経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 弦のようなクレド》

- 組織を響かせるもの -

プロローグ:

企業はしばしば、クレドを“掲げる”。
壁に刻まれ、パンフレットに印刷され、
新入社員研修で読み上げられる。

だが、本来のクレドは、外に示すための標語ではない。
行動を導く以前に、行動が生まれる根のかたちを定めるものだ。

それは理念よりも深く、戦略よりも静かに流れる“掟”に近い。
誰かが守るためのルールではなく、誰もが自然と従ってしまう“必然の響き”のようなもの。

組織におけるクレドとは、正しさを揃えるための指針ではなく、音を揃えるための耳だ。
その音が合っているとき、行動は整い、ズレたとき、濁りが生まれる。

このコラムは、クレドを「掲げる」ものから「聴き取る」ものへと還していく試みである。
外に掲げられた言葉を、内側で響かせる“弦”へと戻していく。

その振動の中で、組織という生きものが、どんな音を奏でているのかを
もう一度、聴き直してみたい。

Vol.0|調律の合わないギター

— 響かない音 -

投稿、ありがとう。
でも……ちょっと、戦略と違わない?

チームで決めたインスタの投稿方針。
見せ方も、トーンも、ある程度の秩序を共有したつもりだった。
にもかかわらず、ある日投稿された一枚は、その空気感をどこか裏切っていた。

でも、当の本人は、まったく悪気がない。
むしろ「いいことをした」と思っている様子すらある。

こういう齟齬は、どこの組織にもある。
戦略が伝わっていなかったのか?
マニュアルが不十分だったのか?
確認のフローが漏れていたのか?

いろんな仮説が立てられるが、どうにも釈然としなかった。

それは「やり方」の問題ではない。
もっと深いところで、“何を信じて動いているのか”が、そもそも違っていたのではないか。

そう思ったとき、頭に浮かんだのが、「クレド」という言葉だった。

表面的には同じ“善意”で動いていても、その背景にある「信じている基準」が食い違っていれば、それは見事にズレた音として響く。
まるで、調律の合っていないギターで演奏されたよくできた曲のように見える。

演奏の手順は合っている。
曲の構成も、押さえるコードも、覚えている。
それでもどこか、全体が濁って聞こえる。
それは、弦が緩んでいるからかもしれない。

クレドは、戦略を奏でるための前提であり、意志や行動を調律する“音叉”のようなものだ。
この弦が緩んでいれば、どんなに整った譜面でも、きれいな響きにはならない。

クレドとは何か。
そして、なぜそのズレが、本人には“ズレていない”ように見えるのか。
そんな問いを、少しだけ深く掘ってみたい。

Vol.1|正しい音と響く音

— 音の“正しさ”の違い -

■ クレドは“響き”を揃えるもの

やっていることは間違っていない。
むしろ「自分なりに良いことをした」と思っている。
それなのに、全体としてはどこかずれて見える。

こうした微妙な食い違いは、組織のなかで静かに起こる。
誰かが声を荒げるわけでもなく、誰かが明確にルールを破ったわけでもない。
それでも、何かが“しっくりこない”という感触が残る。

その違和感の正体は、「正しい」と信じている音と、「響く」音の違いなのかもしれない。

クレドとは、行動の正誤を管理するものではなく、その行動がどんな“音色”として場に響くのかを整えるものだ。
だからこそ、「これは間違っていない」という自己判断だけでは、届かない領域がある。

■ “信じている音”の違い

たとえば、チームで「丁寧な言葉遣いを心がけよう」と決めたとする。
一見、誰もが守れるように思えるシンプルな指針だ。

ただ、ある人にとっての“丁寧”は、柔らかく寄り添うことかもしれない。
別の人にとっては、品格を守るための厳格さかもしれない。

見えている行動は似ていても、その奥にある“意味づけ”が違えば、
同じ音を出しているつもりでも、違う響きが場に残る。

組織として共有したつもりの価値観が、
各自の中では異なるチューニングで再生されている。
それが、見えにくいズレとなって蓄積されていく。

■ “音叉”としてのクレド

クレドは、“基準となる音”のようなもの。
一人ひとりが演奏に入る前に、
それぞれの耳をそっと合わせておくための音叉のような存在だ。

もしそれが共有されていなければ、
誰もが「正しく弾いたつもり」でも、
全体はちぐはぐなまま進んでしまう。

正しさは、響きのなかでしか測れない。
響かない正しさがある。
個人の美意識としては整っていても、
組織としての“らしさ”からずれていることもある。

クレドは、その“らしさ”の座標を指し示す静かな道具だ。

■ 音を鳴らす前に、耳を澄ませる

判断に迷ったとき、
あるいは誰かの行動にわずかな違和を感じたとき、
問いかける言葉がある。
「それって、私たちらしいかな?」

その一言に含まれるのは、
正誤ではなく、共鳴の感覚。
響くかどうか、という質的な問いだ。

クレドとは、目指す未来の話でも、立派な理念でもない。
いまこの場で、自分の出す音が“場に合っているかどうか”を確かめるための、
繊細な聴き方の技術なのかもしれない。

Vol.2|調律されない“音”

— 組織たらしめる“音”とは -

■ それは、ほんの少しの“ズレ”

戦略は共有されていた。
マニュアルもある。
なにより、誰もルールを破っていない。

それでも、空気にわずかな濁りが生まれる。
言葉にはならない違和感。
「うまくいっているはずなのに、何かが噛み合っていない」
そんな感触が、場のどこかにこびりついている。

誰かがミスをしたわけではない。
むしろ、それぞれが“良かれ”と思って動いている。
でも、その“良かれ”が、ほんの少しずつ違っている。

音は出ている。手順も守られている。
それなのに、最初に合わせるはずだった“音”に、誰も耳を澄ませなかった。

■ クレドは、説明ではなく“掟”に近い

組織には、中心となる“音”が必要だ。
それは理念でも、ルールでもない。
もっと静かで、もっと確かな“掟”のようなもの。

この組織は、なぜこういうトーンで語るのか。
なぜ、こういう選択を良しとするのか。
なぜ、それを美しいと感じるのか。

その背景にあるのが、クレドであり、それは組織を組織たらしめる絶対音のようなものだ。

誰かがそれを聴き取り、中心に据え、「この音に合わせよう」と呼びかける。

そこからすべての調和は始まる。

■ 音は出るが、揃わない

組織において、行動だけを揃えるのは難しくない。
手順、フォーマット、ガイドライン。
それらを整えることで、ある程度の秩序は保たれる。

その一方で、行動の背後にある“信じている音”が違えば、響きはすぐに濁る。
本人にとっては“正しい音”でも、その音が、場にとって“ふさわしい”とは限らない。

調律されない音は、やがて空間全体を狂わせる。

最初は小さな不協和でも、それを軌道修正しないまま重ねていけば、気づかぬうちに、全体の“らしさ”は崩れていく。

■ 「誰がその音を鳴らすのか?」

問題は、ズレてしまうことではない。
ズレは、いつでも起きる。

本当に問うべきは、
「誰がその音を鳴らすのか?」ということ。
そして、「鳴らされたその音に、誰が耳を澄ませるのか?」

クレドは、策でも、習慣でもなく、場に置かれる“音叉”のような存在だ。

その音が中心にあってはじめて、私たちは、自分の出す音を確認できる。

Vol.3|響きを真似て、耳を育てる

— 組織の“耳”を育てる -

■ 説明では伝わらない

クレドをどれだけ言葉で説明しても、その「響き」までは届かない。
理念やマニュアルとして整えることはできても、本当に大切なのは、その場に流れる音の“質”だ。

音は耳で聴くのではなく、身体に染み込むようにして覚えていく。

組織のクレドもまた、経験を通してしか伝わらないものだ。

■ 真似ることから始まる学び

楽器を習い始めた人が、まずは先生の指や呼吸を真似るように、クレドもまた「真似ること」から身についていく。

なぜその言葉を選んだのか。
なぜその姿勢を大事にするのか。
理由を問いただすよりも先に、耳を傾け、響きをなぞることが大切だ。

そこには説明を超えた“掟の継承”がある。
意識せずとも繰り返すうちに、身体の奥で「これは違う」「これで合っている」という感覚が育っていく。

■ ジャズの即興ソロに似ている

ジャズの演奏も、同じ構造を持っている。
ソロは自由に聴こえるけれど、そこには共有されたコード進行という“掟”がある。
演奏者はその掟の上で、互いの音を聴きながら、瞬間を重ねていく。

どんなに個性的なプレイヤーでも、コードを無視して勝手に吹けば、音楽は崩壊する。
自由を響かせるためには、共有された基準音が必要なのだ。

そして、初心者が最初に学ぶのは、理論書ではない。
偉大なプレイヤーのフレーズを耳で覚え、同じ呼吸で吹いてみることから始まる。
そのうちに、身体が“場のリズム”を覚えていく。

組織も同じだ。
クレドというコード進行を軸にしながら、各人が即興的に音を出す。
誰かの音を聴き、重ね、少し外して戻る――
その呼吸のなかで、組織の“耳”は育っていく。

■ クレドは、経験として滲み出す

クレドは、壁に掲げられた言葉で完結するものではない。
繰り返される経験の積み重ねが、やがて“耳”を育て、“響き”を形づくる。

それは時間のかかる営みだ。
でも、その遅さのなかにしか、組織を組織たらしめる“音”は育たない。

Vol.4|濁りのなかで聴き直す

— 組織を生かす“音楽(リズム)” -

■ “濁り”は、崩壊ではなく“再調律の兆し”

組織の音が濁るとき、
多くの人はそれを“崩れ”や“乱れ”と捉えようとする。
だが、本当の濁りは、破綻ではない。
整いすぎた音が、再び息を吸い込もうとする瞬間でもある。

整ったままでは、新しい音が入ってこない。
濁りは、過剰に安定した秩序に、再び“呼吸”を取り戻すための乱流だ。
組織が生きている証拠でもある。

■ 完璧な調和は、やがて閉じていく

どんなに美しい和音でも、同じ音だけが続けば、やがて退屈になる。
音楽が音楽であり続けるのは、“次に鳴る音”を常に聴き取ろうとする意志があるからだ。

組織も同じだ。
調和を保ちすぎれば、そこに息苦しさが生まれる。
ズレや濁りは、次の和音へと移ろうとする“予兆”の音なのかもしれない。

■ 濁りは、耳を育て直す

誰かの言葉が違って聴こえたとき。
議論が噛み合わないとき。
方針に違和感を覚えるとき。
そのどれもが、「何かが壊れた」のではなく、“耳の感度”を問い直すタイミングだ。

濁りが生じたとき、私たちは無意識に「誰が間違っているのか」を探そうとする。
でも本当は、「私たちの耳が、どの音に慣れすぎていたのか」を確かめるべき瞬間なのだ。

■ ジャズのように、濁りを聴きながら進む

ジャズの演奏では、不協和音がしばしば美しい。
それは、ミスではなく、次の展開を生み出す“呼吸のズレ”だからだ。

ピアノの一音、ベースの一拍、誰かのタイミングがほんの少し外れた瞬間、演奏は生き物のようにうねり出す。

組織における濁りも同じ。
不協和は、個の自由が生まれた証拠。
大切なのは、それを否定することではなく、新しいハーモニーを見つける耳を保つことだ。

■ 再び“基準音”に触れる

濁りを経たあとに必要なのは、再び、あの音叉に触れること。
最初のクレドを思い出し、「この音に、まだ共鳴できるか」を確かめる。

響き続けるためには、
時に弦を張り直し、
時に音を外しながらも、
もう一度、同じ“中心の音”を確かめていく。
それが、組織が呼吸を続けるための“再調律”だ。

■ クレドは、静かに呼吸する

クレドは完成しない。
一度整っても、また濁り、また調律されていく。
その往復のなかで、組織は音を保ち続ける。

クレドとは、音を整える掟であると同時に、濁りを許容するための余白でもある。
響きは、いつも揺らぎの中で更新されている。

その不安定さこそが、組織を生かしている“音楽”なのだ。

Vol.5|音のない箇所に、音が在る

— 無音の中にある呼吸-

■ 音が消えたあとにも、響きは残る

一つひとつの音は止んでも、耳の奥には、まだ残響がある。
それは、誰かが鳴らした音というより、その場全体が呼吸していた“気配”のようなもの。

クレドも同じだ。
語らなくなったあとにこそ、本当の意味でその存在が立ち上がる。
言葉のかたちを離れ、行動でも理念でもない“在り方”として滲み出す。

■ クレドが消えるとき、組織は成熟する

成熟した組織ほど、クレドを語らない。
掲げなくても、誰もがその響きを知っている。
その音は、説明ではなく、場の空気として受け継がれていく。

もう、音叉を鳴らさなくてもわかる。
互いの間に流れる無音のうちに、「これが私たちの音だ」と感じ取れる瞬間がある。

それは、音が消えたあとの静けさではなく、静けさの中に音がある状態。

クレドはそこまで辿り着いたとき、ようやく“生きている掟”になる。

■ 言葉は、弦の震えの名残にすぎない

このシリーズで紡いできた言葉たちも、もともとはその振動を確かめるための道具だった。
語ることは、確かめること。
確かめ終えたら、言葉は手放していい。

言葉を止めたあとにも、何かがまだ鳴っているとしたら、それがクレドの本当の響きだ。

■ 響きの止まらない場所へ

クレドは固定された約束ではなく、響きを保つための呼吸だ。
その呼吸がある限り、組織は何度でも、生き直すことができる。

音は止まっても、弦はまだ、微かに震えている。
その震えのうちに、次の始まりの気配がある。

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