《 “寡黙”という役を引き受けた人 》

プロローグ:
父がこんなにおしゃべりな人だったなんて、知らなかった。
病床で、まるで堰を切ったように話し出したその姿に、驚きと笑いがこみあげた。
ずっと“寡黙な人”だと思っていたのは、ただの思い込みだったのかもしれない。
あるいは──“寡黙”という役を、父が誰にも言わず引き受けていただけだったのかもしれない。
夫婦という名の小さな劇場で、空いていたその席に、そっと座っただけだったのだ。
■ 笑う父を知らなかった
父がこんなにおしゃべりな人だったとは、正直知らなかった。
病床で、言葉を探すようにしながらも、溜め込んでいた何かが決壊したように話し出したその姿は、まるで鳥のようだった。
ピーチクパーチク、ずっと喋っていた。
それが可笑しくて仕方なくて、姉貴と一緒に笑いながら聞いていた。
話の中身よりも、その姿に驚かされた。
ずっと寡黙で、冗談も言わず、面白みのない人だと思っていたのに。
あんなに毒とユーモアのある、可笑しな“おしゃべり爺さん”だったなんて。
もしかすると、昔からああいう人だったのかもしれない。
■ 空いていた“寡黙”の席
あれから考えてみた。
父は本当に変わったのか?
それとも、もともとの自分に戻っただけだったのか。
そう思ったとき、ふと腑に落ちた。
もともと父も、ユーモアがあって、喋るのが好きな人だったのだ。
でも、もっと喋るのが上手くて、感情豊かに話す人、“母”と出会ってしまった。
その瞬間、父が座っていた“おしゃべり”の席を母に譲ってしまったのだろう。
そして、空いていた“寡黙”の席に、誰かが座らなければならなかった。
その場に必要な役を、父が自然に引き受けた。
ただそれだけのことだったのかもしれない。
■ 夫婦の劇場とロールの不思議
夫婦というのは、不思議な舞台装置だ。
誰かが前に出れば、もう一人は後ろに下がる。
誰かが語れば、もう一人は聞き手になる。
その配役は、時に無意識のうちに決まっていく。
「あなたがそうするなら、私はこうするよ」という、言葉にならない譲り合い。
きっと父も母も、それぞれが“ほんとうの自分”を押し殺したわけじゃない。
ただ、どちらかが自然と主役を引き受け、もう片方が脇役になっただけだったのだ。
そこに演技も我慢もない。
ただ、空いていた席に、そっと腰を下ろしただけ。
■ ロールが解けるとき
最期の時間、父はもう一度、自分が最初に座っていた席に戻ったのだと思う。
それが“おしゃべり”という居場所だった。
病に伏しながらも、父は鳥のように喋り続けた。
それはまるで、最期のラストダンスのようだった。
語ることで、自分の輪郭をもう一度なぞっていたのかもしれない。
言葉があふれる父の姿を見て、ようやく気づいた。
あの沈黙は、“ほんとうの父”じゃなかった。
あれはただ、夫婦の劇場の中で与えられた、ある役だったのだ。