経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 リビドーの封印 》

- 理性が支配する社会の構造疲労 -

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プロローグ:

私たちは、いつから“感じる”ことに慎重になったのだろう。怒りは不適切とされ、欲望は危険とされ、悲しみさえ「前向きに変換」される。社会は穏やかになったが、その静けさの奥で熱が眠っている。

理性が正義となり、衝動は装飾品になった。ただ、熱の消えた世界で、人は本当に生きていると言えるのか。

このコラムは、そんな問いから始まる。理性とリビドー。二つの力が共犯しながら人間を生かし続けてきたその構造を、もう一度、手の中に取り戻すために。

Vol.0|触れられない衝動

— 秩序の中で、熱が眠る -

社会は、危険を減らし、摩擦を避ける方向へと進んできた。
それは、私たちが理性を信じた証でもある。
正しさを学び、善意を磨き、他者を傷つけないふるまいを選ぶ。
その積み重ねが、現代の秩序を形づくっている。

だが、その整った構造の内側で、
世界から“熱”(衝動・根源的なエネルギー)が引いていった。

“感じる”という営みが、次第に“考える”の支配下に置かれていく。
食べること、眠ること、愛すること。
そのすべてに、正しさが与えられるようになった。

「こうすれば良い」
「こうすれば傷つけない」

そう教えられた“正しい感じ方”の中で、
人は次第に、自分の身体の声を聞かなくなっていく。

欲望や衝動は、理性の監督下で管理され、
やがて、生の熱は秩序の隙間に眠りはじめた。

そして静かな社会が完成したとき、
そこには、確かに秩序があり、
同時に――不感があった。

Vol.1|理性が過剰に働く世界

— 正しさが奪った生の温度 -

■ 正義という名の静脈

社会は、理性によって秩序を保とうとしてきた。
それは、暴力を減らし、差別をなくし、他者と共存するための仕組みでもある。
理性は、私たちの行動を制御し、社会をなめらかにした。

だが同時に、そのなめらかさが、世界から熱(衝動・根源的なエネルギー)を奪っていった。正しさは、暴力の抑止であると同時に、衝動の抑圧でもある。

怒りは危険とされ、欲望は恥とされ、感情の波は「未熟」と呼ばれるようになった。
人は、理性の美徳のもとで、不安定さを排除することを学んだ。そして、同時に生きることの野生も失った。

■ 感じることの規範

いま、多くの人が「感じ方」にさえ正解を求めている。泣き方、愛し方、癒され方。感情は自由であるはずなのに、その表現には「上品さ」や「成熟」が求められる。

そこでは、どれだけ深く感じるかよりも、どれだけ“適切に感じられるか”が価値とされる。「正しく感じる」ことが、「うまく生きる」ことと同義になったとき、感情は他者の期待を演じる舞台装置へと変わる。

それでも人は、自分を責めないために、その舞台の中で一生懸命に感じようとする。理性に従いながら、感性を演出する。そこに、もうリビドーはない。

■ 間の消失

理性と衝動のあいだには、本来“間”があった。そこは、理性が形を与える前に、身体がまだ迷っている領域。

だが現代は、その“間”を待てなくなった。効率と成果が優先され、人は迷いを「無駄」と呼ぶようになった。衝動が立ち上がる前に、理性が判断し、感情が動く前に、倫理が口を出す。

その結果、世界は安全になったが、同時に鈍くなった。“間”を刺すように働いていたリビドーの力が、落ち着いて姿を消したからだ。

■ 世界の体温

理性が世界を守ったことは確かだ。だが、その守りの中で、私たちは生きることの体温を失いつつある。正しさは、秩序を保つ。しかし、秩序だけでは呼吸ができない。

衝動と理性が並んで走る場所。その“間”にこそ、まだ人間の世界がある。そこでは、理性もリビドーも、互いに相手を支えながら震えている。その震えが、生きているという感覚の最後の残響だ。

Vol.2|理性とリビドーの同線構造

— 理性とリビドーの関係 -

■ 共犯の構造

理性とリビドーは、敵対関係ではない。
抑える側と抑えられる側、という図式にすると本質を見誤る。両者は、同じ線上で揺れ動く。一方が強まれば、他方は形を変えて現れる。

理性が社会の秩序を保とうとするほど、リビドーはその枠の中で別のかたちを探し始める。
社会は、理性によって作られた構造の上で動いている。しかし、その構造を動かしているのは、いつの時代も“生きようとする衝動”だ。

リビドーは、理性の反対語ではなく、理性を存在させるための熱源でもある。

■ 変換される衝動

いま、リビドーは抑圧ではなく“変換”の中にある。たとえば性。それは本能の表出ではなく、正解のある行為になった。「こうすれば喜ばれる」「こうすれば安心させられる」。欲望は、技術と倫理の言葉で整理されていく。そこには、暴力を避けるための知恵もある。

安心の形式だけが残り、衝動の温度が薄れていくとき、性は“正しい行為”としては存在しても、“生きた接触”ではなくなる。

食もまた、身体の要求ではなく、“意味”の摂取に変わっている。映える食事、整った食卓、倫理的な素材。私たちは味覚よりも情報を食べている。その背後には、理性が定めた「望ましい生」の形式がある。

眠りでさえ、休息ではなく「パフォーマンスの回復」として計算される。眠ることも、もはや衝動ではなく、機能の一部だ。

■ 指月の比喩

ブルース・リーは言った。「Don’t think, feel. It is like a finger pointing a way to the moon. Don’t concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory.」

「考えるな、感じろ。それはまさに 月を指し示す一本の指だ。 指先にばかりとらわれるな、 さもないと、その雄大な月の輝き(真理)を、すべて見逃してしまうだろう。

この言葉は、理性を否定するものではない。感覚の前に理屈を置くな、という教えだ。だが現代では、“感じ方”そのものに正解が置かれている。感じることが制度化され、「こう感じるべき」という指の形ばかりが整えられていく。

私たちは、月を見るよりも、その指の持ち方を学んでいる。そして、月の光よりも、“正しい感じ方”のほうを信じてしまう。リビドーは、熱としての性質を失い、理性の下位概念として従属していく。感覚は、経験ではなくマナーになった。

■ 形式に溶ける欲望

現代社会では、リビドーは消されてはいない。ただ、社会の形に溶かされている。性はコミュニケーションに、食は自己表現に、眠りは効率のために、それぞれ翻訳されていく。

この翻訳の過程で、欲望の原型は失われる。“感じる”という行為が、“理解する”に置き換えられるからだ。人は、自分の感情を分析しながら感じるようになった。安心を求めて、理性の中で衝動を再現しようとする。

その再現はいつも少し冷たい。それは、火を映した水面のように、確かに在るが燃えてはいない。

■ 生の反射

リビドーは完全には死なない。それは、社会の端で、あるいは逸脱のかたちで現れる。スキャンダルや衝動的な暴発。それらは個人の異常ではなく、社会全体が抑え込みきれなかった“生の反射”でもある。

理性が形を作り、リビドーがそこに流れを与える。その共犯関係の中でしか、社会も人間も、生き続けることはできない。どちらかが主になった瞬間、もう一方は形を失う。

理性は、リビドーを必要としている。そしてリビドーもまた、理性を必要としている。その二つの揺れのあいだにこそ、まだ「感じる」という営みの余白が残っている。

Vol.3|リビドー不在社会の症状

— 鈍化と逸脱のあいだで -

■ 鈍化という防衛

世界から“熱”が引いていった。人々は穏やかに見えるが、その穏やかさの奥に沈黙がある。かつては不安や衝動が生を動かしていた。いまは、感情のノイズを減らすことが“成熟”として扱われる。

感じることは、危ういとされる。だから、感情を制御する技術が洗練されていった。「平常心を保つ」「理性的に判断する」——それは人を守るための知恵だった。

だが、守ることが常態化すると、感情の振幅そのものが消えていく。安定とは、痛みを感じないことではなく、痛みを避ける訓練の果てに残る無感覚なのかもしれない。

■ 逸脱の倫理

世界が感じる力を失うと、抑えられたエネルギーは別のかたちで現れる。スキャンダル、依存、暴力——それらは個人の逸脱として裁かれるが、本当は“世界のシグナル”なのかもしれない。

プロセスワークの視点でいえば、それは“場の精霊”が、忘れられた声を届けてくる現象だ。誰かの極端な行為は、そのメッセージの代弁。「お前たちは、感じることを忘れている」と。

逸脱は、崩壊ではなく応答。世界が鈍化したとき、場の精霊は衝動や混乱のかたちで現れる。それを抑えつけるのではなく、聴き取ることが求められている。

■ 世界の温度差

熱を失った社会では、「冷静」と「冷たい」の境界が曖昧になる。配慮はあるのに、体温がない。言葉は優しいのに、触れられない。人は互いを尊重しながら、同時に深くは関わらないよう訓練されていく。

感情はアルゴリズムで測られ、共感はフォーマット化される。どのように感じるかさえも、社会が定めた“正しい反応”の中に収まっていく。感情の自動化が進むたびに、世界はさらに落ち着いたものになっていく。

■ 指月の先に残るもの

ブルース・リーの言葉
「Don’t think, feel. It is like a finger pointing a way to the moon. Don’t concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory.」

現代は、この言葉を逆に生きている。指を整え、月の見方を学ぶ。“感じる”ことではなく、“感じ方”が教えられている。

それでも、場のどこかでは、小さな揺れが生まれ続けている。逸脱という名のシグナルは、まだ世界が完全に冷え切ってはいない証拠だ。

感じることの自由を取り戻すこと。それは、理性を否定することではなく、リビドーを再び世界に通わせること。その往復のなかで、私たちはもう一度、「生きている」という感触に触れ直すのかもしれない。

Epilogue|まだ熱のある場所

世界は、完全には冷え切っていない。見えないところで、小さな震えが続いている。誰かの違和感、誰かのため息、そのすべてが“場のシグナル”なのかもしれない。

感じることは、もはや個人の能力ではない。世界と呼吸を合わせること。その呼吸の中に、理性も、衝動も、共犯のまま溶けていく。

思考することと、感じること。どちらが主でもない。ただ、熱の通う方へ。そこにまだ、人が生きている。

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