経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 ラグ(急加速する創造心) 》

- 加速する心、追いつけない私 -

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プロローグ:

進んでいるはずなのに、足取りはどこか追いつかない。
成果を重ねても、心は別の場所を探している。

非同期の感覚は、苛立ちや不安を呼び込むが、
同時に創造の余白として働き、歩みを深めていく。

螺旋を描くように、進みながら戻り、戻りながら進む。
その往復の中で、非同期もまた同期の一部であると気づく。

これは、「わからなさ」とともに歩む探求の記録である。

Vol.0|ラグの気配

— まだ言葉にならないままに -

進んでいるはずなのに、立ち止まっているように感じるときがある。
成果は出ている。
それでも、心の奥では、どこか取り残されている気がしている。

欲しかったはずのものを手に入れた途端、
それを求めていた感情はもう消えていて、
その先にある“何か”を欲しがっている。

進んでいるのに、手応えがない。
まるで心だけが先に走り、
その感触がまだ追いついてこないような気がする。

これは一体、何なのだろう。
まだ名前のない、この現象。

Vol.1|非同期の自分

— 前進しているのに追いつけない -

進んでいるはずなのに、進めていないように見える瞬間がある。
心の中では、すでに次の景色が立ち上がっているのに、
目の前の世界にはまだ反映されていない。
そのわずかな時差が、手応えのなさを生み出している。

■ 内側の更新と外側の遅れ

変化は、いつも内側から始まる。
考え方や感覚はとっくに更新されているのに、
言葉や行動はすぐには追いつけない。
だから、外から見れば「何も変わっていない」ように映る。

実際には、変化は進行している。
更新のスピードと表示のスピードが、
ただ少しずれているだけだ。

■ 残像としての私

この非同期の感覚の中で、私は自分の残像を見ているような気がする。
心は次の段階に立っているのに、
身体や表現はまだ以前の場所に留まっている。
まるで自分の影を引きずって歩いているような、不思議な感覚だ。

その残像は停滞ではない。
ただ、ほんの少し遅れて私を追いかけてきているだけ。
その差を、私は「ラグ」と呼んでいる。

■ 進んでいないように見える理由

「手応えがない」と感じるのは、
実際に進んでいないからではない。
むしろ逆に、進みすぎてしまっているからだ。

成果や形が追いつくまでの空白の時間を、
人はしばしば停滞と勘違いする。
でも本当は、非同期の時間にこそ意味があるのかもしれない。
ラグがあるからこそ、内側の変化が外側にしっかり根を下ろしていくのだろう。

Vol.2|ラグの効用

— 空白が変化を定着させる-

「手応えがない」時間は居心地が悪い。
進んでいる感覚はあるのに、成果が追いつかない。
何かをつかみかけているのに、まだ形にならない。
その苛立ちは、たしかにある。

それでも、この空白には、見えない働きが潜んでいるのかもしれない。

■ 遅れてやって来る実感

心は先に進んでいるのに、実感は後から届く。
その時差の中で「進んでいないのでは」と不安になる。
数日後や数週間後に、ふと「あの時、確かに変わっていた」と気づくことがある。

実感は失われてはいない。
遅れてやって来るだけ。
その遅さに振り回されている間は、落ち着かない。

■ 空白が定着をつくる

内側と外側が同時に動いてしまったら、変化は浅く消費されるだけかもしれない。
先に心が走るからこそ、そのあいだに空白が生まれる。
その時間差が、身体や言葉に新しい感覚を沈めていく。

ただ、その過程は快いものではない。
空白の重さを抱えたまま進む時間は、やはり長く感じられる。

■ 創造のリズムとしてのラグ

創造には、この非同期がつきまとう。
心が先行し、言葉や成果が遅れて追いつく。
その往復がリズムとなり、やがて形が立ち上がる。

そう頭では分かっていても、
待たされることへの苛立ちは消えない。
効率を求める気持ちと、深まりを待つしかない現実。
その狭間にこそ、創造のリズムはあるのかもしれない。

Vol.3|不安定の価値

— ラグとともに進むということ -

進んでいる感覚があるのに、掴みきれない。
空白が効用をもたらすことは分かっていても、そのあいだに漂う苛立ちは消えない。
ラグは、創造を支える要素であると同時に、心を不安定に揺らす存在でもある。

■ 落ち着かない足取り

更新は進んでいる。
にもかかわらず、成果が見えないと「本当に進んでいるのか」と疑いが生じる。
その揺らぎが心を掻き乱す。
足取りはたしかに動いているはずなのに、地面に触れていないような心もとなさが残る。

落ち着かない時間は、誰にとっても避けがたい。
それでも、その中でしか見えない景色がある。

■ 揺らぎの中にある創造

ラグは一定ではない。
短く済むときもあれば、長く尾を引くときもある。
不規則さは、創造のリズムを揺らし続ける。
毎回同じ歩調で成果を生み出すことはできない。

安定した再現性を望めば望むほど、この揺らぎは厄介に見える。
だが、不安定さの中で偶然に立ち上がるものが、
創造の核になる瞬間もある。

■ 不安定を抱えながら進む

ラグは障害として現れることもあれば、余白として働くこともある。
どちらに作用するかは、その時々で違う。
制御しきれないからこそ、創造は不確かさを孕んでいる。

不安定を排除することはできない。
むしろ、それとともに進むしかない。
苛立ちや焦燥を抱えながらも、その揺らぎに身を置くことで、
次の形が芽吹いていくのだろう。

Vol.4|螺旋の歩み

— フラクタルに響き合う内と外 -

進んでいるのに、戻されているように感じることがある。
同じ場所を何度も回っているようで、先に進めていない気がする。
それでもよく見ると、少しずつ位置は変わっていて、螺旋を描くように歩みは続いている。

■ 内と外の響き合い

自分の中で起きる「わからなさ」は、組織や関係性の中でも繰り返される。
理解しきれないまま、決断や行動が進んでいく。
その様子はフラクタルのように、内面の揺らぎと外側の出来事が自己相似的に響き合っている。

一人の中の不確かさが、場の不確かさと重なり合い、互いを映し出す。
その構造が、歩みを単純な直線にはさせない。

■ 「わかった」の錯覚

煎じ詰めていえば、一瞬でも「わかった」と思えることなど実はない。
「わかった」と思った瞬間、それは手のひらからすり抜けるようにどこかへ行ってしまう。
自分が「わかった」と思っていることは、カテゴライズして何かに押し込み、
「わかったつもり」になっているに過ぎない。

人は「わかった」と思った瞬間に、そのことについての探求をやめてしまう。
まだ底に達していないのに、「底に着いた」と自ら蓋をしてしまう。
探求を止めないためには、むしろ「わからなさ」を抱え続ける必要がある。

■ 螺旋とフラクタルの価値

螺旋は戻っているように見えて、実は深さを増している。
フラクタルは一見バラバラに見えるが、全体と部分が同じ構造でつながっている。
この二つのイメージは、個人と組織の進み方を重ね合わせる。

「わからなさ」は欠陥ではなく、探求を続けさせるための条件だ。
螺旋の歩みを続けながら、フラクタルに響き合う内と外が、
新しい可能性を立ち上げていくのかもしれない。

Vol.5|非同期の中の同期

— 螺旋がつなぐ感覚の往復 -

進んでいるのに遅れている気がする。
歩みを重ねているのに、取り残されているようにも思える。
その感覚を「非同期」と呼んできた。

だが螺旋を歩んでいると、また手応えに戻り着く瞬間がある。
同期しているような感覚に再び触れる。
そう考えると、非同期の時間すらも大きなリズムの中に含まれているのかもしれない。

■ 往復する感覚

非同期と同期は、対立するものではない。
一方に傾いたように感じても、やがてもう一方に戻る。
往復するその動きこそが、創造のリズムをかたちづくっている。

ズレているように見えるときも、そこには同期が働いている。
非同期と同期は交互ではなく、同時に存在している。

■ 大きなリズムの中で

短い時間のスパンでは、非同期は苛立ちを伴う。
焦りや不安が増幅し、進んでいないように感じられる。
しかし長いスパンで見れば、その非同期も同期の一部に組み込まれている。

小さなズレは、大きな秩序に抱え込まれている。
その視点に立つと、非同期は欠陥ではなく、むしろ必然の揺らぎに見えてくる。

■ 螺旋がつなぐもの

螺旋は、非同期と同期を結び直す構造でもある。
戻っているように見えても、深まりながら次の段階へ移っていく。
その過程で、非同期と同期は交差し、互いを映し合う。

個人の内側で起きるラグも、組織や関係性の中で起きるラグも、
フラクタルのように響き合っている。
螺旋を歩むことは、その響き合いの中に身を置くことなのだろう。

■ 核心としての非同期

非同期は障害ではない。
それ自体が同期の一部であり、往復のリズムを支える要素でもある。
一瞬でも「わかった」と思うと、探求は止まってしまう。
だから「わからなさ」を残したまま進むことが、螺旋の歩みを続ける条件になる。

非同期に揺さぶられながらも、その中に同期が潜んでいる。
その往復を繰り返しながら、歩みは深まっていくのだと思う。

Vol.6|尽きない探求

— わからなさとともに -

これまでを振り返ると、
非同期と同期は交互に現れるのではなく、
ひとつのリズムの中で共に存在していた。
螺旋を歩くように、進みながら戻り、戻りながら深まっていく。
そこに「終わり」という区切りはない。

■ わからなさを抱え続ける

一瞬「わかった」と思うことはある。
だがその感覚はすぐにすり抜け、また揺らぎに戻っていく。
「わかったつもり」が探求を閉じるのだとしたら、
「わからなさ」を残すことが歩みを続ける条件になる。

探求に終点はなく、常に途上にある。

■ 尽きないということ

ラグは、終わらない探求の形を映している。
非同期に見える時間も、実は大きな同期に含まれている。
その往復を繰り返すこと自体が探求であり、
尽きることのない営みとして続いていく。

結論ではなく往復。
完成ではなく未完。
その未完のままに深まる歩みが、探求の本質なのだろう。

■ 覚え書きとして

不安定の中にとどまる時間もまた、探求の一部。
非同期と同期は切り離せず、螺旋のリズムの中で重なり合っている。
歩みは終わらず続いていく。
尽きない探求として、今もその途上にある。

※《ラグ》で描かれた非同期の心の感覚を、身体中心の認知の視点から考えてみたい方には、コラム「視座の拡張」も参考になるでしょう。
こちらでは、身体が先に座標や行為可能性を立ち上げ、言葉や理解が後から追いつくプロセスが取り上げられています。
両方を読むことで、身体・認知・理解の時間差や視座の生成について、より深く考えるきっかけになるかもしれません。

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