていた。

■ 魔剣から神器へ

後にこの剣はヤマトタケルに授けられ、草を薙ぎ払って命を救ったことから「草薙剣」と呼ばれるようになった。人を救う武器として語られ、国家を支える三種の神器のひとつへと位置づけられた。

つまり草薙剣は、「魔剣」としての畏怖と「神器」としての尊崇という、二つの相反する顔を持ち続けた存在なのだ。

■ 敏感さの二面性

敏感さもまた、同じ構造を抱えている。扱いを誤れば、持ち主を疲弊させる。しかし、その鋭さがなければ掴めない兆しや、受け取れない声がある。

畏怖の対象にもなりうるが、磨かれれば確かな力になる。敏感さは、ただの弱点でも、ただの強みでもない。草薙剣のように、危うさと尊さを同時に抱える資質なのだ。

■ 扱い方を学ぶ

大切なのは、その二面性を否定せずに受け止めること。危うさを排除するのではなく、尊さだけに祀り上げるのでもなく、両方をあわせ持つものとして扱い方を学んでいくこと。

敏感さは草薙剣のように、畏怖と共に生まれ、磨かれることで人を支える力になる。その両義的な姿を引き受けるとき、敏感さは確かに「盟友」として立ち現れる。

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