経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 定規を捨てるとき 》

- “取り返す人生”から“選ぶ人生”へ -

プロローグ:

「最後の30センチで“楽しかった”と言えれば、それでいい」。

9年前、そう書いた。

当時は、どこか“取り返す”ような感覚で人生を眺めていた。
もしやり直せるなら、選び直せるなら——そんな願いが滲んでいたのかもしれない。

あれから時間が経ち、いま、同じ問いに違うまなざしで向き合っている。
“取り返す”ではなく“選ぶ”ということ。
測るのではなく、選び取るということ。

このコラムは、そんな変化の先に見えてきた風景を、落ち着いてたどっていく試みだ。

Vol.0|人生は測れるのか

—「30センチ定規」から始まる話 -

以前、こんなブログを書いた。

「人生は30センチの定規のようなものだ。今の位置がどこであっても、最後の30センチ目に“楽しかった”と言えればそれでいい。」

日雇いバイトで仕事に行く朝、弁当を詰めていたあの頃のこと。
あの頃の自分は、なんとかして「未来」に希望を置こうとしていた。
たとえ今が最悪でも、いずれ笑えればいいと。
つまり、“取り返せる”と信じていた。

あの言葉は、自分自身を救うために書いたものだった。
そしてきっと、あの時期の自分には、それが必要だった。

今、あの文章を読み返すと、少し違う感覚が残る。
あの頃の言葉は、今の自分に、同じようには響いてこない。

何かを「取り返す」前提で歩いていたあの頃と、
「今、ここで、どう選ぶか」を問い始めた今とでは、
きっと見えている景色が違っている。

このコラムは、その“見え方の違い”についての記録である。
結論はない。

ただ、定規で測っていた過去の自分と、
その定規を落ち着いて捨てようとしている今の自分とが、
少しだけ向き合ってみる、そんな時間になるかもしれない。

Vol.1|定規という幻想

— “取り戻せばいい”という物語がくれた希望と限界 -

“取り戻せばいい”という物語が
くれた希望と限界

■ 希望としての定規

「最後の30センチ目で“楽しかった”と言えれば、それでいい。」
そう思っていた。

どこかにゴールがあって、今はそこに向かう途中なのだと。
だから今の苦しさには意味があり、いずれこの出来事も「いい話」に書き換えられる。
そう信じることで、日々をやり過ごしていた。

あの定規は、自分にとって“希望の尺度”だった。
今は短くても、まだ伸びしろがある。
まだ取り返せる。
この先の時間で、やり直せる。

そう考えることで、傷つきやすい自尊心を守っていたのだと思う。

■ ゴールという慰め

ただ、その“希望”には、ある種の条件がついていた。
「今の苦しさには意味がある」と言うためには、未来に何らかの“成果”や“回収”がなければならなかった。
報われなければならなかった。
結果が必要だった。

だから、どこか焦っていたのだと思う。
すべての出来事に意味をつけようとしていた。
「これは、後に語れる“エピソード”になる」
「きっと、これも伏線なのだ」と。

それはそれで、前を向くためには必要な物語だった。
しかし同時に、その物語があることで、今この瞬間の感情や、選択の重さを見過ごしていたのかもしれない。

■ “取り返す”ことの限界

思い返せば、「取り返す」という感覚そのものが、過去を否定していたのだと思う。
「こうあるべきだった」「違うやり方があったはずだ」と。
だから、その分を未来で補おうとしていた。

しかし実際は、何も“失って”いなかったのかもしれない。
失ったと思っていたものの多くは、もともと自分が持っていた“前提”や“期待”だった。

そのため、「取り返す」という視点では、いつまで経っても満たされなかった。
ゴールはいつも遠く、意味は保留されたままだった。

自分が握りしめていたのは、「失ったはずのもの」と「取り戻せるはずの未来」だった。

ただ今思うのは、そもそもそれらは“測れる”ものではなかったのかもしれない、ということ。

Vol.2|選ぶことの根拠

— 在り方の選択 -

■ 選択肢は、いつも目の前にある

「未来で取り返せればいい」と考えていた頃、実は“今、ここで何を選ぶか”をあまり見ていなかった。
選んでいるつもりで、“待って”いたのだと思う。

状況が変わるのを待ち、タイミングが整うのを待ち、誰かが認めてくれるのを待っていた。

しかし、「今ここ」にも選択はあった。
むしろ、“今しかない”という実感が、少しずつ輪郭を持ち始めてきた。

選ぶということは、望んだ結果を得ることではなく、望まなくても今ここに立つということ。
逃げないことでも、突き進むことでもなく、その瞬間に自分のあり方を決めること。

■ “心のある道”を見つけるということ

アーノルド・ミンデルが語る「心のある道」という概念に出会ったとき、自分の中にあったぼんやりとした感覚が、ようやく言葉になった気がした。

同じように見える選択肢でも、どちらかには“心のぬくもり”のようなものがある。
先が見えるから選ぶのではなく、“その道に心がある”から選ぶ。

その感覚は、合理性や損得の外側にある。
選んだ後に「正解」かどうかはわからない。
ただ、選ぶ前にたしかな気配がある。

それに耳を澄ませていくこと。
その微かな感触を、何度も確かめていくこと。
その連続が、“選ぶ”ということの正体なのかもしれない。

■ 奪えないものを、選び続けること

ビクトール・フランクルの言葉もまた、“選ぶ”という行為の尊厳を教えてくれた。
「人間は、どんな状況にあっても、自分の態度を選ぶ自由を持っている。」

これは、単なる精神論ではない。
過酷な強制収容所の中で、生死の境にあってなお「どう在るか」を手放さなかった人の言葉だ。

肉体は奪われても、自由は奪われても、態度は選べる——。
その言葉に触れたとき、“生きること”の重みが少し変わって感じられた。

「未来をどうにかする」のではなく、「今ここで自分のあり方を決める」。
それが“選ぶ”ということの、いちばん深いところにある気がした。

意味が見えないときでも、結果がついてこないときでも、
“選ぶ”という行為そのものが、すでにひとつの応答になっている。

“取り返す”という発想では届かなかった場所に、
“選ぶ”という営みが、落ち着いて灯りをともしていた。

Vol.3|測らずに選ぶ

— 不確かさを引き受ける -

■ 測り癖という安心

“選ぶ”という感覚が自分の中に芽生える前、何を拠り所にしていたかといえば、たいていは「比較」と「期待」だった。

誰かと比べて、自分がどこにいるかを測る。
昨日の自分よりマシかどうかを確認する。
もう少しでたどり着けるかもしれないという希望をつなぐ。

そうやって「定規」の目盛りを眺めていると、なんとなく“道のり”があるように思えて安心だった。
測ることで、自分を保っていたのだと思う。

評価、進捗、成果、肩書、経験——
どれも目盛りになり得たし、どれも自分を測るにはちょうどよかった。

■ 無自覚な構造依存

今思えば、その「測りたがる感覚」はずいぶん根深かった。

良かれと思って選んだ言葉も、誰かを安心させるつもりで選んだ行動も、どこかで「評価されるか」「正解かどうか」を気にしていた。

選択をしているようでいて、構造に従っていただけだったのかもしれない。
“問い”ではなく、“解”の側に重心を置いていた。

たとえば、ある道を選んだとしても、「正しかったと思いたい」から、その後の行動を積み上げていた。
それが“本当に望んだ選択”かどうかは、あまり問い返さなかった。

おそらく、怖かったのだと思う。
自分の選択が、何も保証してくれないということが。

■ 測らないでいる勇気

“選ぶ”という行為には、おそらく静かな孤独がともなう。

誰の定規にも頼らず、どんな目盛りも見ずに、それでも自分の足で一歩踏み出すこと。

結果がよければ「選んでよかった」と思えるし、悪ければ「間違えたのかもしれない」と揺らぐ。
しかし、その両方を引き受けてでも選ぶこと。

それを自分に許せるようになるまでには、ずいぶん時間がかかった。

今思えば、「選ぶ」というのは何かを決めることではなく、
“測ることをやめる”という決意に近いのかもしれない。

Vol.4|生きる意味を問う

— 心のある道の、その先で -

■ 道からの呼びかけ

「どう生きるべきか」「どの道を選ぶべきか」と考えていた時期があった。
選びきること、選択を正当化すること、選んだあとに意味を見出すこと。
そんなふうに、“問いを立てる自分”を中心に置いていた。

しかし今、あの感覚に少し距離ができている。
どの道を選ぶかではなく、“その道に心があるかどうか”を感じるようになった頃から、問いの主語が少しずつ変わってきた気がする。

問いを立てていたのは、こちらではなかったのかもしれない。
選択の場に立ったとき、本当はいつも、向こうからの問いに応えていたのかもしれない。

■ 心のある道の、その先で

ミンデルの言う「心のある道」は、選び取るものではなく、感じ取るものだった。
頭で納得できる道ではなく、どこかで“こちらが呼ばれている”と感じる道。

エマソンはこう言った。
「一人の人間の心に浮かんだものは、誰の心にも共通する真理である。」

心で感じたことは、単なる個人の感情ではなく、世界との関係の中にある普遍的な応答なのだと思う。

あのとき選んだのは、選びたいと思ったからではなく、何かに呼ばれていたからかもしれない。
そしてその「何か」とは、“意味”そのものだったのかもしれない。

■ 意味は、問いとして訪れる

フランクルは「意味を求めるな」と言ったのではない。
“意味を問う”という行為の主語を、人生の側に移したのだ。

「人生に意味があるかを問うのではなく、人生こそが私たちに問いを出しているのだ。」

その言葉に触れたとき、“選ぶ”という行為もまた、応答の一形式なのだと腑に落ちた。

選び直すことはできる。
ただそれは、“自由”というよりも、どこに応答するかという態度の表明に近い。

メルロ=ポンティは、世界を知覚する以前に“関係の中に身を置くこと”が先にあると語った。
道の選択とは、そうした関係への感度であり、意味へのアンテナのようなものだったのかもしれない。

■ 測らず、選ばず、ただ応える

ここまで、「測ること」から離れ、「選ぶ」という行為に立ち止まり、いまはもう“応える”という感覚のほうが近い。

応えるとは、何かを証明することではない。
問いに対して完全な答えを返すことでもない。
たった一歩、あるいは、たった一呼吸、そこに留まることかもしれない。

ベルクソンの言う“流れとしての時間”の中で、私たちは意味を獲得するのではなく、意味の生成に立ち会っているのだと思う。

鈴木大拙が語ったように、意味は思考によってつくられるのではなく、“今ここ”に落ち着いて漂っている。

選ぶことの、その先で。

問いを立てていたつもりのこちらが、いつのまにか問いを受け取っていたことに、ようやく気づく。

生きる意味を問うとは、意味に“答える”ことではなく、問いに気づき、それに応えるように生きることだった。

エピローグ|定規を捨てるとき

— 測らずに選ぶ、その先へ -

言葉にしないほうがいいものがある。
というより、言葉にしきれないものがあると言ったほうがいいのかもしれない。

どこまでいっても、定規を捨てきることはできない。
つい何かと比べ、測ってしまう。

だからこそ、繰り返し確かめる。
本当に、いま見ているものを信じられているか。
本当に、そこに立っているつもりで、どこか別の場所を見ていないか。

■ 測ることから離れるという選択

選び取ることには、覚悟がいる。
それは、選ばなかったすべてを背負うことでもあるから。

測りたくなるのは当然だ。
比較すれば納得できるかもしれないし、失敗を避けられるかもしれない。

それでも、測る前に感じていた小さな違和感や、まだ言葉にならない微かな予感を、なかったことにしていいのか。

■ 道からの呼びかけ

いつからか、選んでいるつもりで、選ばされていた。
問うているつもりで、問われていた。

「選択」は、自分の意志だけで完結するものではない。
出会い、流れ、偶然のような必然に、選ばされている。
それは“導き”というより、“応答”に近い。

選ぶとは、呼ばれたものに、落ち着いて応えることなのかもしれない。

■ すべての問いに、正面から答えなくてもいい

問いに出会ったとき、すぐに答えようとしなくていい。
答えられないまま、問いを抱えて歩き続ける時間がある。
その時間こそが、構えを育てる。

そして、いずれその問いに自分が答えるのではなく、自分のあり方そのものが答えになっていくこともある。

測らずに選ぶというのは、きっとそういうことだと思う。

■ 意味は、つくるものではなく、応えるもの

フランクルが言うように、「人生に意味があるかどうかを問うのではなく、人生から何を問われているかに向き合う」こと。
ミンデルが語る「心のある道」とは、外から与えられた地図ではなく、自分の足で踏みしめながら、その都度立ち現れてくる道のこと。

意味をこちらから追いかけるのではなく、向こうから呼ばれていることに、落ち着いて応える。
生きるとは、きっとそういうふうにして続いていくものなのかもしれない。

■ 問いは、まだ終わっていない

測らずに選び、選んだものに応え、応えたことがまた問いを生む。
その連なりの中で、ようやく見えてくる風景がある。

このエピローグも、終わりではない。
ただ、次の問いの気配に耳を澄ませるところから、また始まるだけだ。

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