経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

《 ‘大丈夫’の壁を超えて 》

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プロローグ:

「大丈夫」と口にするたび、その裏にあるかすかな不安や疲れを、私たちはそっと飲み込んでいないだろうか。
助けること、与えること、背負うこと。
そこにひそむ“優しさのかたち”を問い直すとき、これまで見えなかった輪郭が、静かに立ち上がってくる。

このコラムは、答えを差し出すためのものではない。
問いのなかを歩き続けるための、手のひらに結ばれた小さな風船のような記録である。

Vol.0|幻想を見つめる

— 風船の話から考えたこと -

ある話との出会い

ある教授が、教室の学生たちに風船を配った。
学生たちはそれをふくらませ、自分の名前を書き、廊下に放り投げた。

教授は言った。
「これから5分以内に、自分の名前が書かれた風船を探してほしい。」

学生たちは懸命に風船を探し回った。
しかし、誰一人、自分のものを見つけることはできなかった。

そこで教授は、言葉を変えた。
「次は、拾った風船を持ち主に返してみてほしい。」

その瞬間から、教室の雰囲気は変わる。
名前を呼び合い、手渡し合うことで、5分も経たずに、全員が自分の風船を手にしていた。

「いい話だな」と思ったあとに

この話を初めて読んだとき、たしかに温かさを感じた。
同時に、すぐにどこか引っかかるものも残った。

「人のために動けば、自分の幸せも見えてくる」
たしかに、そうかもしれない。

でも――
「自分はもうそれをやっている」と感じたときに、そこで思考を止めてしまう自分がいた。

無意識の「安心感」は、どこから来るのか

「私は普段から人に優しくしている」
「ちゃんと気配りしているつもりだ」
「だから、自分はこの話の“後者側”にいるはず」

そんなふうに、自分を「すでに理解している側」に置くことは、とても簡単だ。

そして、たぶん、その感覚こそが、問いからもっとも遠い場所なのかもしれない。
気づかぬうちに、「大丈夫」の内側に立ってしまっている。

そのとき、私たちは本当に「誰かの風船」を手渡していただろうか。
それとも、「誰かに見つけてもらうこと」を、静かに待っていただけなのだろうか。

教訓ではなく、「問い」として残すなら

この風船の話を、「いい話だった」で終わらせないためには、答えよりも先に、問いをそっと手元に置いておく必要があるのかもしれない。

・私は、ほんとうに他者の名前を読んで、風船を手渡してきただろうか。
・それとも、「私は気づけている側」だと、どこかで信じて安心していなかったか。
・「親切であろうとする自分」を守ることが、誰かを見えなくしてはいないだろうか。

問いには終わりがない。
だからこそ、そこから歩くことができる。

“わかっているつもり”の、その先に

私たちはたぶん、思っている以上に「理解していること」に安心してしまう。
そして、“わかっているつもり”のその場所こそが、本当はもっとも危ういのかもしれない。

この話に込められたものを、わかったつもりにならず、問いのまま残しておくこと。

「大丈夫」という感覚の奥に、ほんとうに見つめるべきものが隠れている。
そんな気がしている。

Vol.1|弱さをさらけ出す強さ

— 助けを受け入れるという選択 -

「助けて」が言えない理由

人を助けることは美徳とされる一方で、自分が助けを求めることには、なぜか少し後ろめたさがついてまわる。

誰かの役に立つことは誇らしくても、誰かに頼ることには、どこか恥のような感覚がまとわりつく。

それは単なる性格や気質の問題ではなく、社会の中で「強くあること」や「自立していること」を、暗黙のうちに理想とされてきた記憶の積み重ねなのかもしれない。

弱さを「見せること」と「さらすこと」

私たちはきっと、弱さを「見せる」ことすら、自分でコントロールしていたいと思っている。

感情を押し殺すこと。
泣かないこと。
誰かに甘えすぎないこと。

それらを「大人らしさ」として身につけていく中で、知らず知らず、弱さは他人に見せてはいけないものだと信じてきたのかもしれない。

でもそれは本当に、守るべき「強さ」なのだろうか。

支えられることの怖さ

誰かに頼るということは、「自分はひとりでは大丈夫じゃない」と認めることでもある。

それはときに、自分が大切にしてきた「強さ」や「誇り」を、静かに横に置く作業かもしれない。

安冨歩の著書『生きる技法』にもあるように、私たちは社会や他者の目を意識して、「まともに生きる演技」を無意識に続けてしまいがちだ。

だからこそ、弱さをさらけ出すことは、その演技をやめて自分と向き合う勇気にもなるのかもしれない。

壊れてしまう前に

誰かの支えを受け入れるという行為は、自分の輪郭が壊れてしまうことではない。

それどころか、「壊れてもいい」と思えるほどに、自分自身をまるごと許したときにこそ、ほんとうの意味で誰かとつながることができるのかもしれない。

完璧な自分ではなく、いびつで、揺らいで、傷ついている自分だからこそ、誰かの手と自然につながることができるということもある。

いま、こんな問いを置いておきたい

・私は、どれだけ自分の弱さを、自分で認められているだろうか。
・「助けて」と言えたとき、何が怖かったのだろうか。
・助けを受け入れる自分を、信じられるだろうか。

「弱さ」は関係を開く鍵かもしれない

助けを求めることは、恥でも、負けでもない。

それは、「人と関わることの本質」に、ひとつ深く踏み込んでいく選択かもしれない。

そしてその一歩は、もしかしたら、自分自身の「演技」を、そっとほどいていく旅の始まりでもあるのかもしれない。

Vol.2|見えない境界線を超える

— 無自覚の“内なる優越”に気づくこと -

境界線の正体

誰かを助けたいと思うとき。
そこには、たしかにやさしさや思いやりがある。

しかし、そのやさしさの奥に、
「自分は大丈夫」という無自覚な前提が、
そっと忍び込んではいないだろうか。

“わかっているつもり”で差し出した手が、
ほんとうは相手の輪郭を見ていなかった。
そんな瞬間を、私たちは知らず知らずのうちに
生きてしまっているのかもしれない。

安心感は、ときに見えない壁になる。
自分が「ちゃんとしている側」にいる、という静かな確信が、
誰かを「助けられる側」へと分類してしまう。

その線引きは、声高に主張されることはない。
だからこそ気づかれにくく、
社会のそこかしこに、薄く、やわらかく漂っている。

そしてそれは、
とてもやさしい顔をしている。

救命ボートと信仰

ある逸話がある。
裕福で信心深い女性が、豪華客船での旅に出た。
彼女は語る。
「神様が守ってくれているから、私は大丈夫」と。

船は転覆し、彼女は海に投げ出される。
救命ボートが三度、彼女のもとにやって来る。
だが彼女はすべて断る。
「神様の邪魔をしないで」と。

彼女はそのまま命を落とし、天で神に問いかける。
「なぜ助けてくれなかったの?」

神は言う。
「三度、助けようとしたではないか。」と。

この話は、信仰の誤解を描いた寓話のようにも読める。
同時に、
「自分は特別に守られている」という無意識の信念が、
差し出された手を見えなくしてしまった――
そんな「優越のまなざし」についての話でもあるのかもしれない。

やさしさの中にある線引き

人を助けたいと思う気持ちに、悪意はない。
しかし、その中に紛れ込む“安心の位置”には、
ときどき光を当ててみる必要がある。

「自分はいつも人に親切にしている」
「ちゃんと見ているつもりだ」

そんな自負心こそが、見えない壁になる。

その壁が、
誰かの声や痛みを“自分とは別の場所のこと”にしてしまう。

その壁の内側では、
「助ける側」と「助けられる側」に線が引かれていく。

気づくということ

こうした線引きに気づくことは、たやすくはない。
気づかずにいられた頃の方が、楽だったかもしれない。

しかし、あるときふと、
「自分はどんな立場からその手を差し出していたのか?」
「本当に“誰かを”見ていたのか?」と、
問いが胸に生まれることがある。

それは痛みを伴うかもしれない。
しかし、その痛みの先にある問いは、きっと、
新しいまなざしを育てていく。

同じ地平に立つために

「自分は大丈夫」
「自分は助ける側にいる」
その前提を、少しだけほどいてみる。

すると、同じ地平に立つということの輪郭が、
少しずつ見えてくるかもしれない。

助けることも、助けられることも、
本当はもっとゆらぎのあるものだ。

役割ではなく、出会いの中で揺れながら、
ただ、共にいること。

そんなふうに境界線の向こう側とつながる感覚が、
いつか、風のように訪れるかもしれない。

Vol.3|幸せの風船を手渡すということ

— 与えるということの輪郭を見つめ直す -

幸せを「渡す」という行為

誰かのためにと思って差し出した優しさや励ましが、
期待どおりに届かないこともある。

そんなとき、
「相手のためにやったのに」と切なさや苛立ちを感じるかもしれない。

しかし、
そこには知らず知らずのうちに、
“自分が与える側である”という立ち位置が静かに立ち上がっているのかもしれない。

何かを「してあげた」という前提があるかぎり、
それは本当に“渡された”とは言えないのかもしれない。

差し出した風船は誰のものか?

子どもに風船を渡すとき、
それはもう自分のものではなくなる。

しかし、大人の私たちはどうだろう。

助け、支援、共感、やさしさ。
どれも「渡したつもり」でも、
受け取る側にとっては重すぎたり、タイミングが違ったりすることもある。

「与える」という行為には、
「受け取られる」ことを無意識に期待してしまう心が含まれている。

ただ、その期待の裏には、
「どんなリクエストにも、それを受け取らない自由がある」という事実を、
つい忘れてしまいがちな自分がいるのかもしれない。

与える権利があるように、
受け取る自由もまた尊重されるべきものだ。

与えることは、手放すこと

「こうあってほしい」という思いや、
「これが救いになるはず」という期待。
それらをそっと横に置き、
ただ目の前の誰かに向けて差し出す。

受け取るかどうかはもう相手に委ねる。
そこにあるのは、少しの勇気と大きな余白。

幸せや救いは、こちらの手を離れてからしか、
ほんとうには届かないのかもしれない。

自己防衛か、共感か

誰かの苦しみに触れたとき、
それに何か返そうとする自分の動きが、
本当にその人への共感なのか、
それとも自分の不安や正しさを守るための行為なのか。

「助けることで、自分は良い人でいられる」
「何かを与えることで、相手の苦しみから目を背けられる」

そんな構図に無意識に身を置いていないか、
ときどき立ち止まってみたくなる。

与えようとする、その前に

風船は手放さなければ空に昇っていかない。
手放した先でどこへ向かうのかは、
もはや私たちの手の中にはない。

与えるという行為には、
「差し出すこと」だけでなく、
「手放すこと」もまた含まれている。

誰かを救おうとする動きの奥に、
ほんとうにその人を思う気持ちがあるのか。
それとも、自分の中にある何かを満たそうとしているのか。

その問いに向き合うことから、
本当の「与える」が始まるのかもしれない。

Vol.4|背負う必要はない

— “背負い癖”とその手放し -

背負うことで、自分を支えてきた

「自分がやらなきゃ」
「これくらい引き受けるのが当然」
「投げ出すなんて、無責任だ」

そうやって、自分の肩に何かを背負い続けてきた人は多いかもしれない。
それは、誰かの期待だったり、自分自身の誇りだったり。
ときには、「弱音を吐かない自分」でいることすら、背負う対象になっていた。

でも、ふと気づくと、
その荷物が重すぎて、息がうまくできなくなっていることがある。

手放すことは、放棄することじゃない

斉藤和義の曲「大丈夫」の中に、こんな歌詞がある。

「ちょっとだけ増えすぎた重い荷物なんかは置いていこう」

その言葉のやさしさに、肩の力が少し抜けるような気がした。
「置いていこう」という声は、責めるでもなく、励ますでもない。
ただ、もうそんなに頑張らなくていいんじゃない?と、そっと差し出されるような響きを持っている。

荷物を下ろすことは、無責任な行動ではない。
それは、「もう一度、自分の意思で手に取るための動き」かもしれない。


背負いすぎると、見えなくなるものがある

誰かのため、何かのためにと背負い続けるうちに、
「自分がどうしたいか」や「どこまでが自分の責任なのか」が曖昧になっていく。

ほんとうは、「それは自分が全部抱えなくてもいいこと」だったかもしれない。

「頼る」でもなく「投げる」でもない、“ちょうどよく抱える”という感覚を、
いつの間にか失ってしまっていたのかもしれない。

背負いなおす自由を取り戻す

荷物を置いてみたときに、
「やっぱりこれは、自分が引き受けたいことだ」と思えるなら、
それはもう、“無理して背負っている”のとは、少し違う感覚かもしれない。

いったん下ろすことで、
“自分が背負いたいと思えるもの”を選びなおせる。

「やらねば」から「やりたい」へ。
その移動は、とても小さいけれど、大きな自由を含んでいる。

背負う必要はない|自分への優しい自戒

いつもちゃんと背負おうとしてしまう。
でも、その重さに押しつぶされそうになることもある。

背負うことが美徳とされるが、
それが全てじゃないのだと、
時に思い出すことが必要だろう。

頼ることも、手放すことも、
決して弱さじゃなくて、
自分を守り、自分らしくいるための選択だ。

だから、そんな自分も許そう。
ちゃんと背負えない日があっても、
それもまた、私という人間の一部だと。

忘れないように、ここに書き留める。


エピローグ|問いの風船を、空へ放つ

「大丈夫」という言葉で自分を囲い、誰かを助ける側に立ち、重い荷物を背負い続ける。
それは私たちがこの社会で懸命に、そして「善く」生きようとしてきた証でもある。

ただ、その「善さ」の鎧を少しだけ脱いでみたとき、
ほんとうの自分の呼吸が、どこか深いところから聞こえてくるような気がする。

私たちは、自分の名前の書かれた風船を誰かに見つけてもらう喜びを知っている。
同時に、他者の名前を呼び、その風船をそっと手渡すときの温もりも知っている。

その循環の中にいるとき、私たちは「助ける側」でも「助けられる側」でもなく、
ただ、同じ地平に立つ一人ひとりの人間になれるのかもしれない。

「大丈夫」という壁を超えた先に待っているのは、
完璧な解決策ではなく、いびつで、揺らいでいる、ありのままの自分だ。

弱さをさらけ出し、差し出された救命ボートに気づき、
背負いすぎた荷物をいったん置いてみる。

そんな一歩一歩が、自分自身の“演技”をほどき、
誰かと深くつながるための鍵になる。

この小さな風船のような記録は、ここでいったん終わりを迎える。
それでも、手元に残った「問い」は、これからも私たちの歩みを支えてくれるだろう。

答えにたどり着くことよりも、問いのなかにい続けること。
「わかったつもり」にならず、手放す勇気を持ち続けること。
その余白にこそ、ほんとうの優しさのかたちが宿るのだと信じている。

さあ、もう一度。
「大丈夫」の壁をそっと撫でて、その向こう側へ。
あなたの手の中にある風船が、
誰かの、あるいはあなた自身の空を、自由に彩ることを願って。

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