《 語りはじめる、好きでもない曲 》
語りはじめる、好きでもない曲
- 共鳴が語りはじめる、“わたし”という輪郭 -
共鳴が語りはじめる
“わたし”という輪郭
プロローグ:
なぜか時折、昔のアニメのエンディング曲が無性に聴きたくなる。
特別好きだったわけでもないのに、気づけば再生ボタンを押している。
流れてくるのは、報われない想いや孤独を抱えたまま、それでも生きようとする歌ばかり。
その旋律に、自分でも知らなかった“わたし”が呼び起こされる。
記憶の奥に沈んでいた、言葉にならなかった祈り。
共鳴を通じて見えてくるのは、「忘れていた私」との再会かもしれない。
■ なぜ、今になって聴きたくなるのか?
ある日、なんの前触れもなく、一曲の古いアニメのエンディングが頭に浮かんだ。
特別に好きだったわけでもなく、思い出深い場面があるわけでもない。
ただ、どうしても聴きたくなって、その曲を再生していた。
すると、不思議なことに、次々と別の曲も思い出されてきた。
どれも幼いころに耳にしたエンディングテーマで、いずれも例外なく、報われない想いや、孤独、傷ついた日常を抱えたまま、それでも生きようとする歌ばかりだった。
■ それは“再会”だったのかもしれない
子どもだった私は、それらの歌を深く理解していたわけではない。
ただ、言葉よりも先に、どこかで反応していたのかもしれない。
「好きだった」とも「嫌いだった」とも言えないその曲たちが、いま聴き返すと、まるで自分自身の記憶を語っているように聴こえる。
どうしてあのころ、気づけば口ずさんでいたのだろう。
なぜ、内容すらほとんど覚えていない歌詞に、いま胸を締めつけられるのだろう。
それは、当時の私が、ただ“惹かれていた”というより、“共鳴していた”ということだったのかもしれない。
■ エンパシーのなかで、自分を置き去りにしていた
思い返せば、子どものころから、他者の感情に敏感だった。
誰かが傷ついていると、自分もなぜか沈んでしまう。
場の空気が乱れると、無意識にそれを整えようと動いてしまう。
そんなふうに、私は私自身の“感情の席”を他者に譲ることを、ずっと無自覚に繰り返していた。
それは、思いやりでも優しさでもなかった。
ただ、自分の居場所を他者に明け渡すことで場を保つしかなかった、“子どもなりの生き残り方”だったのかもしれない。
■ “楔”は痛みではなく、祈りに刺さっていることがある
「ほんとは愛しているのに」「神様、あんまりです」
そんな歌詞に、どうしようもなく胸が反応してしまうのは、そこに“叶わなかった願い”が宿っているからかもしれない。
声にすることも叶わなかった祈りが、あの頃の自分の中で、言葉のかわりに旋律として生き延びていた。
そして私は、その音を避けるようにして生きていたのだろう。
それほどまでに、あの祈りは、リアルすぎた。
■ 人格は、選び直すものであり、取り戻すものでもある
こうして、思いもよらない音から、私はかつての自分に再会する。
“好き”でも“懐かしい”でもなく、“避けたかった”という感情の奥に、確かに“わたし”がいたのだと、ようやく思えるようになった。
人格とは、あらかじめ与えられた仕様ではなく、選び直され、編み直され、そしてときに、忘れていた“何か”と再び手をつなぐことで、取り戻されていくものなのかもしれない。
忘れていたはずの歌が、いつのまにか自分の物語を語りはじめることがある。
それは、「誰かを理解したい」という共感の奥に、「ずっと自分を知りたかった」という切実な願いがあったからかもしれない。



