理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 瓦解 》

- 理念が崩れたときに見える構造 -

プロローグ:

語れなくなったとき、崩れたのは言葉ではなく、その言葉を支えていた“自分という土台”だった──これは、経営者が理念を語れなくなった瞬間からはじまる、静かな崩壊と回復の物語である。

仮面をかぶっているつもりはなかった。むしろ、それが自分の顔だと思い込んでいた。

ただ、語れなさの奥に触れたとき、まだ名前のない問いが、静かに立ち上がりはじめる。

Vol.0|音もなく、崩れはじめていたもの

Vol.0|音もなく
崩れはじめていたもの

— 表面には現れない内側のひずみ -

「最近、自分が語っている言葉に、違和感を感じるんです。どこか手応えがないというか……本当はそう思っていないのに、言わされているというか……心と身体が分離しているような感じがするんです」

ある経営者が、ふとこぼした言葉だった。理念を掲げ、組織を導き、まっすぐに歩んできた人。あるいは、正解と思える言葉を拾い集め、慎重に経営を築いてきた人。

その背景はさまざまだが──その言葉には、共通した“静かな崩れ”の気配があった。

語れなくなる瞬間というのは、唐突に訪れる。ずっと語れていたはずなのに、ある日ふと、自分の語りがどこか“空をつかんでいる”ような感じがする。あるいは、語っているつもりだったことが、そもそも“自分の声”ではなかったと気づく。

そのとき、はじめて、「これは本当に自分の言葉だったのか?」という問いが立ち上がってくる。

「まるで、スポーツ選手の“イップス”みたいなんです。できていたことが、突然できなくなる。技術や努力の問題じゃなくて、……身体のどこかが、納得していない感じ。」

私たちは、ときどき出会う。語れていたはずの言葉を見失った人と。あるいは、語れていたと思っていた言葉が、実は自分の声ではなかったと気づいた人と。

どちらのケースも、表面からは見えにくい。語っているように見える。実務も滞りなく進んでいる。ただ、本人の内側では、確かなひずみが広がっている。

言葉が語れなくなるとき、本当に崩れているのは、言葉そのものではない。その言葉を支えていた、自分の“存在の重心”の方だ。

そして多くの場合、その人はまだ気づいていない。仮面をかぶっていたことに──いや、仮面を“自分の顔”だと思い込んでいたことに。

語りの止まりは、組織のトラブルではなく、一人の人間の“内側の現象”として始まる。

でもそこには、ひとつの兆しがある。それは、これまでずっと覆い隠されていた「本当の問い」が、ようやく、呼吸をはじめたという兆しでもある。

私たちは、その静かな前触れに耳を澄ませたいと思っている。瓦解とは、壊れることではなく、ようやく、自分を取り戻すことのはじまりかもしれないから。

Vol.1|“経営者らしさ”という仮面

— 正しさが生む乖離 -

「経営者として正しいこと」をずっとやってきた

多くの経営者が、「ちゃんとやってきた」のだと思う。組織を守り、成果を出し、理念を掲げ、仲間の未来に責任を持ってきた。

その過程で、“経営者らしさ”というものを、言葉に、態度に、佇まいに宿らせてきた。それは決して、間違いでも、嘘でもない。

ただ、その「正しさ」が、いつの間にか“自分の内側の実感”を置き去りにしていたことには、なかなか気づけない。

■ 最初から「誰かの答え」を選んでいた

中には、最初から外の正解を自分のものとしてきた人もいる。尊敬する経営者の言葉、書籍で見つけた“理念のつくり方”、社会的に評価されるビジョンの構造。それらを「正しい形」として学び、吸収し、やがて“これが自分の理念だ”と信じるようになった。

ただ、その中に自分の実感を確かめる事は余地はなかった。「なぜこれを語ろうとしているのか」その視点は、置き去りにされたままだった。

■ 正しさの奥に潜む、乖離という静かな疲れ

語ってはいるが、どこか空虚だと感じる。言葉は相手に届いているのに、自分の内側では響いていない。「理念を語ること」はできるが、「理念に触れている実感」がない。

その状態が続くと、語る行為そのものが身体に負担となり、やがて拒まむようになってくる。そこにはもう、技術的な改善では届かない疲れがある。

■  仮面が顔と一体化するとき

仮面は、意識しているうちはまだ「仮面」と呼べる。

ただ、長く身につけていると、それが\*\*“自分”として定着してしまう\*\*。

何を選ぶか。何を語るか。そうした意思決定のすべてが、「外から見たら正しい」ことを基準に回りはじめる。すると、やがて“内からの違和感”が拾えなくなる。

それが、語れなさとして現れる。そしてようやく、仮面と顔の境目に、ひびが入る。

■ 「語れない」からこそ、問いが立ち上がる

自分が何を語るべきか分からなくなったとき、多くの人は焦りや不安を抱く。ただ、私たちは知っている。その“語れなさ”こそが、問いの兆しであることを。

「これは本当に自分の声か?」「私は、何を信じて生きてきたのか?」「この理念は、どこからやってきたのか?」

言葉が止まるとき、ようやく、本当の問いが、呼吸をはじめる。

私たちは、人の“語れなさ”のそばで伴走する。

それがただのスランプではなく、仮面から自分へと還っていくプロセスの入り口であることを、自ら体験し、いくつもの事例を見てきたから。

Vol.2|“見えない土台”が崩れるとき

Vol.2|“見えない土台”が
崩れるとき

— 前提の崩壊と違和感 -

無意識の前提という“土台”

「語れなくなった」とき、人はまず“言葉そのもの”を疑う。伝え方が悪いのか。語彙が足りないのか。もしかして、自分にはもうカリスマ性がないのか──と。

でも、私たちがそばで見てきた多くの経営者たちは、言葉を失ったのではなく、言葉を支えていた“土台”を見失っていたのだ。それは、「この言葉は自分のものだ」と、無意識に信じていた“前提”のようなものだった。

■ 意思決定の奥にある“見えない前提”

どんなにロジカルに思考していても、人の判断や行動の背後には、無意識の前提がある。

  • 「尊敬される経営者は、弱さを見せてはいけない」
  • 「理念は、社会性や普遍性がなければならない」
  • 「組織のトップは、感情よりも構造を語るべきだ」

こうした“前提”は、多くの場合、自分で選んだつもりでいて、実は選ばされている。それが“当然”として内側に組み込まれているうちは、どんなに整った理念も、どこかよそ行きの声になってしまう。

■ 「違和感」という名の地震計

私たちが注目しているのは、“違和感”という感覚だ。それは、とても些細なかたちでやってくる。

たとえば──社員に語りかけるとき、自分の言葉が“どこか浮いている”感じがする。誰かの相談に答えながら、「これ、本当に自分が言いたかったことだろうか?」と、ふと自問してしまう。

その感覚は、たいてい一瞬で通り過ぎてしまう。でも、それを見逃さずに静かに眺めると、そこには、自分の地盤が揺れはじめている兆しがある。

■ 揺れることを恐れない

“揺れ”は不安定だ。ただ、揺れることでしか見えてこないものがある。むしろ、ずっと揺れなかった言葉ほど、硬直し、誰の身体にも届かなくなっていることが多い。

ある経営者は、理念について語ることをしばらくやめてみた。整った言葉を用意することを手放して、仲間と率直な対話を重ねたという。

「言葉にすることを一旦やめたら、逆に、“今、ここで何を大切にしているか”が見えてきたんです。」

語らないという選択の中にこそ、新しい言葉の源が潜んでいることもある。

■ 崩れてはじめて見えるもの

本当の理念は、つくり込むものではなく、崩れたあとに見えてくるものかもしれない。仮面が剥がれ、言葉が止まり、“ちゃんとした自分”が機能しなくなったとき──

それでも、なぜか手放せない想いが残る。その残ったものの中にこそ、自分の源泉から湧き出る問いがある。

私たちは、その問いのはじまりに、立ち会いたいと思っている。

理念とは、「こうあるべき」ではなく、「ここに立ち返りたい」と感じる場所の輪郭なのだから。

Vol.3|言葉にならないもの

— 理念は立ち返る基盤 -

残ったのは確かな実感

仮面が剥がれ、語れなくなり、その奥にあった“見えない土台”が崩れ落ちたあと。そこに何か、明確な「答え」があったわけではない。
ただ、不思議と、手放せない想いだけが残っていた。

それは理念のように洗練されてはいない。整理されたビジョンでも、言語化されたミッションでもない。
言葉になる前の、身体の奥で確かに残っている“実感”だった。

■ 言葉を急がないという選択

私たちは、経営者がその感覚と向き合っている時間に、あえて言葉にしようとしないことの大切さを感じている。

焦って理念を整えようとすると、また「外の正解」や「過去の成功」にしがみついてしまう。

曖昧なまま抱えて過ごす時間こそが、新しい呼吸を組織にもたらす。

■ 理念とは、“立ち返る場所”である

私たちは、理念を「旗」ではなく、“その人が立ち返る場所”のようなものだと考えている。誰かに向けて掲げるためではなく、自分自身が迷ったときに、静かに戻ってこれる場所。

形にならなくても、そこに還ってこれれば、自分に正直でいられる。そしてそれは、多くの場合、一度は崩れなければ見えてこない。

■ “理念”という名前のないもの

「理念は、まだ言葉になっていません」──そう語ったある経営者がいた。

だが、その人の佇まいからは、まだ名前のついていない理念の“源”が確かに感じられた。言葉にしてしまえば薄れてしまうような、でも確実に、組織の中心で息づいているもの。

それこそが、私たちが「理念」と呼びたいものだ。

仮面が落ち、土台が崩れたあと。残っていたのは、たったひとつの問いだった。

「私は、何を信じて、いま、ここに立っているのか?」

その問いがある限り、組織は生きている。たとえまだ、言葉になっていなかったとしても。

あとがき

— 言葉にならないものを扱う -

この文章は、ある経営者との対話から生まれた。ただ、語られているのはその方一人の物語ではなく、私たちが立ち会ってきたいくつもの“揺れの場”の記録でもある。

仮面とは、誰かを欺くためのものではない。むしろ、何かを守ろうとする無意識の選択であり、その人が大切にしてきたものの証だ。だからこそ、それが崩れはじめる瞬間には、痛みと同時に、深い誠実さが滲む。

「正しく語れること」よりも、「まだ形にならない感覚」に耳を澄ますこと。そこにこそ、組織の本質は宿ると私たちは考えている。

理念がまだ形になっていなくても。問いの輪郭が曖昧なままでも。その“名のない感覚”を抱えながら立ち止まることが、経営者という役割の奥にいる“ひと”としての姿を取り戻す最初の一歩になる。

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