”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 忙しさが信頼を削っていくとき 》

- 「仕事で遅れた」に隠さされたもの-

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プロローグ:

「仕事だから仕方ない」

そんなふうに言われる場面に、これまで何度となく立ち会ってきた。
その言葉に悪意はないし、実際、多くの人が真面目に働いている。

けれど、丁寧な謝罪や誠実そうな応答の裏で、
なにかが少しずつ削れていくように感じることがあった。

断れない強さが、自分の裁量を超えていくとき。
がんばりすぎる誠実さが、結果的に関係を摩耗させてしまうとき。
その繰り返しが「忙しさ」と呼ばれる日常になっているとしたら──

いま、わたしたちは何を優先し、何を見過ごしているのだろうか。
この問いは、他人に向けたものではなく、むしろわたし自身への問いかけとして立ち上がってきた。

Vol.1|「仕事が…」─免罪符のような言葉

「ごめん、仕事が押しちゃってさ」
「すみません!ちょっとバタついていて…」
「待たせてしまって、本当に申し訳ないです」

こんな言葉を、1日に何度耳にしているだろうか。
どれも誠意ある言葉に聞こえるし、実際、忙しい状況は想像がつく。
だから、怒りというよりも、どこか“慣習的な”置き去り感が残る。

■ 優先順位のなかに、自分がいない

「仕事だから仕方ない」
そう言われると、理屈では納得できる気がする。
だがふと、「自分との時間は“仕方なく後回しにされた”ものなのだろうか?」という感覚が残る。

たまたまの一度なら、そう気にしない。
でも、予定の組み方や会話のテンポ、返信の遅さなどを見ていると、
“後回しの癖”のようなものが、その人の日常ににじんでいるように感じることがある。

それは、わたしだけの印象ではないのかもしれない。
その人と関わっている他の人も、もしかすると、
「自分との関係は後回しにされているのかもしれない」とどこかで感じているのではないか。

■ 置いてきぼりにされているのは、時間ではない

遅れたこと自体が問題なのではない。
「わたしとの時間」が、どのように扱われたのか──
そのことに対して、微細な違和感が残る。

言葉では「ごめんね」と伝えてくれている。
ところが、その前に詰め込まれていた“仕事”の存在感のほうが、
圧倒的に大きく感じられてしまうときがある。

そうしたすれ違いが重なっていくと、
関係の中に見えない“順位”のようなものが立ち上がってくる。
それは、意図されたものではなく、“順番”という事実として、静かに関係に作用していく。

■ 問いが残る

「仕事でさ…」という言葉の裏には、
どれだけの“後回し”が無意識に積もっているのだろうか。

そして今、わたし自身もまた、
誰かにとっての“後回しの人”になってはいないか。

Vol.2|一事が万事という、“在り方”の構造

遅れてくる。
予定を詰め込みすぎている。
調整の連絡がいつも直前。
「バタバタしていて」と言いながら、また次の予定に急いで向かう。

そんなやりとりを何度か見ていると、ある種の“傾向”のようなものが見えてくる。
一度や二度の話ではない。そう感じる場面が、繰り返されていく。

■  「たまたま」ではなく「傾向」なのかもしれない

最初は偶然かと思っていた。
たまたま忙しい日なのだろう、と。

でも、電話の出方や、メールの返信のリズム、会議への入り方、言葉の切り返しなど、
細部にわたって“後回し”の感触がにじんでいるように見えてきた。

相手が変わっても、場面が変わっても、そのテンポはなぜか変わらない。
むしろ、「これがこの人にとっての通常運転なのだ」と感じられる瞬間が増えていく。

■ 段取りの問題ではなく、在り方の表れか

単にスケジュール管理の問題とは言い切れない。
むしろその人が、何にどれだけ応じるか──
つまり、どこに意識とエネルギーを配分しているのかという“姿勢”が現れているのかもしれない。

無意識のうちに選び取っている優先順位。
その選び方は、単なる行動習慣ではなく、“世界との関わり方”そのものを映し出しているようにも感じる。

行動の癖が、その人の在り方を物語ってしまう。
それが、意図しなくてもにじみ出てしまうものだとしたら──

■ 仕事以外でも、似たことが起きているのではないか

こうした傾向は、職場に限った話ではないのかもしれない。

誰かとの約束を後回しにする。
自分の都合で遅れる。
謝って、でもまた同じことが繰り返される。

「ちゃんとやっているつもり」でも、
結果的には、どの場面でも誰かが優先されずにいる。
その積み重ねが、相手との関係に静かな疲れをもたらすことがある。

形式上は誠実に見えても、実質的には誰にも誠実に応えきれていない。
そう感じさせる瞬間が、ところどころに残る。

■ 「在り方」は、言葉よりも早く伝わる

どれだけ丁寧な言葉を尽くしても、
行動やリズムの中にある“無意識のパターン”のほうが、伝わることがある。

しかもそれは、受け取る側の身体の方が先に察知してしまう。
言葉よりも早く、肌感覚として何かを感じ取っている。

「言っていること」よりも「どう在るか」のほうが、信頼の土台になってしまう。
そしてその在り方は、コントロールできるものではなく、日々の選択のなかからにじみ出るものだ。

■ 問いが残る

わたしたちは、自分の“在り方”を、
どれくらい自覚的にとらえられているだろうか。

「誠実でありたい」と願うほどに、
無意識に後回しにしているもののなかに、
本当は一番、大切にしたいものが含まれていたりしないだろうか。

Vol.3|がんばっているのに、なぜ信頼が削れる?

その人は、怠けているわけではない。
むしろ、よく働いている。
忙しそうに動き回り、連絡も絶やさず、やるべきことをなんとかこなしている。

それでも、なぜか関係の中に小さなズレが積もっていく。
ほんのわずかずつ、信頼の総量が減っていくような感触が残る。

■ 誠実なはずなのに、期待が薄れていく

  • 約束の時間に遅れる
  • レスポンスが遅い
  • 予定の再調整が頻発する

そのたびに、誠意ある言葉で謝り、事情を説明してくれる。
申し訳なさそうな態度も、責任感のある姿勢も伝わってくる。

ただ、そうした場面が繰り返されると、関わる人のなかである種の“学習”が起きる。
「あ、この人は忙しそうだし、あまり期待しないほうがいいかもしれない」と。
それは、怒りや不信ではなく、信頼の微調整のような反応だ。

■ 断らないという姿勢が、結果的に信頼を曖昧にする

おそらくその人は、断ることが得意ではない。
頼まれると、つい「大丈夫です」と答えてしまう。
期待に応えることを、自分の役割として受け取っている。

その背景には、「断ったら、次は声がかからなくなるかもしれない」
「期待に応えられない自分は、信頼に値しないのではないか」
というような、微細な不安や自己批判が潜んでいることもある。

それはたぶん、かつてどこかで感じたけれど、
うまく扱うことができずに「なかったこと」にしてきた感情の名残なのかもしれない。

“ないものにされた不安”─
一度は無視したはずなのに、いまも静かに行動を駆動している感情。
それが、断らずに応じつづけるという選択を、支えていることがある。

だからこそ、仕事は詰まり、スケジュールは圧迫され、余白がなくなっていく。
それでも「引き受ける」ことを優先してしまう。
その結果、別の誰かとの約束がずれ込み、調整が後手になる。

本人としては、まじめに頑張っている。
しかし外から見ると、「対応が読めない」「頼みにくい」という印象がじわじわと広がっていく。

■ 強みが“前提”に変わるとき

断らずに応じる姿勢は、かつてはその人の強みだったのかもしれない。
でも、それが周囲の中で「この人はいつでも応じてくれる人」として定着していくと、
その強みは次第に“前提”とみなされるようになる。

そして、前提は“義務”へ、義務はやがて“人質”のような状態へと変化していく。
自分の意志で引き受けていたはずの仕事が、
いつの間にか「断れないもの」に変わっていく。

そうしてスケジュールは、知らず知らずのうちに他者の期待で埋め尽くされていく。
自分の裁量で決めているつもりでも、実態は“期待に応えつづけることで自分をつなぎとめている”─
そんな状態になっていることもある。

■ 信頼とは「頑張り」ではなく「予測可能性」でもある

相手にとっての安心感とは、「どれだけ頑張ってくれるか」だけではない。
むしろ、「どれだけ予測できるか」「どれだけ安定して応答があるか」といった要素が大きく関わってくる。

たとえ善意に満ちていても、予定が読めず、優先順位が変動しがちな人に対しては、
徐々に「頼みづらさ」や「任せにくさ」がにじんでいく。

信頼は、誠意の有無だけで成り立つものではない。
一定の見通しが立つという“構造的な安心感”があってこそ、維持されていく。

■ 問いが残る

わたしたちは今、
どれだけのことを「断れずに」引き受け、
その結果、どれだけの関係を曖昧にしてしまっているだろうか。

そして、かつては自分を支えてくれていた“強み”は、
今も同じように機能しているのだろうか。
それともすでに、手放すべき「優しさのかたち」に変わってしまってはいないか。

Vol.4|もしかして、“内側が暇”なのでは?

仕事を詰め込む。
次の予定を先に入れる。
移動の合間にも連絡を返し、手帳はいつも埋まっている。
そんなふうに動き続けている人を見ていると、ある問いが浮かんでくる。

この人の中は、もしかして“暇”なのではないか。

外側は慌ただしい。けれど、内側にぽっかりと空いた空白があるのではないか。
そんな仮説が、じわじわと頭に残っていく。

■ 忙しさは、空白を埋める手段なのかもしれない

なにか予定が入っていないと落ち着かない。
空いている時間があると、どこか不安になる。
ぽっかりと空いた“何もしない時間”にどうしていいかわからなくなる。

そんな感覚を抱えている人にとって、予定は「安心のインフラ」のようなものだ。
次に何をするかが決まっていることが、自分の存在を保証してくれる
だから、つい予定を詰めてしまう。
詰めることで、自分の“所在”を確かめている。

まるで「わたしはちゃんと必要とされている」「この場所にいていいんだ」と、
スケジュールを通して自己肯定を確かめているような気配すらある。

 それは、“忙しさ”という形をした、存在の確認行為なのかもしれない。

何も起きていない時間が怖い

急いでいるふりをしているだけかもしれない。
「立て込んでいて」と言いながら、
ほんとうは、“何も起きていない時間”と向き合うのが怖いのではないか。

何者でもない自分。
誰にも呼ばれない状態。
何も決まっていない時間。

そんな空白に触れてしまうと、
どこかで「わたし」という存在の境界線があいまいになっていくような気がする。
だから、埋める。詰める。次を入れる。
そうして、“空白がない状態”を保ち続けようとする。

■ 「ないものにされた不安」が、静かに駆動している

こうした行動の奥にあるのは、
かつて自分の中に確かにあったのだが、
誰にも扱ってもらえず、そして自分自身でも“なかったこと”にしてきた感情かもしれない。

呼ばれなかったときの寂しさ。
置いていかれたときの孤独。
応えられなかったときの無力感。

そうした“ないものにされた不安”が、
いまも静かに予定を詰めさせ、スキマを埋めさせているのかもしれない。

それは、他人のために動いているように見えて、
実は、自分自身の存在を確認するための行為でもある。

■ 外の忙しさと、内の不在はつながっている

表面的にはとても忙しく見える。
でもその奥には、「何かを感じないようにする」沈黙が潜んでいる。

まるで、「ちゃんと働いているから安心して」と言いたい誰かが、
自分の中に住みついているかのように。
それは善意のようにも見えるし、責任感にも映る。

でも実態としては、存在の輪郭が揺らぐことへの恐れに対する“代償行為”かもしれない。

■ 問いが残る

わたしたちは今、
ほんとうに“やるべきこと”に追われているのだろうか。
それとも、“空白の時間”と向き合わないために、あえて忙しくしているのではないか

もし少しだけ、予定を入れずに立ち止まってみたとき、
そこに浮かび上がってくるものは何だろう。

「ほんとうに向き合うべきもの」は、
もしかすると、ずっと前からそこにあって、
ただ目を逸らされつづけてきたのかもしれない。

Vol.5|言い訳を重ねて、関係が痩せていく

「遅れてすみません」
「バタバタしていて…」
「仕事が立て込んでいて」

そんな言葉を、わたしたちは日常のなかでよく耳にする。
どれも誠意のこもった言い方であり、実際、悪気があるわけではないことも多い。

ところが、それが何度も繰り返されるうちに、
少しずつ、相手との関係の“重み”が変わっていくのを感じることがある。

■ 謝ることに、慣れてしまう

「遅れても、ちゃんと謝っている」
「連絡が遅れても、ちゃんとフォローしている」
「気持ちはちゃんと伝えている」

そう言われれば、たしかにそうなのかもしれない。
けれど、その言葉の背後にあるのは、「謝れば済む」という前提が固定化していく構造だ。

最初は丁寧だったその言葉も、繰り返されるうちに、
どこか形式的で、響きのないものへと変わっていく。

そして、それを受けとる側にも変化が起きる。
最初は「大丈夫ですよ」と笑っていた人が、
ある日ふと、少し距離を取るようになる。

そうして気づく──
ああ、自分は“軽く扱われても仕方のない人”として位置づけられてしまったのかもしれない、と。

■ 信頼は、“繰り返し”で削れていく

人との関係は、たった一度のミスで壊れるものではない。
むしろ、小さな「またか」が積み重なっていくことで、
気づかないうちに信頼の厚みが薄れていく。

・ちょっと遅れた
・少し返信が遅かった
・また予定がずれた

ひとつひとつは些細でも、繰り返されるうちに
「この人に何かを頼むのは、少し慎重になったほうがいいかもしれない」
という感覚が育っていく。

信頼は、単なる善意のやりとりではなく、行動の積み重ねで形づくられていくものだ。
だからこそ、「またかもしれない」と思わせる繰り返しは、関係にじわじわと影響を及ぼしていく。

■ 「悪気のなさ」が、変化を妨げることもある

やっかいなのは、本人に悪意がないこと。
むしろ、やれることはやっているし、反省もしているように見える。
「気をつけてるんだけどね…」という言葉が添えられることで、次の遅れも“予告”されたかのようになる。

誠実そうな謝罪のなかで、
信頼だけが、少しずつ、音もなく痩せていく。

相手の善意を信じたい。
けれど、何度も同じことが起きるとき、
それはもう“偶然”ではなく、“構造”なのかもしれない。

■ 言い訳の下に、何を守ろうとしているのか

「バタバタしていて」
「立て込んでいて」
「いろんなことが重なっていて」

それらの言葉が意味しているのは、本当に時間の不足だけなのだろうか。
あるいは、自分の中にある“何か”を守るために、
「忙しさ」というフィルターを通して距離を置いているのかもしれない。

たとえば──
失望されることの恐れ。
期待に応えきれないことへの罪悪感。
「できていない自分」を見せたくないという防衛。

そうした感情がうまく扱えないまま、
“仕事”や“遅れ”という名のフィルターを通して、
関係の厚みを少しずつ削っていく。

■ 問いが残る

わたしたちは今、
何度同じ言い訳を繰り返しているだろうか。

そしてその言い訳の奥には、
どんな“守られたままの感情”が潜んでいるのだろう。

無意識のうちに、「また言ってしまった」その言葉が、
ほんとうは何を隠し、何を避けているのか。

その問いに向き合わないままでは、
信頼という関係の重さは、
少しずつ、音もなく軽くなっていくのかもしれない。

Vol.6|“信頼できる人”のつくり方

■ 忙しさの中で消えていく「予測可能性」

信頼を築く上で、能力や善意以上に大切なものがある。
それは「予測可能性」だ。

たとえ仕事ができても、たとえ誠実であっても、予定が二転三転したり、連絡がつきにくかったりするだけで、相手の中で「信頼できる」という印象は揺らぎはじめる。
それは、怠慢ではなく、“忙しさゆえの限界”かもしれない。
しかし、結果として「この人に頼むと落ち着かない」という空気が生まれてしまう。

予測できないということは、相手の感情に負荷をかける。
そして、負荷をかける相手との関係性は、少しずつ“控えめな距離”へと後退していく。

■ 相手の安心とは、予定の正確さ以上に「構えのなさ」

信頼できる人とは、何でもできる人ではない。
むしろ、「できないこと」「間に合わないこと」「今は応じられないこと」を、明確に示せる人の方が、相手にとっては安心できる存在になる。

予定の精度やパフォーマンスの高さ以上に、
「この人は、急に取り繕ったり、無理に応じたりしないだろう」という感覚。
それが、相手の中に“構えのいらない関係”をつくっていく。

裏を返せば、どんなに応対が丁寧でも、どこかで「無理してないかな?」「本当は別の優先があるのでは?」と感じさせるような応答が重なると、
無意識に「次は遠慮しておこうかな」という判断を生む。
信頼とは、頑張りの末に得るものではなく、一定の予測可能性と、無理のなさから立ち上がっていく関係性の結果なのかもしれない。

■ 「受けること」ではなく「整えること」

関係性において重要なのは、「できるだけ多く応じる」ことではなく、
「応じるときに、余白が保たれていること」だ。

忙しさに埋もれながら、どうにか対応する姿を「頑張ってるな」と評価してくれる人もいるだろう。
ただ、それが続くと、応じることそのものが目的になってしまい、関係の質がゆがんでいく。

信頼をつくるのは、「引き受ける量」ではなく、「関係の構造」を整える力。
何を引き受け、何を断るか。
どのタイミングで応えるのか。
その判断の“根拠と一貫性”が、やがて信頼になる。

■ 問いが残る

わたしたちは、相手からどのように見られているだろうか。
「できる人」だろうか。「頼りになる人」だろうか。
それとも、「いつも忙しそうな人」だろうか。

そして、そもそも「信頼できる人」とは、どんな人だったか。
いま、その定義を、静かに問い直してみたい。

■ 小見出し

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

Vol.7|見出し

— 副題 -

■ 小見出し

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

■ 小見出し

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

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吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

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