経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

《 道徳の暴走 》

- 世界は仮説で出来ている事を忘れた社会 -

プロローグ:

最近の世の中には、どこか張りつめた感触がある。
何かが起きるたびに、空気が一瞬で固まる。

誰かの過去の発言。昔の振る舞い。曖昧な記憶。切り取られた映像。
それらは瞬時に共有され、評価され、位置づけられる。

正しさは即座に示され、立場は明確にされる。
曖昧さは許されにくく、沈黙は同意と見なされることもある。

私たちは、いつからこれほど確信に敏感になったのだろうか。
そして、その確信はどこから生まれているのだろうか。

このコラムは、個別の出来事を断罪するものではない。
いま私たちを包む「確信の構造」そのものを、静かに眺めてみたい。

Vol.0|確信の空気

— 私たちはなぜ、ここまで怒るのか -

最近の世の中には、張りつめた感触がある。
何かが起きるたびに、空気が一瞬で固まる。

誰かの過去の発言。
昔の振る舞い。
曖昧な記憶。
切り取られた映像。

その断片が拡散され、評価が下され、立場が決まり、結論が出る。

速度が速い。
思考よりも速い。

怒りは連鎖し、意見は増幅し、同調は可視化される。
正しさは、共有された瞬間に強度を増す。

「それは許されない」
「常識で考えておかしい」
「説明責任がある」

どれももっともらしく聞こえる。
反論しにくい。
異議を挟めば、疑われる。

いつからだろう。
私たちは、こんなにも確信に満ちた社会に生きるようになったのは。

■ 正しさの即時化

かつては、物事が問題になるまでに時間があった。
議論があり、検証があり、立場の違いが可視化され、ゆっくりと評価が固まっていった。

今は違う。

情報は即時に流れ、反応も即時に返る。
反応の多さが正当性のように見え、拡散の広がりが民意のように見える。

「声の民主化」は確かに可能性を広げた。
発言権を持たなかった人の声が届くようになった。

同時に、確信もまた民主化された。

誰もが、自分の前提を疑わないまま断定できる。
そして、その断定は瞬時に集合体になる。

■ 熱狂によるトレースの増殖

ある主張が出る。
それをなぞる人が現れる。
さらにそれを強める人が現れる。

上澄みだけが共有され、文脈は削られ、背景は置き去りにされる。

「そうらしい」
「みんな言っている」
「違和感がある」

その感覚が積み重なり、ひとつの空気になる。
やがて、空気は道徳になる。

疑うこと自体が不穏になる。

道徳は本来、社会を保つための緩やかな合意だったはずだ。
それが、境界線を引く装置になり始める。

■ 怒りはどこから来るのか

なぜ、私たちはここまで強く反応するのか。
それは単に「正義感」なのか。
それとも、不安の裏返しなのか。

世界が不確かであるほど、人は確かなものにしがみつく。
正しさは、その足場になる。

足場が揺れるとき、人は声を荒げる。
確信を強くすることで、揺れを止めようとする。

もしかすると、私たちが守ろうとしているのは、
相手を罰することではなく、
自分の世界観なのかもしれない。

この世界は、本当にそれほど確かなのだろうか。

Vol.1|世界は仮説でできている

— 常識が更新され続けてきた歴史 -

■ 正しさは固定されているのか

私たちは「正しさ」を前提に生きている。
それが当たり前であるかのように、
疑う余地がないものとして扱う。

ただ、少し視野を広げると、
その前提は思っているよりも流動的だ。

歴史を振り返れば、
正しいと信じられていたものが、
後に覆された例は無数にある。

世界は、完成された真理の上に築かれているというより、
更新され続ける仮説の上に成り立っていると考えたほうが自然かもしれない。

■ 正しさは固定されていない

かつて、天動説は揺るぎない常識だった。
地球は宇宙の中心にあり、
太陽や星がその周囲を回っていると考えられていた。

それは単なる意見ではなく、
学問であり、宗教であり、世界観そのものだった。

地動説は当初、異端とされた。
世界の秩序を壊すものと見なされた。

現在から見れば、
その逆転は「進歩」として理解できる。
だが当時を生きた人々にとっては、
常識が崩れる出来事だったはずだ。

歴史は、こうした転換の連続でできている。

産業の在り方も、流通の仕組みも、働き方も、
この30年で大きく変わった。

終身雇用は当然ではなくなり、
紙のメディアは主役ではなくなり、
店舗を持たずに商売が成立するようになった。

スマートフォンが生まれる前と後では、
情報の流れも、時間の感覚も違う。

つい最近まで常識だったものが、
いまでは過去のものになる。

歴史の教科書も改訂され続けている。
研究が進めば、解釈が変わる。
新しい資料が見つかれば、物語は書き換えられる。

「事実」は同じでも、
意味づけは更新される。

そう考えると、
私たちが握っている正しさも、
絶対的なものというより、暫定的な理解に近いのではないか。

■ 仮説の上に立つ社会

科学は、証明ではなく検証の積み重ねで進む。
ある理論が有効とされるのは、
現時点で最も整合性が高いからだ。

より説明力のある理論が現れれば、
それは置き換わる。

制度も同じだ。
法律は改正され続けている。
時代の変化に合わせて条文が見直される。

かつて合法だったものが違法になり、
違法だったものが認められることもある。

それは社会が不安定だからではなく、
前提が更新されているからだろう。

道徳もまた、時代の影響を受ける。
ある時代には称賛された価値観が、
別の時代には疑問視される。

逆に、以前は受け入れられなかった考えが、
現在では尊重されることもある。

正しさは、時間と切り離せない。

この世界を「仮説の集合体」と捉えるとき、
見え方が少し変わる。

私たちは、
完成された答えの中に生きているのではなく、
暫定的な合意の上に立っている。

その合意は、
検証され、揺らぎ、更新される可能性を常に含んでいる。

それを不安と捉えることもできる。
同時に、柔軟性と見ることもできる。

確信を持つこと自体が悪いわけではない。
ただ、その確信が永遠に固定されるものだと考えた瞬間、
視野は狭くなる。

世界が仮説でできているとすれば、
私たちの正しさもまた、仮説のひとつかもしれない。

その前提に立つだけで、
怒りや断定の質は少し変わるのではないか。

そう考える余地は、
残されているように思える。

Vol.2|正しさの固定

— 仮説が道徳になる瞬間 -

世界が仮説の上に成り立っているとするなら、
本来、正しさは更新可能であるはずだ。

ただ現実には、
ある段階を越えたところで、
仮説は「確信」に変わる。

そして確信は、
やがて道徳になる。

そこから空気は硬くなる。

■ 仮説が信念になる

最初は、ひとつの見解にすぎない。
「こう考えるのが妥当ではないか」
という仮の理解。

それが共有され、
支持され、
反対意見が減っていくとき、
見解は信念に近づく。

信念は、人格と結びつく。
それを疑われることは、
意見を否定されることではなく、
自分を否定される感覚へと変わる。

すると、更新は難しくなる。
本来は検証可能だった前提が、
守るべきアイデンティティへと変わる。

「これは間違いない」
という感覚が、
思考より先に立つ。

仮説であることを忘れた瞬間、
揺らぎは敵になる。

■ 道徳の硬直化

道徳は社会を支える枠組みだ。
ただ、道徳が固定化したとき、
それは境界線になる。

事情より立場が優先される。
文脈より結論が重視される。
グレーは落ち着かない。
曖昧さは不誠実に見える。

結果として、
白か黒かの選択が求められる。
「どちら側なのか」
という問いが先に立つ。

ここで重要なのは、
正義の内容ではなく、
その扱われ方だ。

更新可能だったはずの前提が、
絶対化されたとき、
対話の余地は狭くなる。

反論は議論ではなく、
敵対に変わる。

確信は安心を与える。
同時に、他者を排除する力も持つ。

仮説が道徳へと固定される過程には、
安心への欲求があるのかもしれない。

揺らぎの多い世界で、
何かだけは確かだと思いたい。
その心理は理解できる。

ただ、固定された正しさは、
やがて圧力になる。

空気は張りつめ、
疑問を挟む余地が減っていく。

そこで生まれるのは、
単純化された構図だ。

複雑な現実は扱いづらい。
単純な正義は扱いやすい。
扱いやすいものほど、
広がりやすい。

仮説であることを忘れた正しさは、
やがて他者を測る尺度になる。

その尺度が共有されるほど、
社会は整然として見える。
同時に、
息苦しさも増していく。

正しさが固定されたとき、
世界は安定するのか。
それとも、硬直するのか。

その境界は、
思っているより曖昧なのかもしれない。

Vol.3|糾弾の快楽

— なぜ人は目くじらを立てるのか -

正しさが固定されると、
そこから逸脱する存在が目に入るようになる。

逸脱は、秩序を乱すものとして映る。
乱れを正す行為は、
一見すると健全に見える。

ただ、その行為の裏側には、
別の動機が潜んでいることもある。

糾弾は、純粋な倫理感だけで動いているわけではない。

■ 正義は快感を伴う

誰かを批判するとき、
人は無意識に比較をしている。

「自分はそうではない」
「自分は正しい側にいる」

その確認は、
自己肯定感をわずかに押し上げる。

しかも多くの場合、
糾弾は安全な場所から行われる。
直接の責任を負うことなく、
自らが矢面に立つこともない。

コストが低く、
心理的な報酬がある。

この構造は強い。

共感や「いいね」が重なると、
その快感は強化される。

自分の言葉が拡散される。
賛同が可視化される。
正義は孤独ではなくなる。

その瞬間、
批判は倫理的行為であると同時に、
社会的なゲームにもなる。

■ 人を蹴落とす衝動

もう少し踏み込めば、
そこには競争の匂いもある。

社会は常に比較の場だ。
成功している人、
注目されている人、
影響力を持つ人。

そうした存在に対して、
嫉妬や距離感を抱くことは珍しくない。

正面から競うことは難しい。
ただ、失点を見つければ構図は変わる。

評価が揺らぐ瞬間、
上下関係は再編される。

「ほら、やはり問題があった」

という言葉の裏には、
無意識の均衡回復がある場合もある。

誰かを引き下ろすことで、
自分の位置が相対的に上がる。

それは露骨な悪意というより、
集団の中での位置取りに近い。

同調圧力も作用する。
多数派の側にいる安心感。
逆側に立つことへの不安。

空気に沿うことで、
自分の立場は守られる。

こうして糾弾は、
倫理・快感・競争・同調が絡み合った現象になる。

単なる善悪の問題ではなく、
人間の心理構造そのものに根ざしている。

糾弾のすべてが誤りだと言いたいわけではない。
明らかな不正や害は、指摘されるべき場面もある。

ただ、目くじらを立てるエネルギーの強さが、ときに対象を超えて膨らんでいるように見えることがある。
その熱量は、本当に問題の大きさに比例しているのか。
それとも、私たちの内側にある何かが増幅しているのか。

正義は、清らかな顔をして現れる。

その裏にある快感や衝動を自覚しないままでは、糾弾は止まりにくい。
外側の問題を語りながら、実は内側の欲求を処理している。

その可能性を否定しきれないとき、「なぜここまで怒るのか」という問いは、少し違う角度を持ちはじめる。

Vol.4|仮説としての道徳

— 更新可能な正しさへ -

ここまで見てきたのは、
正しさが固定され、確信が硬直し、糾弾が増幅していく構造だった。
その流れを外側から批判することは難しくない。

問題は、自分自身もまた、その構造の内側にいるという点だ。

暴走は、特定の誰かのものではない。
構造に乗れば、誰でもその一部になる。

では、どこにブレーキはあるのか。

■ 仮説であることを自覚する

「この世界は仮説でできている」

そう捉えることは、万能の答えではない。

ただ、確信の温度を一段下げる効果はある。

正しさが暫定であると意識するとき、断定は少し緩む。

相手の立場が理解できなくても、「自分の前提もまた仮説かもしれない」と思えれば、対話の余白は残る。

歴史は更新され続けてきた。
制度も価値観も変わってきた。

それならば、いま自分が握っている正義も、未来から見れば途中経過である可能性はある。

その視点は、自己否定ではない。むしろ、更新の余地を残す姿勢だ。

■ 暴走を止めるのは誰か

外部から強制的に止める方法は、おそらく長続きしない。
規制や罰則は、形を変えた反発を生む。

構造を和らげるのは、一人ひとりの確信の扱い方かもしれない。
反応する前に、一拍置く。

「本当にそれは確定しているのか」
「別の解釈はないか」
と自分に問い返す。

メタ認知やクリティカルシンキングという言葉は、特別な技術のように聞こえる。
実際には、自分の前提を一度外に出してみる態度に近い。

怒りを持つことは自然だ。
違和感を覚えることも否定できない。

ただ、その感情を絶対的な正義と結びつけるかどうかは、選択の余地がある。

仮説としての道徳。

それは、正しさを放棄することではない。
正しさを固定しないという姿勢だ。

世界が更新され続けるなら、私たちの確信もまた、更新可能であっていい。

張りつめた空気の中で、ほんのわずかでも余白を持てるかどうか。

崩壊に向かうのか、
しなやかさを取り戻すのか。

分岐点は、大きな制度の中ではなく、
それぞれの確信の扱い方の中にあるのかもしれない。

エピローグ|凍りつく空気の中で

最近の世の中には、張りつめた感触がある。

その空気は、どこか遠くで生まれているわけではない。
画面の向こうの誰かだけが作っているわけでもない。

正しさを握るとき、私たちの中にも、同じ硬さは生まれる。

世界は、仮説の上に成り立っている。
常識も制度も価値観も、更新され続けてきた。

それでも、人は確信を求める。
揺らぎの中で立つために、動かないものを欲しがる。

その感覚は否定できない。

ただ、確信が絶対になる瞬間、
空気は固まりはじめる。

怒りは増幅し、
糾弾は正当化され、
複雑さは削ぎ落とされる。

その構造を外から批判することは簡単だ。
難しいのは、自分の内側にも同じ傾向があると認めることかもしれない。

正しさを放棄する必要はない。
ただ、それを仮説として扱う余白は残せる。

断定を一歩引く。
確信の温度を少し下げる。

それだけで、
固まりかけた空気は、わずかに動き出す。

世界は未完成の途中にある。

だからこそ、
私たちの正しさもまた、
“仮”のままであるべきなのかもしれない。

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