経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 電子が通り過ぎるとき 》

- この世は“私”の思考でできている -

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プロローグ:

中学生の頃、原子のまわりを回る電子の話を聞いた。

なかには数百キロも離れた軌道を描いているものもあるという。
その瞬間、想像が浮かんだ。

「もし、その電子まですべてが“自分”だとしたら?」

そして何年も後に思った。

「いまの自分の思考が、その電子を通って世界を揺らしているかもしれない」
証明はできない。

ただ、問いはそこから始まる。

Vol.0|ビー玉と地球

ある日、中学の理科の授業で、先生がこんな話をした。
「この世のすべてのものは原子の結合でできている。
その原子の周りを、電子が軌道を描くように回っている。
電子は常に一定の距離を保っているわけではなく、
ときに数百キロも離れた場所を通っていることさえあるんだよ。」

その言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。目には見えないほど小さな世界で、そんなにも遠くまで「何かが届いている」ことに惹かれたのかもしれない。授業が終わると、勢いよく先生の元へ駆け寄って尋ねた。

「ということは──その電子が回っている範囲までが“自分”だとしたら、自分って地球くらいの大きさになるんですか?」

先生は少し驚いた顔をして、それから笑った。ただ、あの瞬間の自分にとっては、まったくふざけていたわけではなかった。心の底からそう思っていたのだ。

自分の輪郭は、思っているよりずっと遠くまで広がっているのではないか。という確信のようなものが、たしかにあった。ビー玉のように小さな原子核と、地球のように大きな電子の軌道。そのあいだを結ぶスケールのギャップに、自分という存在の形が揺れ動いた気がした。

あれが、自分にとって最初の「境界がにじむ感覚」だったのかもしれない。

Vol.1|思考はどこまでが“自分”か

しばらく忘れていた、あの理科の授業のことを、ある日ふと思い出した。なにげない時間だったはずなのに、その記憶はやけに鮮明で、言葉よりも「感覚」として残っていた。

──自分は、思っていたよりも広いのではないか?
──目に見えないところまで、自分が“存在している”のではないか?

それは子ども特有の空想だったのかもしれない。ただ、大人になった今、もう一度その感覚に触れたとき、違う角度からの問いが立ち上がってきた。

「いま、自分が考えていることや抱いている感情は、あのときの電子の軌道のなかに、いまも含まれているのではないか?」

思考というのは、どこで生まれてどこで終わるのだろう。脳内の電気信号がそれを生むとして、その電気信号の一粒一粒は、どこから来てどこへ行くのか。

もしその電荷の一部が、当時想像した電子の軌道を通って、壁を抜け、空気を抜け、誰かのそばを通り過ぎているとしたら、思考は“内面”ではなく、常に世界の一部になりながら流れているのではないか。そんな想像が頭を離れなかった。

科学としては説明がつかない。ただ、それを「だから関係ない」と切り捨てた瞬間に、何か大切なものが抜け落ちてしまう気がした。

“自分”とは、肉体の境界で閉じられた存在ではない。思考や感情が目に見えないまま微細な波としてにじみ出て、知らぬあいだに世界の輪郭に触れているのかもしれない。

そんな“かもしれなさ”にこそ、倫理も慎みも祈りも宿るのではないかと、ふと感じた。

Vol.2|“もしも”が問いを開く

あるとき、テレビで殺人事件のニュースを見ていた。どこか遠い場所で起きた、どこか知らない誰かの話だと思っていた。だが、そのときふと、あの電子の話が頭をよぎった。

「もしあの犯人が、事件を起こす直前に通り抜けた空間に、自分の電子がたまたま存在していたとしたら?」

もちろん荒唐無稽だ。科学的に証明もされていないし、今後もされることはないだろう。ただ、その“もしも”を想像してしまった瞬間、何かが崩れた。

他人事であるはずの事件が、自分の“わずかな存在の余波”に触れていたかもしれないと想像してしまう怖さ。証明できないが、完全には否定できないという居心地の悪さが残った。

ほんの一瞬の不機嫌、誰かを刺すような言葉、無関心に放った思考の波紋が、どこか遠くの出来事に影を落としているとしたら、それは「加害者になるかもしれない」という恐怖とは少し違う。無意識のままに、誰かの決断を揺らしてしまうかもしれないという、名もなき責任のようなものだった。

“わたし”と“世界”の間に線が引けなくなったとき、倫理は法律や制度の外に芽生える。誰かに見られているからではなく、自分のなかにある「あり得るかもしれない」が、生き方を変えていく。

あのとき生まれた“もしも”は、ただの空想でも誇大妄想でもなかった。それは、在り方の地平をゆっくり押し広げる、小さな問いだったのだと思う。

Vol.3|非科学的、でも在り方は変わる

「そんな非科学的なことを。」
そう言われてしまえば、それまでかもしれない。たしかに、自分の思考が電子を通って世界に影響を与えているという考えは、現時点の科学では証明できない。
反証もできない。ただの想像に過ぎない。

ただ、自分にとって重要なのは、「正しいかどうか」ではなく、「どう生きたくなるか」だった。もし“わたしの思考が世界をかすかに震わせているかもしれない”としたら。

もし、その震えが誰かの気分や行動や選択に、ほんのわずかでも波紋を投げているかもしれないとしたら。

その“かもしれない”は、生き方を選びなおすだけの力を確かに持っていた。

倫理とは、証明のいらない選択の連なりだ。
目に見えなくても、
誰にも気づかれなくても、
たった一つの思考が、たった一つの振る舞いが、
この世界をわずかに澄ませることがある。

だから、自分の中で沸き立った怒りに、ひと呼吸おいてみる。
不安にまみれた言葉を呑み込む勇気を持つ。
沈黙を乱さず、落ち着いて立ち去ることを選ぶこともある。

それは「優しさ」ではないかもしれない。
「正しさ」でもないかもしれない。
ただ、“わたしの電子が誰かを通過するかもしれない”という想像から生まれた慎みなのだ。

“非科学的”という言葉で、この感覚は測れない。
ただ、生き方はいつも“わからなさ”の中から始まっている。
わたしたちは証明のあとではなく、仮説のうちに在り方を決めている。

Vol.4|かもしれない、という祈り

この世界には、目に見える因果と、見えないまま通り過ぎていくものがある。
誰かの表情の揺らぎや、何気ないひと言の余白。
なぜだかわからない不安や、理由のつかめない安心も含まれる。

もしそこに微細な電子の軌道が影を落としていたとしたら。
その電子がわたしの内側を通り抜け、思考や感情の粒子をまとったまま、誰かの世界の片隅をかすめていったとしたら、わたしたちは思っている以上に世界に触れているのかもしれない。

確かな証拠はない。ただ、「わからない」と「ありえない」は違う。
“非科学的”という言葉では語りきれない、仮説としての在り方がたしかに存在している。

わたしの思考は、わたしの外ににじみ出す。怒りも、愛も、無関心も、触れたことすらない誰かの決断を、すこしだけ揺らすことがあるかもしれない。

だから、今日という一日に、ほんのわずかでも澄んだ意識を添えてみる。
丁寧に息を吸い、誰かの沈黙を乱さず、過去の言葉を落ち着いて思い出しながら、これからの行いに一瞬、問いを挟む。

それは「祈り」と呼ぶにはあまりに地味で、「倫理」と言うにはあまりに直観的で、「正しさ」とは無縁の、ただの慎ましい仮説にすぎない。

ただ、わたしは今もこの世界に対して、ひとつの想像を手放せずにいる。この世界は、私の思考でできているのかもしれない。

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