理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 変わりゆく森の“主(ぬし)”たち 》

変わりゆく森の“主(ぬし)”たち

- “主”は常に変わり続ける -

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プロローグ:

変わらずに見えるものが、実はいちばん変わっている。
変わらないように見えるのは、それがとても穏やかの変化しているからだ。
巡る季節のなかで、“主”は入れ替わりながら、森は呼吸をつづけている。

それは人の営みにも、どこか似ている。
いつも中心にいる必要なんてない。

ときに前に立ち、ときに退き、ときに名もなく支える。
その柔らかさこそが、世界の調和を生んでいるのかもしれない。

序章|そのとき“主”だったもの

— 視点が変える世界の見え方 -

■ 解像度が上がると、世界は変わる

ある時ふと、こんなことを思った。
“なんで人は、自分の考えが変わることを怖がるんだろう?”

数年前の自分が語っていたことに、いまはもう違和感を覚える。
でも、それは裏切りでも失敗でもなくて、ただ解像度が上がっただけの話かもしれない。

見えなかったものが見えてくる。
聞こえなかった音が聴こえてくる。
それだけで、世界の捉え方は変わる。

■ “変わらなさ”にも、ひとつの呼吸がある

そう考えていくと、変わりゆくことに戸惑う人がいる一方で、変わらないことを貫ける人がいるという事実にも、少し敬意を抱くようになった。

自分をひとつの軸として保ち続けること。
どれだけ風が吹いても、同じ言葉を同じ場所で繰り返し鳴らせること。
それはそれで、ある種の呼吸法なんだと思う。

揺れながら生きる人がいる一方で、落ち着いて軸を通して生きる人もいる。
どちらかが優れているわけではなく、ただ、それぞれの「生命のかたち」があるだけだ。

■ 森の中で、主(ぬし)は入れ替わっている

森を見ていると、それがもっとよくわかる。

春には芽吹きを先導する草がいて、
夏には陰を落とす大樹がいて、
秋には種を撒く動物たちがいて、
冬には沈黙の中で土を耕す微生物がいる。

そのときそのときに、森にとって必要とされているものが、“主”になる。
固定された序列ではなく、変化し続ける役割のバトン。
それが、森という生態系を支えている。

■ 人もまた、めぐる“主(ぬし)”の一部かもしれない

そう考えると、“揺れる”とか“変わる”という事は、決して不安定なことではないとわかる。
むしろ、生態系にとって当たり前の呼吸だとも感じる。

そして人もまた、そんな風に、季節や場の中で変わりながら、
ときに“主(ぬし)”となり、ときに“支える者”となり、
それぞれの立ち位置を、落ち着いて巡っているのかもしれない

第1章|混在は、本当に“共存”か?

— 距離がもたらす調和の形 -

■ 棲み分けは、自然の知恵だった

観葉植物と高山植物は、同じ鉢には植えられない。
どちらかにとって快適な環境は、もう一方にとっては“死”に近い環境になる。

水辺の生き物は、陸では生きられないし、乾燥地の草は、湿気に触れるだけで腐ってしまうこともある。
それは「弱さ」や「劣っている」ことではない。
ただ、それぞれの命にとって適した“条件”が違うというだけのことだ。

そして自然は、すべてを混ざりあわず、それぞれに合った場所で生きられるように設計されている。

■ “多様性”という言葉のノイズ

そんな自然界の仕組みを知っているはずなのに、人間社会になると、話がややこしくなる。

「ダイバーシティ」という言葉が広がって久しい。
多様性を認め合おう。誰もが生きやすい社会をつくろう。
その志の根っこにある願いは、たしかに尊い。

しかし、どこかで感じてしまう。
「全部をひとつの鉢に植えようとしてないか?」と。

文化、属性、思想、背景──
すべてを一緒くたにして「共存です」と言い切るその構造が、まるで一時期のニュータウンや町おこしのデベロッパー施策と重なって見える。

■ “触らない”という配慮

わからないものを、自分の枠に無理やり当てはめようとしない。
大切に受け継がれてきた文化や習慣を、「わかりやすさ」の名のもとに壊さない。

そのままにしておくこと。
わからないままに、残しておくこと。
それもまた、大切な配慮のかたちだと思う。

自然界では、近づきすぎると共倒れになる関係がある。
距離を保つことでこそ、バランスが保たれることがある。

それを「冷たさ」と呼ぶか、「敬意」と呼ぶかで、世界の見え方は変わってくる。

■ 森を壊すのは、混ぜすぎた“善意”かもしれない

善意が悪いのではない。
でも、「すべてを同じ場所で咲かせよう」とする善意が、結果として誰かを枯らしてしまうこともある。

棲み分けは、排除ではない。
差異を差異のままに尊重し、それぞれの呼吸を、それぞれの場所で保つこと。

本当の共存とは、“混ぜること”ではなく、“適切な距離と配置を見つけること”なのかもしれない。

第2章|“主”は、常に入れ替わる

— 巡り合う役割とその必然 -

■ 森にとっての“主(ぬし)”とは

森を歩いていると、ふと「ああ、今、この場所を支えてるのはこの植物かもしれない」と思う瞬間がある。

それは大きな木とは限らない。
春先の一面に広がる草花かもしれないし、枯葉の下で活動を始めた微生物かもしれない。

目立たない。音も立てない。
しかし、そのときそのときで、森にとって必要な“主(ぬし)”は入れ替わっている。

■ 永遠の主役なんていない

人間社会はしばしば、「常に主役であること」に価値を置きたがる。
一度注目されたら、その座に居続けること。
変わらず一貫した立場であること。
ブレずに、揺れずに、信念を語り続けること。

しかし、自然界に目を向けてみれば、ずっと“主(ぬし)”であり続ける存在なんて、どこにもいない。

時に中心に立ち、時に退き、また別の何かが場の中心を担う──
その繰り返しによって、森は健やかに循環している。

■ 必要とされること、それが“主”の条件

“主(ぬし)”とは、力で君臨するものではない。
そのとき、その場所にとって、最も自然に“必要とされている存在”。
だからこそ、その役割を担う。

それはリーダーシップにも似ている。
一貫して全体を引っ張るリーダーもいれば、場面によって前に出たり、下がったりすることで、全体の流れを整えていくリーダーもいる。

■ 森のように、めぐる役割のリズム

ジャズのセッションのように、その時々で音を引き受け、タイミングが来たら、また別の誰かに譲っていく。

それができるのは、誰が前に出ても、誰が裏で支えていても、全体として響き合っているという安心感があるからだ。

森にとっての“主(ぬし)”も、そのリズムの中でめぐっていく。

第3章|アドリブという在り方

— 即興に宿る生のリズム -

■ “変わらずに在る”ということ

矛盾したことを言うようだが、やはり、紆余曲折なしで“売れ続ける”存在は改めてすごいと感じる。

派手な変化も、劇的な仕掛けもない。
ただ、落ち着いて、変わらずそこにある。
にもかかわらず、人が集まり続けている。

それは、ある意味では、森の“主(ぬし)”のような存在なんじゃないかと思う。

■ 君臨ではなく、調和の起点として

その存在は、力で場を支配しているわけではない。
生存競争に勝ち抜いて、頂点に立っているわけでもない。

むしろその“主(ぬし)”は、場の調和を保ち、まわりとの関係性のなかで生態系を支えている。
その存在があることで、空気がまわり、流れが生まれ、他の生命たちが安心して呼吸できる。

気づけば、その場には欠かせないものになっている。
それはもう、「存在の価値」というより「場の必然」だ。
なんだかそれは、ミッションとか在り方と呼ばれるものにも近い気がする。

■ 穏やかに、変わりつづけている

しかし、忘れてはならないのは──変わらずに見える存在ほど、実は微細に変わりつづけているということ。

枝の角度を調整し、葉の厚みを季節にあわせて変え、根の水脈を探りながら、わずかずつ居場所をずらしている。

それはあまりにも自然で、あまりにも落ち着いているから、まわりは「変わっていない」と錯覚してしまう。
でも、内側ではずっと小さなアドリブが続いている。

■ アドリブには、源泉がいる

ジャズの演奏を思い出す。
即興というのは、単なる“ノリ”ではできない。

それは、音楽的な土壌と、身体に染み込んだリズム、そして何より、“内側から湧き出す音”があってこそ成立する。
コードやスケールを理解しているのは前提だ。

しかしそれだけでは、即興は響かない。
“その瞬間の空気に応答できる力”と、“自分の音を知っている感性”があってこそ、アドリブは音楽になる。

■ 即興的に生きるということ

もしかしたら、生きることも同じかもしれない。
過去の自分をなぞるのでもなく、未来に備えて構え続けるのでもなく、いま、目の前の場と、そこにいる誰かに、どう応答するか。

即興的に生きるというのは、その都度、“自分の音”を鳴らすこと。
そして、それを持ち寄って、落ち着いたセッションのように、世界と関わっていくこと。

■ “主”の条件は、即興をやめないこと

固定された序列ではなく、そのとき、その場に必要とされる役割を引き受ける。
それが、変わりゆく森の“主”たちの在り方だとすれば──

即興をやめないこと。
自分の音を聴き続けること。
応答の感性を閉じないこと。

その落ち着いた姿勢こそが、きっと“主(ぬし)”としての資格なのかもしれない。

終章|“主”という名前のない存在

— 名もなき支えの確かさ -

■ 名づけられないまま、そこにいる

どの章でも語ってきた事だが、“主(ぬし)”というのは、決して特権や役職ではない。
それは、ただそのとき、その場にとって必要とされている存在のこと。

そして多くの場合、その“主(ぬし)”は名前を持たない。

誰が“主(ぬし)”だったのかは、あとから振り返って気づくことが多い。
あの時間を支えてくれていた誰か。
あの空気を整えてくれていた無名の手。

あるいは、ただ落ち着いてそばにいてくれた気配。
それは語られることなく忘れられてしまうこともある。
それでも、たしかにそこに“いた”という実感だけは残る。

■ 固定しないこと、名乗らないこと

「誰が主(ぬし)か」を決めることに、あまり意味はないのかもしれない。
なぜなら、“主(ぬし)”は巡るもの。

ある場面では前に立ち、ある場面では後ろに引き、またある場面では、気配だけで全体を整える。

それは名乗らず、主張せず、しかし場の呼吸のなかで、その都度“今ここに必要なもの”として現れる。

■ 生きるとは、応答し続けること

誰かに認められなくてもいい。
役割を担ったと感じられなくてもいい。

大切なのは、いま鳴っている音を聴きとり、その場に合った響きで応答すること。

それができたなら、たとえ名前を持たないままでも、たとえ誰の記憶にも残らなくても、きっと、そのときの森にとって、あなたは“主(ぬし)”だったのだと思う。

■ だから、今日も耳を澄ませる

固定された在り方を目指さなくていい。
変わらずにいようと構えなくていい。
誰かと比べて、“まだ足りない”と焦る必要もない。

ただ、耳を澄ませる。
世界がいま、どんな音を奏でているのか。
そして、自分の音はどんなかたちをしているのか。

即興で応答しながら生きていく。
その積み重ねのなかで、きっとまた、“誰かの森”のどこかに、根を張っている自分に気づくだろう。

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