経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

《 Doing, Being, Becoming 》

- 生の三層構造と、呼吸としての存在 -

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プロローグ:

私たちの行動は、どこから始まり、どこへ向かうのか。
Doing、Being、Becoming──この三層は、人の内側だけでなく、
世界が自己を観測し、生成していく構造そのものでもある。

「止まれない身体」から始まり、観測、呼吸、境界、そして意志へ。
行為や存在を超えて、世界そのものが“Allowing(許し・通し)”として動いている。

本シリーズは、行為の背後にある構造を見つめながら、
個と世界のあいだに立ち上がる生成のリズムを探る試みである。
思索としての静けさと、生命としての躍動が交錯する、
現代の「生の構造」をめぐる考察。

Vol.0|問いの始まり

— Doing, Being, Becoming -

何かをしているつもりはなくても、身体はいつの間にか動いている。
視線が動き、思考が動き、そのあとに意識が追いかけてくる。

止まろうとするたびに、「止まる」という行為が始まってしまう。
意図よりも早く、Doingが立ち上がっている。
止まることを試みる瞬間、その試み自体が動きになっていることに気づく。
「止まる」と思った瞬間に、もう動いていた。
その速さの中で、自分がどこにいるのかを見失う。

呼吸を整えようとしたときも、「整えよう」という意識が先に動く。
Doingは、いつも少し早い。

その流れの中で出会った言葉がある。
アレクサンダー・テクニークにおける“Allowing”。
止めないこと。妨げないこと。
老荘の「無為」にも似たその感覚が、“止まる”という発想を静かにほどいていった。

Doingをやめるのではなく、
Doingの前にある微細な動きを見ていると、
BeingとBecomingのあいだがゆるやかに開いていく。

このシリーズは、
その開きの中で生まれる問いを見にいく試みだ。
止まれなさの奥に何があるのか。
動こうとする力の源はどこにあるのか。
Allowingという在り方は、その問いをどう受け止めるのか。

ここから、考えることを少しやめて、観ていくことから始めてみる。

Vol.1|止まれなさの構造

— 意図より早く動く身体 -

■ 思考より先に、身体は動いている

「止まろう」と思った瞬間には、すでに身体が反応している。
筋肉がわずかに緊張し、姿勢を保つための信号が走る。
その反応は意図より早く、命令ではなく習慣として起こる。

呼吸を止めようとしても、横隔膜の動きは止まらない。
わずかな空気の出入りが続き、意識がそれに気づくころには、
もう次の息の準備が始まっている。

身体は、静止を知らない。
「止まる」とは、動きを止めることではなく、その反応を観察できる距離を持つことに近い。

■ 反応の速さという秩序

止まれなさは、焦りではない。
それは、反応の速さだ。
身体は、周囲の変化を読み取り、それに応じて微細な調整を続けている。

風が頬をかすめると、首の筋肉がわずかに反応し、視線が揺れる。
光や音の変化に対して、身体は無意識のうちに重心を整えている。

この一連の反応は、意識が「気づく」よりも早く始まっている。
止まれない身体は、欠陥ではない。
生が環境に応答している、その自然な仕組みの表れだ。

Doingとは、意志の産物ではなく、関係の継続反応としての運動である。

■ 止まれないことの誤解

多くの場合、私たちは「止まる」ことを、制御や努力の成果として捉える。
しかし実際には、止まるという行為もまた、数多の反応のうえに成立している。

止まるとは、反応を消すことではない。
反応を観察することだ。
Doingをやめるのではなく、Doingが始まる瞬間を見極めること。

この理解の転換によって、Doingは「管理すべき行動」から、
「観察できる現象」へと変わる。

■ 観察する身体、観察される身体

観察しているつもりでも、観察という行為そのものが、すでに身体の反応を含んでいる。
目の焦点が合う。呼吸が変わる。姿勢がわずかに傾く。
「見る」という行為の中に、無数の微反応が組み込まれている。

身体は常に応答している。
意識がそれを把握するのは、ほんのわずかに遅れてからだ。
この遅延の中で、私たちは「自分が止まっている」と錯覚する。

■ 止まれなさの奥にあるもの

止まれなさの奥には、生が自らを維持しようとする仕組みがある。
筋肉の微細な張力、呼吸の連続的なリズム、神経の信号の往復。
それらが絶えず環境と交信しながら、生命を保っている。
私たちの身体は、その応答の網の目の中で動き続けている。

Doingは、意志の表れではなく、存在の条件そのものだ。
止まることができないのは、生が環境と切り離されていない証でもある。
動きを抑え込むのではなく、その条件を見抜くことが要点になる。

次に見に行くのは、この反応がどのように組み合わさり、ひとつの「自動運転」として立ち上がるのか。
網羅的な反応が、どのように秩序として束ねられるのかを確かめたい。

Doingが動作へと変換される構造を、もう少し深く見ていく。
観察の射程を広げ、関係の編まれ方を丁寧に追っていく。

Vol.2|Doingの自動運転

— 無自覚な開始の仕組み -

■ 意識より早く始まる行動

歩き出そうとする前に、重心はすでに前へ傾いている。
その傾きが身体を動かし、「歩く」という意識があとから追いつく。

言葉を発するときも同じだ。
何を言おうか考えるより早く、声帯は振動を始め、呼吸の圧が音として立ち上がる。

Doingは、意識によって駆動されるものではない。
意識が追いかけるものとして、すでに立ち上がっている。

■ 意図の後づけ構造

多くの場合、私たちは行動のあとに「自分がそう決めた」と説明する。
しかし実際には、決定よりも先に反応が起き、その結果を意識が解釈している。

意図は、原因ではなく、行為に追いつくための物語として働く。
Doingの多くは、この“後づけ”の構造の上に成り立っている。

■ 自動化の階層

反射、習慣、思考。
Doingは、複数の層で自動化している。

身体的反射は、環境への即応。
習慣的行動は、学習の蓄積。
思考パターンは、社会的経験の反復。

これらはすべて、「予測と補正」の連鎖として働いている。
意識はその流れの結果を追認し、自らを“行為の主体”として物語化する。

■ 観測という参加

ここで言う「観測」は、出来事の外から眺める行為ではない。
出来事の内部で、その成り立ちに関与している行為だ。

観察が距離を取り、対象を安定させるのに対し、
観測は、見ることによって出来事の形を変えてしまう。

たとえば、誰かの言葉を「聴く」とき。
その聴き方によって、相手の語り方が変わる。
聴くという観測行為が、現象の一部を生成している。

Doingの自動運転も同じ構造を持つ。
私たちは行為を外から見ることはできない。
見るという行為そのものが、Doingの一環として働いている。

■ 観測が生成を生む

観測は、出来事を“写し取る”のではなく、出来事とともに生成する行為でもある。
見ることによって、見られるものが確定する。

Doingの流れを観測した瞬間、その観測もまたDoingの一部となる。
観測が加わることで、反応の位相がわずかに変化し、次のDoingが生まれる。

この循環の中で、観測は外からの操作ではなく、
世界が自らを形成するための内部の知覚として働いている。

■ Allowingへの接続

Allowingとは、この観測の働きを意識的に保つこと。
出来事に抵抗せず、観測を通じて生の生成に立ち会うこと。

観測は、動きを止めるための手段ではなく、
動きを理解するための感覚である。
見ることで、世界が“自らを見ている”という構造が現れる。

Doing、Being、Becomingは、この観測の中で連続している。
観測は、その三層を隔てるものではなく、
三層をつなぐ“呼吸”として働いている。

Vol.3|Beingという呼吸

— 在ることと観察の境界 -

■ 存在としての呼吸

呼吸は、意図よりも深いところで続いている。
吸うことも、吐くことも、指示ではなく反応だ。
身体が酸素を求め、世界がそれを渡す。
その往復の中で、「生きている」という感覚が保たれる。

存在するとは、この往復の流れに在ること。
何かをしているわけではなく、
Doingが起こる場そのものに身を置いている。

Beingは、動きを止めた静止ではなく、
反応と応答のあいだにある持続的な呼吸である。

■ 観測のなかに在る

Vol.2で見たように、観測は出来事の外からではなく、出来事の内側で起こる。
それは、世界が自らを見ている運動でもある。

私たちは観測している存在ではなく、観測そのものとして存在している。
見ることが在ることであり、在ることが見ることになっている。

Beingは、観測の結果ではなく、観測の継続として現れている。
このとき、“私”という主体は観測の一部として拡散する。
呼吸が「誰のものでもない呼吸」として続くように、
Beingもまた、世界の呼吸の一拍にすぎない。

■ 区別の溶けるところ

観測と観察の境界は、距離を失うことで溶けていく。
対象を見ているつもりでも、見るという行為のなかで、
対象と観測者は同じ流れに巻き込まれる。

視線が何かを捉えるとき、
その焦点の微細な変化が、すでに世界の形を変えている。

Beingとは、この変化の内部に在ること。
「観測する」と「在る」は、別々の行為ではなく、
ひとつの呼吸の往復にすぎない。

■ 呼吸する観測

呼吸を意識すると、吸う・吐くという二項の動きの間に、わずかな“間”があることに気づく。
その間に、観測の呼吸がある。

吸うことは、世界を取り込み、感じ取ること。
吐くことは、世界に自身を返すこと。
観測は、その両方の流れに同調している。

呼吸は観測であり、観測は存在のリズムだ。
この往復が途切れるとき、存在は世界から切り離される。
Beingという呼吸は、常に世界との交換を続けている。

■ Allowingとしての存在

Allowingとは、この呼吸の継続を妨げないこと。
観測を制御に変えず、ただ流れの中に在ること。

Doingを観測する意識が薄れ、
観測することと在ることが重なっていくとき、
Beingは“静的な在り方”から“動的な生成”へと移行する。

存在とは、観測が世界を生み出す場において、
反応せず、拒まず、呼吸のままにあること。
そこには境界もなく、観測と被観測の区別も溶けている。

Allowingは、この状態のもう一つの名だ。

Vol.4|Becomingのゆらぎ

— 境界が生まれる瞬間 -

■ 境界の呼吸

世界は、はじめから一続きの流れとして在る。
そこに線を引くのは、観測が始まったときだ。
見る者と見られる者のあいだに、わずかな差が生まれ、
その差が「境界」と呼ばれる。

境界は固定された線ではない。
それは、出来事が起こるたびに形を変える。
感情が揺れた瞬間、言葉を発した瞬間、
世界は新しい境界を描き直している。

Becomingとは、この境界の連続的な生成のこと。
何かが生まれるというより、“あいだ”が生まれ続けている状態だ。

■ 境界が生まれる瞬間

見る者が見られる者に触れたとき、両者のあいだに“気づき”が生まれる。
この気づきが、境界の最初の形。

私たちは、自分の輪郭を内側からは見られない。
見られる側があることで、見る側は自分を知る。
つまり、境界とは、“自己が生成される現場”でもある。

世界が自己を観測するプロセスの中で、
その局所的な干渉点として“個”が現れる。
その一点が震えるたびに、
世界は新しい境界を描き、存在の輪郭を更新していく。

■ ゆらぎとしての生成

境界は静止しない。
生成とは、境界が動いていること。

DoingとBeingのあいだで、
境界はたえず揺れ動きながら、新しい関係を生み出している。

このゆらぎは不安定ではない。
むしろ、それが世界の秩序そのもの。
境界が動くことで、関係は呼吸を保ち、
世界は硬直せずに生き続ける。

Becomingとは、この呼吸の“動的平衡”にほかならない。

■ 観測の関与

境界が生まれるのは、観測が起こるとき。
観測は、存在を区切るのではなく、存在の差を生み出す。

見るという行為が、見る者と見られる者を同時に立ち上げる。
観測は、関係の起点であり、Becomingの駆動そのもの。

だから、私たちが何かを見ているとき、
世界は同時に自らを生成している。
観測とは、世界が自己を更新する仕組みでもある。

■ Allowingとしての生成

Allowingとは、境界の生成を妨げないこと。
揺らぎを止めようとせず、関係が変わっていくことを許す態度。

Doingに固執せず、Beingに滞留せず、
両者のあいだで境界が変化していくことを、ただ観測する。

そこでは、生成と観測が同じ出来事の両面になる。
見ることで境界が生まれ、境界が生まれることで世界が見える。

Allowingとは、この循環を乱さずに呼吸する在り方。
世界の生成に、静かに同調している状態だ。

〔関連コラム:縁起とフォレスト・ガンプ

Vol.5|Becomingの方向

— 意志はどこから生まれるのか -

■ 流れの中に生じる偏り

世界の生成は、もともと中立だ。
あらゆる動きは均衡の中にあり、そこに意図も目的もない。

だが、その流れの中に、わずかな“偏り”が生まれる。
ひとつの方向が、他よりも少しだけ強く響く。
その微細な傾きが、意志と呼ばれるものの始まりだ。

それは誰かの意図ではなく、
世界が自己の観測を続けるうちに現れる、内的な傾向。
流れの中に生じた歪みが、次の出来事を呼び寄せる。

■ 意志は応答の形

意志は「選ぶ力」ではない。
世界に生じた偏りへの、応答の特定化だ。

風が吹けば、木々は同じ方向に揺れる。
その揺れは選択ではなく、環境への同調の形。
意志もそれと似ている。

私たちが「こうしたい」と思うとき、
その思考より前に、身体や感覚が世界の方向を受け取っている。
意志とは、世界の変化への局所的な返答として現れる。

■ 個と世界の同調点

意志は個の所有物ではない。
世界が自己を変化させるために、一時的に“私”を通って現れる現象だ。

意志が生まれるとき、私たちは選んでいるというより、選ばれている。
世界の流れが一点を通過し、そこに“私”という形をとる。

この同調点こそ、私たちが「自分の意志」と呼んでいるものの正体。
それは、個が世界を動かすのではなく、
世界が個を通して自己を動かしているという構造。

■ Allowingの成熟

Allowingは、受け入れることから、応答することへと成熟する。
世界の流れに身を委ねるだけではなく、流れとともに“応答する”。

それは、制御でも主張でもない。
ただ、自分を通して流れが通りやすくなるように整えていく態度。

Doingを抑えるのではなく、Doingが世界と響き合う周波数を保つこと。
Beingに滞留するのではなく、世界の動きにわずかに偏りを許すこと。
この偏りが、Becomingを前へ進める原動力になる。

■ 世界の呼吸としての意志

吸うとき、世界は内へ向かい、吐くとき、外へひらいていく。
この非対称な呼吸のわずかなズレが、世界の時間を前へ進める。

意志とは、この呼吸の“偏り”のことだ。
完全な対称では、生成は止まる。
少しの不均衡が、世界を動かしている。

Becomingとは、この偏りが更新され続ける過程。
世界が自己の流れを保ちながら、つねに新しい方向を選び続けている。

Allowingは、その流れの中で、偏りを止めず、しかし、支配もしない。
意志は所有されず、ただ通過していく。
世界が自らの呼吸を変えるたびに、“私”という境界が新しく描き直される。

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