”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

自己の地層

《 自己の地層 》

プロローグ:地層のように積もる「わかったつもり」

過去を見つめるつもりが、どこかで現在を固めてしまっている。

経験という名の層は、自負や納得のかたちをして、静かに「正しさ」を帯びていく。

けれど、その地層の下には、語られなかった感情や、見失われた揺らぎが眠っている。

「わかっている」と思ったときほど、本当は立ち止まってみる必要があるのかもしれない。

自己とは、未完の翻訳装置。

いまの私が、かつての私をどう語り直せるか――。

その問いから、新しい現在地が浮かび上がる。

Vol.0|過去が未来を選ぶとき

ある感覚がある。

過去を見つめ返しているはずなのに、そこに風が吹いている。

止まっていたはずの時間が、少しだけ流れ直すような、そんな感触。

それは、過去が書き換わるのではなく、

過去の「解釈」が、静かにほぐれ始める瞬間なのかもしれない。

「経験」は未来を閉じることがある

人は経験から学ぶ。
けれど、学びきったと思った瞬間に、その経験は「固定された解釈」に変わっていく。

「正しかった」「あれでよかった」「あの選択がベストだった」――。

こうした自負は、時に自己肯定を支える大切な柱となるが、
同時に、新たな視座の入り込む隙間を塞いでしまうこともある。

過去が語り直される機会は、いつも「今」にある。
そしてその語り直しの可能性を、自分自身が無意識に拒んでいることもある。

自己実現とは「新しい解釈」に耐えること

マズローの言う“自己実現”を、私は静かなプロセスだと思っている。
何かを成し遂げることではなく、何かが自然にほどけていくような、そんな過程。
それは「新しくなる」というより、「いまの自分がもう少しだけ深くなる」ということ。

そのためには、自分が信じてきた過去の物語が、
一度は仮置きであったことを受け入れる必要がある。

成功も、失敗も、どちらも絶対ではない。

どちらも、翻訳し直される余地を持っている。

それは、無自覚なまま自分を方向づけていたもの──
つまり、前提として染み込んでいた“見えない価値観”に揺らぎが生じたとき、
ようやくその存在に気づく、という順序なのかもしれない。

だから、「問いを持つ」という行為は、
問いを“新たに作る”というよりも、すでにそこにあったものと再会することだ。

それに気づくことができた者は、
少なくともそこから先、自分の選び方を自分の手に取り戻していくのだろう。
そのとき初めて、問いが自由を連れてくる。

翻訳装置としての“私”

経験には言葉があるわけではない。

感情と状況の織り交ざった「塊」のようなものが、
時間の中で記憶というかたちに変換されている。

そしてその変換=翻訳は、いつだって不完全だ。

私たちはその不完全な翻訳を携えて生きている。
けれど、ふとした瞬間に、別の文脈が立ち上がることがある。

それは対話であったり、出来事であったり、あるいは自分自身の沈黙の中から立ち上がる。

その時、私たちはまた、自分という翻訳装置の解像度を上げることができる。

過去から未来へ、静かに接続する

「正解を求めない」ということは、未決定のままに留まる力だ。
それは、答えを持たない自分を、信頼する力でもある。

過去を見直すことは、過去を否定することではない。
ただその意味が、少しだけ別の角度から見えてくることがある。

それだけのことで、私たちは新しい選択肢と出会うことができる。

未来は、過去によって選ばれる。
そのことに気づいた時、私たちは、過去を選び直す自由を手にするのかもしれない。

Vol.1|自己解釈という罠

―「事実」ではなく「解釈」が今を形づくる。

過去は、解釈として立ち現れる

人は過去を生きることはできない。
あるのは、記憶と、そこから立ち上がる解釈だけだ。

成功体験も、失敗体験も、そのままの形では保存されない。

記憶は再生されるたびに書き換えられ、
そのときの自分にとって都合のよい輪郭をまとって、いまの自分を形づくる。

「それは間違っていなかった」と言いたくなるとき、

そこにあるのは事実の確認ではなく、
現在の自分を支えるための、解釈の再構築なのかもしれない。

このことに気づけるかどうかは、
地層の表面を削るような繊細さを要する。

自負心という名の防衛線

「自分はこれまでやってきた」

この言葉には、経験に裏打ちされた重みがある。

だが同時に、それは自分の選択の正当性を主張する“無意識の防衛線”にもなる。

自負心は誇りと共にあり、
過去の努力や痛みと不可分なものだ。

だからこそ厄介なのは、
それが誰かに向けて立てられるときよりも、
自分自身に向けて発動するときだ。

「私はこうしてきた、だから正しかったはずだ」

そのつぶやきの奥に、小さな揺らぎがある。
本当は、違う選択肢もあったかもしれないと、
どこかで知っている。

Doingの記憶、Beingの見失い

語られる過去の多くは、Doingの履歴だ。

「何をしたか」「どんな判断をしたか」

その輪郭は記録に残りやすく、語りやすい。

しかし、その背後にあった「在りよう」はどうか。

そのとき、何を感じていたか。

何に戸惑い、何に抗っていたか。

声にできなかった感覚は、
Doingの記憶のなかで、いつしか消えていく。
Beingは、語られにくい。

けれど、

その“語られなさ”の中にこそ、
見失われた現在地が潜んでいることがある。

詰まりの正体を探る

深呼吸の回数が増えたとき、
そこには言葉にならない詰まりがある。

心臓が少し圧迫されているような感覚。

スムーズに流れていたはずのところが、
ふと止まる。

それは「うまくいっていない」のではなく、
「うまく解釈できていない」だけかもしれない。

自分の過去に対して、
なぜか腑に落ちない。

なぜか納得できない。

そんな違和感に出会ったときは、
ダウジングのように感覚を探り、
マイニングのように言葉の奥を掘っていく。

詰まりの正体は、
案外、よく知っていることばかりだったりする。

観察者であることの、揺らぎと回帰

他者の自負心に触れたとき、
それがどこから立ち上がってきたのかを
リトロダクション的に探ることがある。

だがその瞬間、
自分自身もまた、観察者ではいられなくなる。

「わかった気になること」

それもまた、自己解釈の罠のひとつだ。

観察者であり続けようとすることは、
自分の立ち位置の揺らぎを保ち続けることでもある。

わかったつもりにならずに、
何度でも現在地を見直す。

その繰り返しが、
少しずつ、自己の地層に光を入れていく。

書き換えられる過去と、書き換えられない自負。

そのあいだにある、微かな手触りを、
そっと見つめ続けていたいと思う。

Vol.2|「わかる」の悦びと、その影

— 理解が他者を遠ざけ、過去を固定することもある。
その悦びの奥に潜む、“わからなさ”との再会について。

わかった、という感覚

「わかる」ことには悦びがある。

複雑に絡まった思考や感情が、ある一点でひらけていく感覚。

霧が晴れるようなその瞬間は、
自己のなかで何かが繋がり、収まったことを告げる。

だが同時に、
その「わかった」は、次の瞬間に“止まる”。

流れていた探索が、一度停止する。

その場所に「正しさ」や「納得」が根を張る。

「わかる」ことは、
流動していた意味に形を与える一方で、
それ以上の揺らぎを拒むことにもなる。

他者が“わからなく”なる構造

自分が「わかった」瞬間、
他者が“わからなく”なることがある。

同じように見えていた景色が、
あるときからずれていく。

言葉が通じているようで、通じていない。

対話がかみ合っていないことに気づいたとき、
そこには「次元の違い」が生まれている。

それは、優劣でも知性でもない。
ただ、自己の地層が異なるというだけの話だ。

だが、そこに気づけないとき――

「どうして伝わらないのか?」

という問いは、無自覚な上下関係を孕みはじめる。

そしてその問いの背後に、
「自分はすでにわかっている」という感覚が潜んでいる。

比較という視点、探求という態度

「どうしてあの人はわからないのだろう」

この問いは、無意識のうちに“比較”の構造をつくる。

「私は理解したのに、あの人は理解していない」
という前提に立つからだ。

比較は、対象を評価する。
そして評価は、距離を生む。

そこに探求はない。
あるのは、裁定と静止。

探求とは、
「なぜそうなのか」「何がまだ見えていないのか」を
自分自身に問い続ける姿勢だ。

理解とは、到達点ではなく、
探求の一つの通過点でしかないのかもしれない。

「わからなさ」に立ち返ること

本当に深い理解とは、
「まだわからない」という状態を引き受けることかもしれない。

それは、不安定さを受け入れることでもある。

「わかったはずのことが、まだわからないかもしれない」と認めること。

それは、自分の過去の選択にも及ぶ。

「正しかった」と思っていた判断が、
違う視点では別の意味を持ち得るとしたら―

書き換えられた過去と、
まだ書き換えられていない問いとが、
自己の内部で共存しはじめる。

そこに、“地層のずれ”が生まれる。

わかることが怖い、という感覚

ときおり、
「わかること」が怖くなる。

理解が誰かを置いていってしまう感覚。
解釈が過去を固定してしまう感覚。

それでも、わかりたい。

わからなさの中に踏みとどまりながら、
わかってしまう自分を、もう一度観察する。

そうして得られた「理解」は、
他者を遠ざけるものではなく、

他者との間に架ける“橋”になるかもしれない。

理解の悦びの陰にある、静かな違和と孤独。
それもまた、自己の地層のひとつとして
そっと見つめ続けていたいと思う。

Vol.3|自負という微細な傾き

— 経験の堆積が、いつのまにか“正しさ”の断層になるとき。
それでも観察者であろうとする、揺らぎの姿勢について。

自分の「やってきたこと」が語りはじめる

誰しも、人生を重ねていくなかで、
自分が「やってきたこと」によって
語られてしまう瞬間がある。

意図せずとも、
これまでの経験や実績が「言葉の前提」になってしまう。

自分の語り口に、無意識の防衛線がにじむ。

その線は、

「自分は知っている」

「わかっているはずだ」

「こうするべきだ」という形で
そっと輪郭を帯びていく。

そして、その線の内側にいる自分は、
それが“当然”のように感じられてしまう。

微細な“傾き”が生むもの

この「当然」は、ごく微細な傾きだ。

日常会話のなかでは、ほとんど見えない。
語気を荒げているわけでもない。
威圧しているわけでもない。

ただ、

「なぜ伝わらないのか」

「どうしてわかってくれないのか」

という問いが、心のどこかで浮かび上がる。

その背後には、
自分自身が過去において「わかった」と思ったことが
暗黙の“正しさ”として潜んでいる。

自負は、他者の“今”を見えなくする

こうした自負心は、
他者の「いま・ここ」を見えにくくさせる。

相手の言動に、過去の自分を投影してしまう。

かつての自分が通ってきた道を、
「相手も同じように通るはずだ」と無意識に決めてしまう。

そこに立ち現れるのは、

相手の現在ではなく、
自分の過去から導いた未来像だ。

そしてその未来像に、
無意識のうちに相手を“当てはめよう”としてしまう。

自分もまた、その構造に絡め取られる

だが、それを見抜いたとき、
今度は別の怖さが生まれる。

「自分もまた、自負の構造に絡め取られていたのではないか」

「見抜いているつもりの自分が、確定していたのではないか」

観察する側に立ったつもりが、
いつのまにか「わかった側」に立っていたことに気づく。

その瞬間、
“観察”は“投影”と紙一重であることを知る。

自負を「手放す」のではなく、見つめる

自負は否定するものではなく、
自分を支えてきたものでもある。

それをただ手放すのではなく、
「いま、そこにある」と見つめる。

その自負に頼りたくなる自分を、
責めずに見つめ続ける。

それが、
自己の地層の奥行きを深めていくということなのかもしれない。

自負という微細な傾きが、
理解や対話の隙間に差し込むとき。

そこに目を凝らしながら、
それでも関わり続けようとする。

その姿勢のなかに、
“自負を超える”何かが芽吹く可能性がある。

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