”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 マーケティングは“3番目”》

-コンセプトを汚さない順番の話 -

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プロローグ:

マーケティングを最初に置いたとき、
コンセプトは誰かの期待に最適化された「設計図」になる。

けれど本来、信じていることがまずあって、
それを言葉にし、ようやく届け方を考える。

この順番が守られたとき、
マーケティングは“信念の波紋”を世界に広げていく営みになる。

これは、そんな「順番の倫理」をめぐる、小さな覚書である。

Vol.0|コンセプトという“確信”に還る

■ いつの間にか、順番がすり替わっていた

コンセプトって、何かを“売る”ための言葉だったっけ。
そう思うことがある。いや、けっこうある。

マーケティングの場面では、「誰に、どう響くか」をまず考える。
そのために「伝わるコンセプトを作ろう」と言われる。
うん、間違っていないし、たぶん必要なことでもある。

だけど、どこかに小さな違和感が残る。
言葉は整っているのに、芯がない。
期待には応えているのに、自分がどこか遠い。

もしかして、「伝えること」が出発点になってしまっているのかもしれない。

わたしが言いたかったことは、
そんなふうに“伝わるために調整された何か”じゃなかったはずなのに。

■ コンセプトとは、静かな確信である

わたしにとって、コンセプトとは、
誰かの期待に応えるための設計図ではなくて、
もっと素朴で、もっと静かな“確信”だった。

うまく言葉にならないことでも、
「これはほんとうだ」と思える感覚。
そういうものが、確かにある。

それを誰かに伝えようとしたとき、
はじめて“言葉”が必要になる。

つまり、順番としては
信じていること(コンセプト)が先にあって、
それを言葉にする(表現)があり、
どう届けるか(マーケティング)は、本当はその後(あと)なんだと思う。

■ 見出すもの、触れ返すもの

コンセプトって「作る」というより、
「見出す」ものではないだろうか。
あるいは、「何度でも触れ返す」もの。

それはいつも、わたしの内側にあって、
喧騒のなかでは見えなくなってしまうけれど、
ふと静けさの中で思い出せるようなもの。

表現が派手になればなるほど、
届ける手段が洗練されればされるほど、
この“静かな確信”から遠ざかっていく感覚がある。

だからこそ、思い出したい。
わたしはなぜ、それを伝えたいと思ったのか。
そこに、すべての始まりがある。

■ マーケティングは、接続の工夫である

信じていることがある。
それを言葉にしたいと思う。
そして、それが誰かに届いたらいいなと願う。

マーケティングは、本当はその「届け方」の工夫だったのではないだろうか。
しかし、いつの間にか“出発点”にされてしまう。
「どう売れるか」が先に立ってしまう。

もちろん、届けることは大事だ。
とはいえ、それが先に来ると、
言葉の輪郭が、どこかで他人のものになる。
それはきっと、わたしが言いたかったことじゃない。

■ イミテーションではなく、祈りとして

誰かに届いてほしいと思うとき、
つい「伝わるように整えよう」としてしまう。

でも、ほんとうに届くものって、
どこか整いすぎていないものかもしれない。

言葉の奥に、揺るがないものが感じられるとき、
人はそれを「本物」だと受け取るのだと思う。

わたしにとってのコンセプトは、
届けるために設計するものではなくて、
届ける価値があると思える“確信”だ。

それを忘れないようにしたい。
そして、マーケティングを、その確信にあとから添える技術として、
もう一度見直してみたいと思っている。

Vol.1|言葉にするとは、輪郭を与えること

— “表現”という営みのやさしさと暴力

ことばにしなければ、伝わらない

ただ、ことばにした瞬間に、こぼれるものがある。

わたしは日々、「表現すること」の必要性を感じている。
思っているだけでは、伝わらない。
信じているだけでは、共有できない。
だから、ことばにする。

でも時々、ことばにすることが、
“それ”の本質を遠ざけてしまうような気もする。

たとえば、「やさしさ」という言葉。
それを口にした瞬間、
誰かの心には「甘さ」や「弱さ」や「逃げ」のニュアンスが宿るかもしれない。
わたしの思っていたやさしさとは、ちょっと違う。

きっと、それはもう、仕方のないこと。
ことばにした以上、それは受け取る側の“解釈”を伴って、
わたしの手を離れていく。

■ 言葉は、意味を固定する

信念や感覚というのは、もともと輪郭があいまいで、
湿度があり、動的で、ゆらいでいる。

それを“伝えるため”にことばにすると、
どうしても輪郭が生まれてしまう。
曖昧だったものに、形がついてしまう。

これは、表現のやさしさでもあり、暴力でもある。

やさしさは、「共有したい」という意志。
暴力は、「こうだ」と決めてしまう構造。

とくにコンセプトのような、
“確信だけど、まだかたちになっていないもの”に言葉をあてるとき、
わたしはいつも、少し緊張している。

そのまま伝えたい。でも、閉じたくない。

■ 翻訳する、ではなく「触れ返す」

最近よく思うのは、
表現って“翻訳”じゃなくて「触れ返し」なんじゃないか、ということ。

わたしの中にあるものを、いったん手に取り、
自分なりのかたちで撫でたり、なぞったりして、
もう一度、触れなおすように言葉をあてる。

そのとき重要なのは、
「何を言うか」よりも「どこから言うか」。

つまり、どこまでその言葉と自分が接続しているか。

表現は、技術である前に、関係性なんだと思う。
わたしとコンセプトとの関係。
そして、その言葉と世界との関係。

■ 表現は、届ける前の“再確認”

ことばにしてみることで、
自分が信じていたと思っていたことに、
「ほんとうに?」と自分で問えることがある。

逆に、ことばにしようとしても出てこないとき、
「ああ、これはまだ自分の中で定着してないんだな」と気づくこともある。

だから表現って、誰かに“伝える”前に、
まずは自分自身と信念との再確認のプロセスでもある。

それを経たあとでこそ、
「どのように届けようか?」というマーケティングのフェーズに入っていける。

■ 言葉にすることを、もっとやさしく

表現とは、武器ではなく、
灯りに近いものかもしれない。

そこにある確信に、ふっと光をあてるように、
わたしは今日も、言葉を探している。

伝えることを急がずに、
まずは触れ返すことを大切にしたい。

Vol.2|届けるとは、接続すること

— マーケティングの語源から、もう一度“営み”を見直す

■ 「どう見せるか」ではなく、「どこで触れ合うか」

マーケティングという言葉には、どこか“技巧”のにおいがある。
ターゲティング、ブランディング、カスタマージャーニー…
なんとなく、「見せ方の話」として語られることが多い。

でも、ふと思う。
本来のマーケティングは、
もっと素朴なものだったんじゃないか。

わたしが大切にしている“確信”を、
その確信にふれるべき誰かに、ちょうどよく手渡すには…?
その“接続”のあり方を考えることこそが、マーケティングのはず。

つまり、「どう見せるか」ではなくて、
「どこで、どんなふうに、出会ってもらうか」という視点。

■ 自分の言葉を、誰かの生活の中に落とす

SNSでの投稿。
ふと手に取ったチラシ。
たまたま聴こえてきたラジオの声。
たまには、散歩の途中で見かける看板さえも。

わたしたちは、日々たくさんの「ことば」に触れている。
そのなかに、すっと入り込んでくるものだけが、記憶に残る。

それは、言葉のうまさやビジュアルの鮮やかさではなく、
“その人の生活のタイミング”と“メッセージの振動”が
ピタリと合う瞬間があるからなのではないだろうか。

つまり、「誰に、どの瞬間に、どう届けるか」は、
受け取る側の“余白”にフィットするということ。

■ 接続とは、支配ではなく、共鳴である

わたしが届けたい言葉は、
誰かの人生をコントロールしたいわけじゃない。

「あ、なんか、わかるかも」
そんなささやかな共鳴が、マーケティングの核なんじゃないかと思う。

売るために飾るのではなく、
信じていることの“温度”を変えずに、
そのまま手渡すこと。

その難しさと愛しさを、
わたしは忘れずにいたい。

「順番」がすべてを決める、という仮説

わたしには、ひとつの仮説がある。
それは、順番こそがすべてを決めるということ。

  1. 信念(コンセプト):静かに確信していること
  2. 表現(メッセージ):その信念を自分なりの言葉に変える
  3. 接続(マーケティング):誰に、どの瞬間に、どう届けるかを工夫する

この順番が逆転したとき、
表現は“ウケるための演出”になり、
マーケティングは“売るためのテクニック”に変わってしまう。

でもこの順番を守れたとき、
コンセプトは、汚されることなく世界とつながれる。
マーケティングは、“信念の波紋”をひろげていく営みになる。

これはあくまで、わたしの個人的な持論。
でもこの順番に忠実であるとき、
たしかな手応えが生まれる気がしている。

■ コンセプトを汚さずに、世界とつなぐ

Vol.0で「マーケティングは3番目に来る」と書いた。
Vol.1で「ことばにすることで、輪郭が生まれる」と書いた。
そしてVol.2では、その輪郭を誰かに“どう届けるか”を考えてきた。

しかし、どんなに優れたマーケティングも、
コンセプトの静かな確信を起点にしていなければ、
それはただの「外向きの技法」になってしまう。

マーケティングとは、
信じていることを、信じたまま届けるための工夫。

その順番を、わたしは大切にしていたい。

Vol.3|整えすぎないことの力

— “らしさ”より“にじみ出るもの”を信じてみる

■ なぜ「ちゃんとつくったのに」届かないのか?

誰しも経験があると思う。
がんばって整えた投稿がまったく反応されず、
ラフにつぶやいたひと言に「それ、わかる」と共鳴が集まるあの感覚。

何が違ったんだろう?
デザイン?トーン?運?

いや、たぶん「余白」なのだと思う。
あまりにも“ちゃんと”整っているものは、受け手の入りこむ隙がない。
完璧な言葉は、むしろ感情を跳ね返してしまうことがある。

■ 情報より、体温を伝える

情報やメリットを、順序立てて伝えるのがマーケティング—
そう信じられてきた時代もあった。

でもいま、求められているのは「伝わる」ことよりも「触れる」ことかもしれない。

「なんかわからないけど、いい」
「なぜだかわかる気がする」

そういう感覚は、整いきったコピーからは生まれにくい。
むしろ、ちょっとしたにじみ、違和感、呼吸の間に宿る。

伝えようとする熱量そのもの、
言葉になりきらない“なにか”が、受け手の感覚に触れる。

■ 整いすぎは、信念を隠してしまう

わたしが感じているのは、
整えれば整えるほど、信念は奥に引っ込んでいくということ。

それは皮肉にも、“届けようとする行為”が、信じていたものを見えなくするという構造。

一方で、未完成なまま差し出す勇気は、
伝わりにくさと同時に、誠実さを生む。

そのままでは伝わらないかもしれない。
しかし、わたしは思う。
「そのままであること」への信頼こそ、
マーケティングを“接続の営み”に戻してくれる気がしている。

■ うまくやろうとしない、という美学

うまくやろうとすればするほど、
わたしたちは「自分でない誰か」を演じてしまう。

それは、たぶん表現においても、接続においても同じ。
だから、少し整えなさすぎるくらいがちょうどいい。

コンセプトは、“信念”から生まれた静かな確信
メッセージは、その信念を自分なりに言葉にしたもの
マーケティングは、それを世界に接続していく工夫

この順番を壊さないためには、
届けるときにも“信念の声”を消さないようにしたい。

マーケティングを「声を増幅させるツール」にしてしまうのではなく、
その人らしさが、ふとにじむような“場”として扱っていくこと。

■ 伝えるより、漏れること

もしかしたら、マーケティングって「伝える」ことじゃなく、
信じていることが、いつのまにか“漏れている”状態なのかもしれない。

整えすぎず、飾らず、ただ差し出してみる。
そんな素朴な接続のあり方に、わたしは惹かれている。

それが、いちばん“コンセプトを汚さない”届け方なのかもしれない。

Vol.4|信念が生きるマーケティング

— 「売ること」を超えて、「差し出すこと」へ

■ 「売る」と「信じて差し出す」は、似て非なる

マーケティングの話になると、
どうしても「売れるかどうか」という基準が前面に出てくる。

でも、それはほんとうに目指していたことだったのだろうか?

売るための言葉を重ねるほど、
最初の信念から離れていく感覚がある。

それよりも、信じているものを「ただ差し出す」ことの方が、
実はずっと難しくて、ずっと尊いのではないか、と思う。

■ コンセプトに手をつけない、という覚悟

このシリーズを通して、
わたしがずっと言いたかったのは「順番」の話だった。

コンセプトを、
マーケティングしやすく整え直すのではなく、
そのままのかたちで、
どうやって世界と接続するかを考えること。

だからこそ、
信念(=コンセプト)には手をつけない、という覚悟がいる。

そして、表現も、接続も、
その信念の輪郭を崩さないように設計していく。

それが、わたしの思う「マーケティングは3番目に来る」ということの核心。

■ 誰かの“ために”ではなく、誰かと“ともに”ある

よく、マーケティングは「誰のためにやるのか」が重要だと言われる。
たしかにそれはそうかもしれない。

でも最近、わたしはこんなふうにも思っている。

「誰かのために」届けようとした瞬間、
その“誰か”に合わせてコンセプトを変えてしまう誘惑が生まれる。

そうではなくて、
「誰かとともに生きる」ように、信念を差し出していく方が、
ずっと健やかで、持続可能な営みになるんじゃないか。

■ コンセプトが呼吸するマーケティングへ

マーケティングは、戦略ではなく、呼吸のようなものかもしれない。
力まず、でも止めず。
絶えず「いま、ここ」に信念を差し出し続ける行為。

うまく伝わるかどうかではなく、
いま、たしかにこのコンセプトを信じている自分がいるかどうか。

それが、届けるという営みの出発点なんだろうと考えている。

■ 3番目に来るからこそ、強い

「マーケティングは3番目に来る」。
それはただの順番ではなく、
“コンセプトを汚さないための倫理”でもある。

信念 → 表現 → 接続。
この順番に忠実であるかぎり、
マーケティングはテクニックではなく、哲学になる。

わたしが目指したいのは、
マーケティングの中に、信念の呼吸が残っている世界。

そして、その呼吸を感じ取ってもらえるような、
そんなやさしい接続を、これからも続けていきたい。

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