理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 人生はラフティング 》

- 川の同意 -

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プロローグ:

選択には、正しさよりも“流れ”がある。
思考では納得していたはずなのに、なぜか身体が軽くなる──そんな瞬間が、人生にはある。

この連作は、意思決定や変化の只中で立ち止まり、風のように届く“同意”や、“抗わない選択”について静かに考えるための試みである。

経営もまた、生き方もまた、操縦しすぎない技術に支えられているのかもしれない。

Vol.0|スッと軽くなる瞬間

— 身体の解放 -

ある決断を下したときのことだった。
自分としては、できれば避けたかった選択。
頭ではそれが「正しい」とわかっていたが、心の奥では、まだつながっていたい気持ちが残っていた。

だからこそ、その決断を下したあとも、納得というよりは、喪失感のほうが濃く残っていた。

しかし──その“苦渋の決断”を下した場所から離れた瞬間、不意に肩が「スッと」軽くなった。
まるで、見えない何かが剥がれ落ちていくように。
気づけば、呼吸が深くなっていた。

そのとき初めて、自分がどれほど“選ばないまま抱えていたもの”に重たさを感じていたのかを知った。
「嫌だった」はずなのに、「楽になった」自分がいる。
心と身体が、真逆の反応をしていた。

まるで、世界のどこかから──「これでいいんだよ」と、風がひと吹き、背中を押してきたようだった。

Vol.1|人生という川に浮かんで

— 流れの記憶 -

■ “流れ”が教えてくれること

私たちは、人生という川に浮かんでいる。
手には小さなパドルを握っていて、どの方向に進むかを選んでいるつもりでいる。
しかし、本当のところは──流れそのものが、もっと大きな力で私たちを運んでいる。

意志ではなく、“流れ”が教えてくれること。
カスタネダの語る“風の同意”、アーノルド・ミンデルの言う“プロセスマインド”。
それらは、単なる精神世界の言葉ではない。
むしろ、日々のなかで私たちが直面する選択や違和感のなかに、静かに息づいている。

思考が止まり、身体が先に動くとき

たとえば──何度も頭では納得しようとしているのに、なぜか身体が重く、前に進めないときがある。

逆に、理屈では説明がつかないのに、心がほどけて、自然と足が動き出すときもある。

そのズレのなかに、何かが宿っている。そこにこそ、「自分の奥にある声」が響いているのかもしれない。

私たちが「こうするべき」と考えている方向と、身体や偶然の出来事が指し示す方向とが、必ずしも一致しないことは珍しくない。

“抗うこと”さえ、流れのうちにある

もし人生がラフティングのようなものであるなら、必要なのは「すべてを自力で漕ぎ切ること」ではなく、流れを感じ取り、その瞬間に最も自然な力の使い方を見極めることなのかもしれない。

風が吹く。波が立つ。それを“敵”と見なすか、“合図”ととらえるかで、私たちの進む方向はまったく違ってくる。

ときに、流れに抗おうとして転覆し、どうしてあのとき、あんなにも執着していたのだろうと、後から不思議になることがある。

ただ、それもまた必要な体験だったとわかるときが来る。抗うことすら、“流れのうち”だったと知るときが。

状況に応える

「流れに任せる」という言葉は、ともすれば受け身に聞こえる。

しかし実際は、そのためにこそ、目をひらき、耳を澄まし、手の力を抜き、自分の小さな舟を感じ取る感覚を、何度も調整していく必要がある。

それは、単に力を抜くことではない。“いまこの瞬間、どの力を抜き、どこに踏ん張るべきか”を探る行為だ。

それが、流れに乗って生きるということ。そしてそのとき、選択は“決断”ではなく、“応答”になる。

Vol.2|“軽さ”が教えてくれる同意

— 世界の頷き -

誰かに促されたわけでもない。誰かを説得したわけでもない。自分で考え、自分で決めたはずだった。

ただ、心の奥では「本当にこれでよかったのか?」という問いが、しつこく残っていた。

思考では納得していたはずなのに、感情は引き止めていた。

それでも選ぶしかなかった。

そして──その“苦渋の決断”を下した直後、不意に訪れたあの軽さ。あれは、どこから来たのだろう。

まるで、背負っていた荷物を降ろしたような。誰かに許されたような。それとも、自分自身が、自分に許可を出したのか。

“嫌だ”と感じていたのは、本当に選択そのものだったのか?

私たちはときに、「離れたくない」「手放したくない」「壊したくない」と願う。ただ、それは相手や状況に対する想いというより、「選ばないままでいたい」という願いだったのかもしれない。

選ばずにいれば、何かが続いているように思える。しかし実際は、その「選ばない状態」こそが、身体を蝕み、心を曇らせていた。

だから、いざ決断したとき──「嫌だった」はずなのに、「楽になった」。この矛盾が、何より正直な「返事」だった。

風が同意する

ドン・ファンの語る「風の同意」や、ミンデルがいう「プロセスマインド」は、“意志”ではなく、“反応”のなかに現れることがある。

言葉にする前に、身体はもう答えていたのかもしれない。そう考えると、あの「スッと軽くなった瞬間」は──世界のほうが先に頷いていたようにも思える。

選ぶことは、何かを捨てることではなく、本当はもう終わっていたものに、静かに手を振ることなのかもしれない。

Vol.3|都市をジャングルのように生きる

Vol.3|都市をジャングルのように
生きる

— “感知”としての構え -

都市を歩く。

予定が詰まったスケジュール、混雑した電車、行き交う言葉、情報の洪水。気を抜いたら飲み込まれてしまうような毎日のなかで、私たちはどんなふうに“自分”を保っているのだろう。

「気を抜けない」と「緊張している」は、似ているようで、まったく違う。

ジャングルで生きる動物たちは、常に周囲を感じ取っている。音、風、湿度、におい──それらすべてをアンテナのように受け取りながら、次の一歩を判断している。

ただそれは、“常に緊張している”という状態とは違う。むしろ、リラックスしていなければ、感知の幅が狭まってしまう。

都市は整っている。だからこそ、感性が鈍る。

舗装された道路、制御された気候、予定どおりに動く時刻表。私たちは多くの“安全”と“利便”を得たかわりに、「感じなくても済む」という構造の中に生きるようになった。

その中で、「異変」や「違和感」に気づく力は、どうしても鈍っていく。だからこそ、都市であればあるほど、ジャングル的な感受性=“感じとる力”が必要になる

それは、すべてに敏感になるということではない。むしろ、何に敏感でいるかを選び取ること

構えすぎない構え──“警戒”と“傾聴”のちがい

緊張しているとき、人は“防御”に意識を向けている。

しかし傾聴しているとき、人は“開いて”いる。後者は、対象を信頼しきっているわけではない。むしろ、信頼できるかどうかを含めて“見ている”状態だ。

構えすぎない構え。これは、都市を生き抜くうえでの、とても実践的な感覚だと思う。

  • 何かがおかしい気がする
  • なぜか話が噛み合わない
  • 説明のつかない疲労感がある

それらを「気のせい」と切り捨てず、「風のささやき」として耳を澄ますこと。

都市のなかに、自然を生きる感性を持ちこむ

結局のところ、ジャングルを生きるとは、「世界が教えてくれることに耳を澄ます」ことだ。

都市の構造は、見えるものを信じるように設計されている。しかし人生の選択や人との関係、そして自分の内側に関しては──見えないものがすべての始まりになる。

気配。
違和感。
引っかかり。
身体のわずかな緊張や解放。

それらを道しるべにして進むこと。それこそが、都市という人工の世界を、生きた自然として渡っていく技術なのかもしれない。

Vol.4|操縦しすぎない技術

— 握りしめず、手放さず -

人生には、意志が必要だ。自分で選び、自分で進むという感覚は、ときに人を支える軸になる。

しかし、「すべてを自分の手でどうにかできる」という幻想は、しばしば私たちを過剰に緊張させ、呼吸を浅くさせる。

本当に大切なことは、操縦しすぎないこと

舵は握っている。ただ、流れそのものを自分が決めているわけではない。

それを忘れずにいることが、川を下るうえでの、もっとも繊細なバランス感覚かもしれない。

“選択”とは、未来を操作することではなく、いまに応答すること

選択という言葉には、何かを切り捨てるような響きがある。しかし実際には、選ぶという行為は「応答」でもある。

  • この風にどう応じるか
  • この違和感にどんな身の置き方をするか
  • この軽さを、信じてみるかどうか

それは、力んだ決断ではなく、耳を澄ませた末に訪れる、ひとつの返事のようなものだ。

「これでいい」という確信ではなく、「これでいいかもしれない」と感じられる余白。

風が同意する、というのは、「正解だった」と証明されることではない。むしろそれは、根拠はなくても、なぜか深呼吸できるという感覚に近い。

「これでよかったのか?」という問いは、たぶんずっと残る。ただその問いにさえ、柔らかくいられるとき──私たちは、ようやく「生きている」と感じられるのかもしれない。

“委ねること”は、無力になることではない

川の流れに任せるとは、諦めることでも、無力になることでもない。

それは、自分の力の“置き場所”を選び直すということ。どこに力を入れ、どこで抜くのか。いつ漕ぎ、いつ流れに身を任せるのか。

それを繊細に感じとる技術が、操縦しすぎないという知恵なのだと思う。

私たちはいまも、小さな舟に乗っている。川は曲がりくねり、時には激流に変わる。

でも大丈夫。風は、いつだって何かを伝えようとしている。

聞こえないときは、焦らずに、舟の底に手を置いてみる。流れはいつも、すぐ足元を流れている。

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