経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《高純度の経営論|継承編 》

- 掟を言い直すという継承 -

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プロローグ:

企業は、理念によってではなく、掟によって始まる。
創業の瞬間にあった“どうしても応答せざるを得ない衝動”は、時を経て理念となり、次の世代に受け渡される。

だが理念が形式として守られるとき、掟の震えは失われる。
継承とは理念を守ることではなく、理念を掟にまで還元し、自らの言葉で再翻訳する行為である。

その翻訳が続く限り、企業は生きて呼吸し続ける。
やがて掟は、個人のものから共同体のものへと移り、最後には“誰のものでもない理念”へと開かれていく。

本篇は、掟が再び呼吸を取り戻す過程――継承という名の、翻訳の連鎖についての記録である。

Vol.0|掟を失った継承

— 理念だけが残るとき -

会議室の壁に、理念が掲げられている。
その前を、誰も気にしない。誰も気に留めようともしない。

朝礼では唱和され、パンフレットには美しく印刷され、新入社員研修のスライドにも、必ずその一文が載っている。
それは会社にとって“なくてはならない言葉”であるはずなのに、いつの間にか、誰の言葉でもなくなっている。

理念は、そこにあることが当たり前になりすぎた。
誰も疑わず、誰も問い直さない。唱えることが習慣になり、理解した気になり、気づけば、誰もその意味を確かめなくなった。

だが、この“気に留めない”という無関心こそが、継承のもっとも危うい瞬間なのだと思う。

理念は残っている。
その理念を生み出した“掟”は、もうどこにも触れられない。

先代の内側で燃えていた衝動、「どうしても応答せざるを得なかった」何か。
その震えが抜け落ちた理念は、形だけの標語として組織に漂い続ける。

二代目も三代目も、外部から来た経営者も、理念を“知っている”が、“感じていない”。
理念を守ろうとするほどに、その理念を生み出した掟との距離が広がっていく。

掟を知らないまま理念を継ぐと、理念は“形式”に変わる。
掟の震えを知らぬまま理念を語れば、理念は“スローガン”に変わる。
そして理念を疑うことも恐れず、ただ従順に従うだけになったとき、企業は生きて動く“身体”から、管理される“構造”へと変わっていく。

理念とは、掟の翻訳だった。
それは理屈ではなく、応答の言葉だった。
理念を守ることが目的になった瞬間、掟の翻訳は停止し、理念は“死語”になる。

誰も気づかない。誰も悪くない。
ただ、その静けさの中で、理念だけが音もなく、掟から離れていく。

Vol.1|翻訳精度という遺伝子

— 掟と理念の接続点 -

理念は、いつから「掲げるもの」になったのだろう。
かつて理念は、掲げるものではなく、溢れ出すものだった。

先代たちは理念を作ろうとしたわけではなく、行動の軌跡が、いつしか言葉になっていっただけだった。
その言葉には、まだ体温があった。

喜びや怒り、迷いや衝動が混ざり合い、一行一行が“生き方の証”として刻まれていた。
だが時を経て、理念は「整理」され、「体系化」され、やがて“守るべきもの”へと変わっていく。

■ 掟は、理念の“原文”である

理念の奥には、まだ言葉にならない“掟”がある。
それは、何を成し遂げたいかよりも、なぜそれをせずにはいられなかったのかという、行為の起点にある。
理念とは、本来その掟を社会に通訳した“翻訳文”のようなものだ。

経営とは、掟という原文を理念という言葉に置き換え、社会と共有可能な形に翻訳する営みでもある。
そして、継承とは、その翻訳をもう一度やり直すことだ。

ただしこの翻訳は、いつも誤差を含む。
掟は言語化を拒み、理念は時代の文法を帯びる。
翻訳は一度きりの完成ではなく、常に再調律され続ける必要がある。

■ 翻訳精度が落ちると、理念は“別物”になる

掟と理念のあいだには、常に誤差がある。
その誤差が小さいうちは、理念はまだ掟の呼吸を映している。
だが翻訳の手が止まると、言葉は少しずつ意味を離れ、やがて“理念だけが残る”状態が訪れる。

二代目や三代目が理念を「守る」と語るとき、そこには往々にして翻訳の意識が抜け落ちている。
理念はもう一度読み解かれることなく、“変えてはいけないもの”として保存される。
このとき、理念は掟を伝える媒介ではなく、掟の上に覆いかぶさる層になる。

さらに、別の構造変化が起きることがある。
理念が再翻訳されるのではなく、新しい価値観が掟の上に直接上書きされる状態だ。
それは意図的な否定ではなく、むしろ「更新」と見なされることが多い。
しかしこの上書きは、翻訳ではなく断絶である。

原文を参照しないまま、新しい文を重ねる行為。
掟はその下で、次第に読めなくなっていく。

理念が“別物”になるとは、誤訳でも模倣でもない。
それは、翻訳という営みが止まったときに現れる構造的な空洞
理念は形を保ちながら、意味の供給源を失う。
この空洞が、組織の中で“理念の正しさ”として再生産されていく。

■ 理念は“訳し直される”ことで生き延びる

理念とは、完成された言葉ではなく、掟という原文を翻訳し続ける“過程”のことだ。
時代が変われば、言葉も文法も変わる。
だからこそ理念は、再翻訳されることによってのみ、生き延びる

継承とは、理念を守ることではない。
理念を掟にまで一度還元し、いまの文脈で再び訳し直すこと。
その翻訳精度を保ち続けることが、組織の“生”を持続させる唯一の方法になる。

理念の精度とは、言葉の美しさではなく、掟との接続の深さで決まる。
どんなに整った理念でも、その背後に掟の震えがなければ、それは翻訳とは呼べない。

経営とは、掟と理念のあいだに存在する“翻訳装置”のようなものとも考えられる。
掟が聞こえなくなると、理念は構造に食べられ、理念が掟を思い出すとき、経営は再び生き始める。

翻訳が止まるとき、理念は死語になる。
翻訳を続けるとき、理念は呼吸を取り戻す。

Vol.2|模倣としての継承

— 理念が再現されるとき -

企業のウェブサイトには、理念が置かれている。
名刺の裏にも、会社案内の冒頭にも。

それは“なくてはならないもの”として配置され、社員も取引先も、それを疑うことはない。
理念を掲げることは、いまや社会的な作法だ。理念があることが、信頼の証になる。

その一文があるだけで、「この会社はまっとうだ」と思える。
誰もがそれを理解し、安心している。

私たちは、誰に向けて“理念”を掲げているのだろう。
その掲げ先は、外の世界か、それとも自分たちの安心なのか。

■ 揃えるための理念

理念は今も「揃えるため」にある。
問題は、その“揃え先”がいつの間にか変わってしまったことだ。

かつては、自分たちが何に応答しているのか――つまり掟に対して揃えていた。
いまは、社会的に“正しく見える構造”に対して揃えている。

揃えるという行為自体は変わらない。変わったのは、基準の位置だ。
掟が呼吸していた頃の一致は、生き延びるための感覚だった。
構造に基づく一致は、間違えないための秩序になった。

そのとき、理念は応答の言葉ではなく、防衛の言葉に変わる。

■ 不安の払拭としての安心

理念を掲げるのは、安心のためだ。
その安心の多くは、不安の裏返しとして生まれている。

ISO、CSR、SDGs――どれも善意から始まった制度だ。
社会を良くしようという願いから、企業はその枠組みを取り入れてきた。
それらが普及すればするほど、「やっていないこと」がリスクになる。

理念の明文化は、応答ではなく免疫として機能し始める。
私たちは“信じていること”を語っているようで、実際は“間違えないための姿勢”を語っているのかもしれない。

理念が掟の翻訳である限り、それは生きた言葉だ。
理念が評価の防壁になる瞬間、掟はその下で静かに息を潜める。

■ 模倣の成熟と静かな同調

理念は、制度の文法を借りて整えられていく。
語の響き、デザイン、配置――そのすべてが、社会的に“正しい”見え方に整う。

そこには悪意もないし、誰もがまじめだ。
整えることが目的になったとき、理念は“模倣”として完成する。

声を揃える時代から、形を整える時代へ。
理念は依然として“揃えの中心”にあるが、その一致はもはや掟に呼応してはいない。

整えることで安心を得る構造――それが、いまの理念が生きる場所になっている。

■ 照射という営み

理念を掲げることを、否定するつもりはない。
その必要性を、誰より理解している。

本当の問題は、理念を掲げることで何が見えなくなっているかにある。
照射とは、暴くことではない。見えなくなった構造を、静かに浮かび上がらせること。

掟の声を聞くためには、理念を疑う勇気が要る。
疑うとは、壊すことではなく、もう一度、自分たちの“揃える元の根拠”を確かめることだ。

理念を掲げるその手の中に、不安と安心がどのように共存しているのか。
その光と影の輪郭を見つめるところから、継承の本当の翻訳は、再び始まるのかもしれない。

Vol.3|掟の再呼吸

— 逸脱としての継承 -

理念の言葉がどれほど整っていても、そこに“掟の呼吸”が通っていなければ、組織は少しずつ硬くなる。
見た目には動いている。
その動きは、内側からの推進ではなく、外から押された慣性のようなものになる。

「正しさ」や「継承の形式」が揃うほど、本来そこにあった“見落とされた端”が静かに消えていく。
だが、理念を生んだ掟は、いつもその“端”のほうに息づいていた。
秩序の中心ではなく、境界のほうに。

誰も見ようとしないその隅で、新しい意味が、かすかに息をしている。

■ 掟の呼吸は、逸脱の中にある

掟が再び動き出すのは、理念が守られすぎた場所ではなく、むしろ、理念から少し外れた場所――説明が追いつかず、形式が崩れ、人の判断が揺らぐその瞬間に、掟は微かに呼吸を取り戻す。

それは、反抗や否定ではない。
「本来こうあるべきだったのではないか」という小さな違和感が、もう一度世界と通い始める感覚。
その瞬間、理念は“守るもの”から“生まれ直す場”に変わる。

掟の再呼吸とは、新しい掟を作ることではない。
かつての掟が、今という時代の中で、再び身体を通して息をするようになることだ。

■ 継承は、守ることではなく、揺らぐこと

掟が再び呼吸を始めるとき、継承は安定ではなく、揺らぎの中で行われる。
それは、理念の更新でも制度の改訂でもない。

先代が残した文法をもう一度“逸脱”させ、そこから新しい意味を生成させる行為だ。
継承とは、掟を守り続けることではなく、掟を再び“問う”こと。

問い直すことでしか、掟は現代の文脈と再び通い合えない。
この揺らぎを恐れたとき、組織は静かに呼吸を止める。

理念が掟から離れていくとき、組織は構造に閉じる。
掟が理念に再び呼吸を通すとき、組織は生き直す。

継承とは、静かな再呼吸のプロセス。
境界の向こうで息づく違和感こそが、純度を取り戻す入口になる。

Vol.4|掟の共有地

—“誰のものでもない理念”へ -

事業の始まりには、いつもひとりの“掟”がある。
それは理念や目的ではなく、放っておけない何かへの応答として動き出した衝動。

純度の高い欲求は、はじめは個人の内にありながら、その動きが他者と交わると、やがて“場”を生む。
その場に共鳴が生まれるとき、掟はすでに個人のものではなくなっている。

行動の意味が共有され、想いが言葉に置き換えられ、そして理念が立ち上がる。
企業とは、その“掟が場に変わる”現象の名前だ。

■ 理念は、誰の言葉なのか

理念は、いつから「誰かの言葉」になったのだろう。
いつの間にか、経営者や創業者の署名がついた言葉として扱われるようになった。

だが本来、掟とは所有されるものではなく、場に生じる“応答の力”そのものだった。
その力は、特定の人の中に宿るのではなく、関わる人々の間に生まれる関係の“気圧差”のようなもの。

純度の高い欲求は、個から始まりながらも、やがて共同体の中で形を変えていく。
この変化こそが、理念を「継ぐ」という出来事の本質にある。

■ 掟の個人性が終わるとき

掟が継承者の中で形を取り戻すと、その行動や判断の癖が、まわりの人に映りはじめる。
誰かが見て、試し、少し形を変えて使う。

そうした試みが重なっていくうちに、掟はひとりの内にあるものではなく、複数の人の手の中で確かめられるものになっていく。
その頃には、掟はすでに「誰のもの」でもない。

誰かの意志に従うのではなく、それぞれがその意味を見出しながら動いている。
掟は、共有されることでかたちを変え、関わる人たちのあいだで新しい重さを持ちはじめる。

■ 共に呼吸する構造

掟の共有地では、理念の意味が更新される。
誰かが言い換えるのではなく、複数の人々が、それぞれの文脈で“訳し直す”。

そこに生まれるのは統一された理念ではなく、無数の解釈が呼吸し合う“場の翻訳”だ。
この呼吸が一定のリズムを持つとき、組織は新しい秩序を得る。

それは、上下でも横並びでもない。
個々が掟の断片を持ち寄り、その差異を通して全体が形を保つような構造。

掟は単一の中心からではなく、関係の網目の中から再び動き出す。

■ “誰のものでもない理念”へ

掟が共有地になるとは、理念が所有から解放されることでもある。
創業者の意志も、後継者の解釈も、そこではひとつの声に過ぎない。

重要なのは、“その場がどう応答しているか”。
理念が誰かのものではなく、場の動きとして響いているか。
そこにこそ、継承の純度が表れる。

理念が個から離れ、場に溶けるとき、
その企業はようやく次の掟を孕みはじめる。
それはまだ言葉にならないが、関係の隙間に、確かに新しい動きが流れ始めている。

Vol.5|掟の明け渡し

— 引導としての継承 -

掟を手放すということは、理念を失うことではない。
むしろ、理念が次の形へと移るための“余白”をつくる行為だ。

掟の座を空ける瞬間、場の呼吸が変わる。
そこに、新しい意味が立ち上がる。

■ 守ることと、託すことの違い

多くの継承は「理念を守ること」として語られる。
だが、理念を守るという行為は、掟を固定し、翻訳を止める危うさをはらんでいる。

理念は守るものではなく、託すもの。
その瞬間に、意味は再び流動を取り戻す。

掟を明け渡すとは、自分が語ってきた言葉の“翻訳権”を、他者に委ねること。
そのとき、掟は個人の信念から離れ、共同体の文法として生まれ変わる。

■ 空席の力

掟の座が空くと、人は不安になる。
誰が導くのか、何を信じればいいのか。

だが、この“空席”こそが、新しい秩序の始まりだ。
場が静まり返るとき、そこでは多くの小さな翻訳が生まれている。

誰かが語るよりも早く、複数の手が動き、思考が交差する。
その“無言の共振”が、次の掟をかたちづくる。

引導とは、役割を手放すことではなく、場に“翻訳の空白”を残すこと。
そこにこそ、次の意味が芽吹く。

■ 引導としての継承

髙田明氏が「チャレンジデー」で見せた決断は、まさにその“空白”を受け入れる行為だった。
自らの意志よりも、社員たちの選択を優先した瞬間、掟の翻訳権は個から場へと移った。

彼が託したのは理念ではなく、理念を生み出す構造そのものだった。
息子が“挑戦”を掲げたとき、それは父の掟の否定ではなく、掟を新しい文法へと訳し直す行為だった。

その後のジャパネットは、“誰のものでもない挑戦”を軸に再構成されていった。
それはもはや、父の時代の掟ではない。
だが確かに、同じ源から流れ出たものだった。

■ 掟を空け渡すという自由

掟を守ることが責任なら、掟を手放すことは自由だ。
この自由は、放棄ではなく、委ね。

継承者を信じるというより、掟が次の形を見つけることを信じるという態度。
その瞬間、経営は個の意志を超え、場の生命として動き出す。

掟は語られずに、ただ循環する。
理念は静かに、次の時代の言葉へと変わっていく。

継承とは、理念を守ることではない。
掟の翻訳を続けること。
そして最後に、掟を空け渡すこと。

その空白の中で、企業はもう一度、生まれはじめる。

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