”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 自己変容という痛み》

― 未熟な自分を赦すとき―

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プロローグ:

「自分を変えたい」と願うとき、
その言葉の裏側にあるものに、どれだけの人が気づいているだろう。

変わることは、ただ新しい自分を手に入れることじゃない。
一度、自分を疑い、揺らし、過去を手放す時間を通らなければならない。

その途中には、痛みや怖さもある。
それでも、その痛みの先にしか、本当の意味での変容は訪れない。

そんな「自分を変える」という営みの、静かな裏側を、少しだけ見つめてみたい。

序章|「自分を変える」という美しい言葉の裏側

「自分を変えたい」と、誰かがつぶやくとき。
そこには、希望と、ほんの少しの苦しさが、いつも混ざりあっている。

変わることは、いいことだ。
努力をして、成長して、よりよい自分へ。
そんな言葉が、あたりまえのように響く社会の中で、
「変わること」の痛みや怖さについて、私たちはあまり語らない。

でも本当は、変わるということは、一度、
これまでの自分を疑い、手放し、壊す時間を通らざるを得ない。

その途中で、迷子になることもあるし、
過去の自分を責めたくなる瞬間も訪れる。

「変わる」とは、ただ新しい自分になることではなく、
いったん、自分が自分でなくなるような、静かな崩壊を伴うものなのかもしれない。

そんな“自己変容の裏側”を、少しだけ、丁寧に見つめてみたい。

第1章|“無自覚の前提”に気づくことの怖さ

見えない“地図”の存在

私たちは、日々の選択や行動を、「自分で考えて決めている」と思っている。

けれど、その裏側には、自分でも気づかないうちに組み込まれた“見えない地図”がある。

育った環境や、繰り返し刷り込まれた価値観、
過去の経験から編み上げた思い込みや防衛本能。

それらが、気づかぬうちに私たちの“選び方”や“判断の基準”を決めてしまう。

まるで、プログラムされたコードのように、私たちはその地図の中を歩いている。

■ 問いが、見えないものを浮かび上がらせる

「私は、なぜそう感じたのか?」
「どうして、こういう行動を選んだのか?」

ふとした瞬間、そんな問いが立ち上がることがある。
その問いは、今まで当たり前だと思っていた前提の輪郭を、少しだけ揺らしてくれる。

ただ、その揺れは、決して心地いいものばかりではない。
自分が信じてきたもの、守ってきたものが、崩れてしまうかもしれないから。

■ 何に取り憑かれているのか」を見つめる

私たちの行動や判断の奥には、ときに、
恐れや焦り、優越感や劣等感、
そして、気づかぬうちに背負わされた“こうあるべき”が潜んでいる。

それに取り憑かれていることに気づかずに、
自分は自由だと思い込んでいる限り、
本当の意味での変化は訪れない。

「私は、いったい何に取り憑かれているのか?」

この問いに向き合うことが、痛みを伴う自己変容の入り口になる。

■ 揺れを受け入れるとき

その問いに出会ったとき、私たちは一時的に、
自分を見失ったような感覚に陥るかもしれない。

これまでの選択や生き方を疑い、戸惑い、揺れる。

でも、揺れを怖がらずに見つめ続けた先に、
これまで見えなかったものが、静かに浮かび上がってくる。

変わるとは、揺れることを恐れずに、
その揺れごと、自分を抱えていくことなのかもしれない。

第2章|過剰な自意識と自己評価の高さを見つめる

■ “いい自分”でいたい気持ち

人は誰しも、少しでも「いい自分」でいたいと願っている。
人から認められたいし、ちゃんとしている自分を見せたい。

そう思うこと自体は、特別なことじゃない。

問題は、その気持ちが知らず知らず膨らんで、
自分を縛る鎖になっていくときだ。

■ 気づかぬうちに、ハードルを上げている

「こうでなきゃいけない」
「もっとできるはずだ」

そんな声が、いつの間にか自分の中で大きくなる。
知らず知らず、自分にとってのハードルをどんどん上げていく。

結果として、些細な失敗や揺らぎに、必要以上に動揺するようになる。
他人の視線や評価が、頭から離れなくなる。
自分の中に、過剰な自意識が居座りはじめる。

■ “理想の自分”の影で、息苦しさが積もる

「もっとよく見られたい」
「ちゃんとしなきゃ」

そんな気持ちは、少しずつ自分を追い詰めていく。

理想の自分を保とうとするほど、本当の自分が見えなくなる。

気づけば、自分自身を冷静に見る余白がなくなっている。
評価や比較の渦の中で、息苦しさだけが積もっていく。

自己評価の高さを、現実に馴染ませる

自己評価が高いこと自体は、悪いことじゃない。
問題は、それが現実と噛み合わないまま膨らんでしまうこと。

理想と現実のギャップが大きいほど、揺れも苦しさも増えていく。

そのギャップに気づき、理想像をほどいていくとき、
過剰な自意識が、少しずつ静まっていく。

本当の意味で、自分をそのまま見つめ直せる瞬間が訪れる。

■ その先に、余白と柔らかさが生まれる

理想を手放した自分は、少し不完全に見えるかもしれない。

でも、その不完全さの中にこそ、余白が生まれる。

揺らいでもいい、間違ってもいいという柔らかさが、そこに宿る。

その柔らかさは、ただ自分を楽にするだけじゃない。
他人との距離感や関わり方も、少しずつ変わっていく。

自意識に縛られた自分をほどくことは、
小さな自由を取り戻す営みなのかもしれない。

第3章|赦しと統合、その先に広がる領域

■ 未熟さを責めるより、抱えていく

人は、自分の未熟さを見つけたとき、つい責めたくなる。

「どうして、もっと早く気づかなかったのか」
「どうして、あんな選択をしてしまったのか」

過去の自分に、苛立ちや失望が湧き上がる。

でも、未熟さは恥ではない。

誰もが、そのときの限界や無意識の前提の中で、選び、行動してきた。
その過程を責め続けても、過去は変わらない。

未熟さを見つめ、責めるのではなく、静かに抱えていくこと。
それが、自分をひとまわり広げる始まりになる。

■ “自分という輪郭”がほどけるとき

自己変容の途中、自分の輪郭が曖昧になる瞬間がある。

これまで信じてきたことが揺らぎ、過剰な自意識が薄れ、
その代わりに、少しだけ余白が広がる。

輪郭がほどけることは、怖い。
自分が何者なのか、一時的にわからなくなるからだ。

でも、その揺らぎを拒まずにいられたとき、
内側に、これまでになかった柔らかい領域が生まれる。

■ 多様さが、静かに根づいていく

自分の内側に余白ができたとき、
そこに、多様さが自然と入り込んでくる。

他人の違いを、無理に否定しなくなる。
意見のズレや価値観の違いも、必要以上に動揺しなくなる。

むしろ、その違いが、世界を少しだけ豊かに見せてくれる。

自分の内側が広がることで、
世界の見え方も、静かに変わっていく。

■ 変容とは、完成ではなく、更新の繰り返し

自己変容は、何かが“完成”するわけじゃない。
どこまでも、更新の繰り返しだ。

気づき、揺らぎ、また自分を見つめ直す。
その繰り返しの中で、自分の輪郭は、少しずつ変わっていく。

未熟さと過剰な自意識を手放しながら、
そのたびに、自分の内側の領域が、少しだけ広がっていく。

終章|痛みは、変わりゆく自分の“通過儀礼”

変わろうとするとき、人は必ず痛みに触れる。
それは、何かを間違えた証ではない。
むしろ、その痛みは、変わろうとする身体が発する静かなサインなのかもしれない。

過去の自分を疑い、未熟さに気づき、理想像がほどけていく。
そのプロセスは、決して楽ではない。
自分が自分でなくなるような、曖昧で、不安定な時間が続く。
まるで、蝶が幼虫から羽ばたくまでの、あの静かな崩壊のように。

幼虫は、ただそのまま姿を変えるわけではない。
蛹の中で、一度すべてがドロドロに溶けて、輪郭も、役割も、もとのかたちを失ってしまう。

目に見えないところで、自分自身が崩れていく時間がある。
その崩れの前には、必ず“気づき”がある。
自分が何に取り憑かれていたのか。
どんな前提に縛られてきたのか。
自分という境界線が、少しずつ見えてくる。

境界が見えたからこそ、その輪郭を、これから更新する準備ができる。

痛みは、ただの苦しみではない。
それは、自分の輪郭を更新するための、通過儀礼だ。

その痛みを、無理に避けず、焦らず、ただ静かに受けとめていく。
そんな営みの先に、広がりと、余白と、まだ見ぬ自分が、きっと待っている。

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