理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 見えていなかった星を見る 》

- 風が描いた星座 -

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プロローグ:

ふとした瞬間に、見えていなかった星が姿をあらわすことがある。
意味のないと思っていた出来事が、ひとつの星座のように結ばれていくことがある。

それは、正しさを手放した先でようやく見えてくる風景かもしれない。

この物語は、地図のない夜空を見上げながら、
問いをたずさえて歩む支援の記録である。

明確なゴールも、確かな答えもない。
しかし、そっと吹く風に耳を澄ませるとき、
新しい星の結び方が見えてくるかもしれない。

Vol.0|正しさがほどけていく場

— 正解主義から距離を取る“覚悟”-

意図なき設計は、ただの漂流である

何かを始めようとするとき、私たちはまず「設計図」を欲しがる。

それがあると、安心できる。
方向性が見えたような気になる。

しかし、その設計が「どこに向かうか」「なぜ、それを望むのか」という
“意図”に根ざしていなければ、
いくら精緻でも、ただの形だけにとどまってしまう。

地図があっても、魂がそこに宿っていなければ、
進むうちに道を見失うだろう。

だからこそ、出発点で本当に必要なのは、
設計図よりも“意図”なのだ。

意図は、源泉のようなもの

意図とは、「最終的に何をつくるか」という明確なゴールのことではない。

それよりもずっと手前にある、まだ言葉にならない衝動や感覚。

「なぜ、これを始めようとしているのか」
「今、自分は何に動かされているのか」

その“源泉”に触れることができるほど、
道に迷っても立ち返る場所が持てる。

設計は後からでも描き直せるが、
意図のないプロセスは、どこにもつながっていかない。

意図は、進みながら深まっていく

ただし、その意図の源泉が最初から明確とは限らない。

むしろ、はじめは「それっぽい正しさ」の仮面をかぶってやってくる。

進んでみて初めて、「なんだか違う」と感じる瞬間が訪れる。

そこではじめて、自分の意図の輪郭が浮かび上がってくることがある。

出発点でありながら、旅のなかでようやく姿を見せてくる。

それが意図の本質なのだ。

仮面を脱ぎながら、意図を思い出していく

支援の現場でも、創造のプロジェクトでも、
ときに立ち止まって、「本当は何を望んでいたのか?」という問いと向き合う瞬間がある。

はじめは見えなかったものが、迷い、失敗し、試し続けるなかで、
ふと立ち現れてくることがある。

そのプロセスこそが、私たちが身につけた“正しさ”の仮面を脱ぎ、
自分の奥にあった意図と再会する営みなのかもしれない。

覚悟とは、設計図を捨てることではない

言いたいのは、「設計を否定せよ」ではない。

むしろ、設計は必要だ。
支援やプロジェクトは現実と結びついている。

ただし、設計が本当に力を持つのは、
それが意図に支えられているときだ。

意図があれば、設計は何度でも“編み直せる”。

私たちに求められているのは、
変化の中で意図に立ち戻りつづけること。

それが、「正しさがほどけていく場所」で
私たちが選び取る“覚悟”なのだ。

Vol.1|意図のない設計は、創造ではない

Vol.1|意図のない設計は
創造ではない

— 行き当たりばったりとブリコラージュの違い -

行き当たりばったりと
ブリコラージュの違い

■ 動いている錯覚

「とりあえず動こう」と言われることがある。

試して、失敗して、フィードバックを得ることには意味がある。

でも、ときに「動いてはいるのに、何も進んでいない」と感じることがある。

よくあるのは、「とりあえず場を開いてみた」「対話を促してみた」などのアクション。

それが何に応答しているのか、どんな未来を見据えているのか。

その問いがないと、動きは散らかり、意味が積み重ならなくなる。

「行き当たりばったり」が失敗するのは、動きが悪いからではなく、問いが欠けているからなのだ。

■ 「設計図のない設計」は創造の本質

問いがあるとき、たとえ完成図がなくても、創造的な道のりになる。

その場で手に入る素材を用いながら、
その都度、構造を組み替えていく。

レヴィ=ストロースが「ブリコラージュ」と呼んだのは、
そうした創造の態度だ。

明確な設計図が役に立たない現場では、
問いを携えたブリコラージュこそが力を持つ。

状況の変化に応じて設計を変えながら、
「いま、ここ」に意味を紡いでいく。
そこには必ず、意図がある。


※ブリコラージュ:フランスの人類学者レヴィ=ストロースが提唱。
「器用仕事」と訳される概念。限られた手段を使い、素材に新しい意味を与える創造行為。
その背景には、制約に応答する明確な“意図”がある。

■ 行き当たりばったりとブリコラージュ

柔軟に動くことと、問いなしに動くことは違う。

「問い」がない動きは、方向性を持たず、流れを生まない。

一方で、ブリコラージュには芯がある。

予測不能な現実の中でも、問いがあるから意味を編み直せる。

目の前の素材を、未来に向けた関係へとつなぎ直す。

同じ「予定外の状況」に見えても、そこにある問いが、行動の質を決定づける。

■ なぜ支援には「設計力」が必要なのか

支援の現場に万能なセオリーはない。

だからこそ、その場その場で「何が起きているか」「何が起きてほしいか」を接続し続ける力が求められる。

それは、未来を支配する技術ではなく、問いを媒介に構造を編み続ける力だ。

支援者にとっての“設計力”とは、現実の中で、関係と意味をつなぎ直していく力である。

■ そして、それは覚悟の話になる

ブリコラージュは失敗も含んだプロセスだ。

正解のなさと向き合い、摩擦とともに前に進む。

それでも「問いを手放さずに設計しようとする態度」が、未来の芽をつくる。

意図とは、未来に対して応答しようとする姿勢。
設計とは、その意図を現実に触れさせる営み。

正しさに頼らず、問いを携えて世界と編み直し続ける。

そこに、支援者としての“創造”と“覚悟”の原点がある。

Vol.2|縁起のなかの意図

— 「わらしべ長者」「塞翁が馬」に潜む“選びの意志” -

「わらしべ長者」「塞翁が馬」
に潜む“選びの意志”

「意図せずうまくいく」は、本当に偶然か?

昔話『わらしべ長者』は、ある意味で“意図のない成功譚”のように見える。

観音さまの夢のお告げに従って最初に手にした一本の藁が、
次々と交換されていき、最後には大きな富を得る。

その展開には、まるで運命が手を引くかのような滑らかさがある。

では、本当にそれは偶然の連なりなのか?

支援や創造の現場に身を置く者として、この物語に漂う“他力本願”の空気をそのまま鵜呑みにしていてよいのだろうか。

■ 「縁起」とは、偶然のようでつながっている

仏教における「縁起」は、「すべての現象は、さまざまな条件が相互に関係しあって起こる」という世界観を指す。

つまり、「偶然に見えること」は、実際には無数の関係性の網の目の中で生まれているという考え方だ。

支援の現場でも、思いもよらぬ出会いや、予測できなかった展開が起きることはある。

しかし、それをただの“運”として片づけてしまえば、その背後にある構造や、自分自身の選択の意味に目を向ける機会を失ってしまう。

「意図しなかった」のか、「意図が見えなかった」のか

『わらしべ長者』の主人公は、与えられた縁に無自覚に乗っていただけだったのか。

実は、彼は交換のたびにその場の状況をよく見て、差し出すものを選んでいる。

たとえば、赤ん坊の機嫌が悪い女性に蜜柑を渡す場面や、馬を失った男に布を差し出す場面には、相手との関係性を読み取り、自分の手持ちをどう活かすかという判断がある。

つまり、彼はただ流されていたのではなく、「選んでいた」のだ。

目の前の縁に応答することで、結果的に豊かさが開かれていった。

■ 「選び方」が物語を編み直す

似たような話に『塞翁が馬』がある。

こちらは“何が吉で何が凶かはわからない”という無常観が強調されるが、
実はそこにも「選び方」の問いが潜んでいる。

不運に見えたことをどう受け止め、どう動くか。
その態度ひとつで、次の縁の形が変わってくる。

どちらの物語も、「意図がすべてを決める」と言っているわけではない。
とはいえ、「どんな縁の中で、どう選ぶか」は、
やはり個々人の意志に委ねられている。

■ 縁起と意図は対立しない

私たちは、「自分の意図を持つこと」と「縁に身をゆだねること」を、つい対立項として捉えがちだ。

しかし本来、縁起の世界の中でこそ、意図は生まれ、育まれる。

すべてが関係の中で変化していくという前提に立つとき、私たちの意図もまた「変化していいもの」になる。

そして、自分の意図が変われば、出会う縁の“意味”も変わってくる。

■ 意図とは、未来に向けて関係を選びなおす力

支援とは、他者とともに「未来を編む営み」だ。

何が起きるかわからない現場で、いま出会っている縁にどう応答し、どんな関係を選び直すか。
そこにこそ、支援者の意図が現れる。

意図とは、結果をコントロールする力ではない。
未来に対して責任をもって関わろうとする“態度”そのものだ。

■ 縁を信じるとは、「問う力」を手放さないこと

縁起に身を委ねることは、「すべては運次第」と思考停止することではない。

むしろ、「この縁に、私はどう応答するか?」と問い続けること。

それは、意図と縁を結び直しながら、自分と他者の未来を選びなおしていくプロセスだ。

支援とは、そうした「縁と意図の交差点」に立ち続ける営みかもしれない。

Vol.3|態度が未来を決める

— 風が吹けば、未来が動き出す -

風が吹けば、未来が動き出す

「風が吹けば桶屋が儲かる」——
この言葉には、奇妙で飛躍した因果の連鎖が描かれている。

風が吹くことで砂が舞い、盲人が増え、琵琶法師が生まれ、桶屋が儲かる。
一見すると荒唐無稽だが、そこには「すべての出来事はつながっている」という世界観がある。

そして、そのつながりをどう“見立てる”かによって、
出来事の意味も、そこから生まれる行動も変わってくる。

つまり、風が吹いたとき、どんな意味づけをするか。
そのとき選び取られた態度が、未来をどう編んでいくかを左右するのだ。

■ 見えないところで、未来は動いている

私たちは日々、何気ない判断や言葉の選び方を通じて、無意識に未来を立ち上げている。

それは、何か特別な瞬間に限らず、むしろ、ごく日常のなかで静かに選ばれ、積み重なっていくものだ。

だから、「態度が未来を決める」というのは、未来を予測する力のことではない。
それは、今この瞬間の立ち居振る舞いが、未来の可能性を選びなおすという“在り方”そのものなのだ。

支援や伴走の現場で言えば、これは「正しい方法論」を持つこと以上に、「いま、ここで、どう関わるか」に深くかかわってくる。

■ その場に、どんな「見立て」を与えるか

たとえば、誰かと対話しているとき、相手が急に強い口調になったとして、それをどう見立てるか。

「怒っている」「困っている」「恐れている」——
どの見立てを採用するかで、自分の反応も関係の展開もまったく変わってくる。

この“見立て”は、目に見える行動よりも、ずっと深いところで未来に影響を与えている。

それは、まさに「態度」によって、出来事が編みなおされていくプロセスの始まりである。

■ 「観察者」が、現実に影響を与える

シュレディンガーの猫のパラドックスは、
「観察する」という行為そのものが結果を左右することを示唆している。

私たちは、ただ世界を見ているのではない。
どのように見るかが、世界を変えてしまうのだ。

支援の現場でも同様で、
目の前の出来事に対してどのような関係性の見立てを置くかは、
単なる“分析”ではなく、未来を選びなおす“行為”である。

 - 「怒り」の裏にある無力感に目を向ける
 - 「拒絶」のなかにある願いに耳を澄ませる
 - 「混沌」のなかに兆しを見出す

こうした態度は、関係性の未来を静かに、しかし確実に書き換えていく。

■ 見立て直しは、「正しさ」をほどくこと

Vol.0で扱ったように、正しさとは過去に最適化された知恵である。

でも、世界は絶えず変化し、過去の“最適”がいまの“綻び”になる瞬間がある。
その綻びに気づくことが、未来を選びなおす出発点だ。

そして、その綻びに感応できるのは、態度というかたちをとった感性である。

 > 正しさとは、過去に最適化された知恵。
 > 綻びとは、未来がその“正しさ”をほどいてくる瞬間。
 > そのほどけ目に気づける感性が、態度をつくり、未来を選びなおす力になる。

ここから、Vol.4で扱う「フラート」
つまり、まだ意味にならない「小さな違和感」や「兆し」への応答へと、問いがひらかれていく。

■ 「態度」が未来を選びなおす

態度は、起きた事実そのものを変えることはできない。

しかし、「その事実をどう意味づけるか」と、「そこから何を選びなおすか」は、変えることができる。

たとえば、関係が破綻した場面があったとしても、「そこに何があったのか?」という見立てを更新することで、

次の関わり方は変わる。

言い換えれば、過去を選びなおすことが、未来を変えるということ。
そして、その起点にあるのが“態度”なのだ。

■ 未来は、「どこから見るか」で変わる

態度は、起きた事実そのものを変えることはできない。

しかし、「その事実をどう意味づけるか」と、「そこから何を選びなおすか」は、変えることができる。

たとえば、関係が破綻した場面があったとしても、「そこに何があったのか?」という見立てを更新することで、次の関わり方は変わる。

言い換えれば、過去を選びなおすことが、未来を変えるということ。
そして、その起点にあるのが“態度”なのだ。


そして次回、Vol.4ではこう問い直す。

「まだ意味にならない違和感」や「説明のつかない小さなサイン」——
それにどう応答するのか?

“わからなさ”と手を組むという覚悟とは、いかなる態度なのか?

未来を選びなおす力の、その最も繊細な起点に、触れていく。

Vol.4|フラートに従う

— “わからなさ”と手を組む支援のかたち -

何かが、こちらを「チラ見」してくる

なぜだか気になる言葉。
なんとなく目が止まる視線。
説明できない違和感。

その正体のわからなさは、ときに軽視され、ときに無視される。
しかし、ときに世界を変えていく。

プロセスワークでは、こうした“説明のつかない小さなサイン”を「フラート(flirt)」と呼ぶ。

flirtとは「視線を送る」「ちょっかいをかける」という意味を持つ言葉。
まるで場の向こうからこちらへ、小さくチラリと送られる視線のようなものだ。

まだ形になっていない、でも確かにこちらを見ている。
その視線に応答するかどうかが、関係性の未来を変えていくかもしれない。

■ “個”の意図を超えて、「関係性の声」を聴く

Vol.2でも触れたように、「意図」は自己の内側からだけ生まれるわけではない。
むしろ関係性のなかで“湧き起こるもの”だ。

だからこそ、意図をもって動くとは、「関係性の声」に耳を澄ますことと切り離せない。

支援の現場で「どうすればいいかわからない」と立ち止まるとき、実は“何をするか”の答えを探す以前に、「今、何が起きているのか?」という問いに触れ直す必要があるのかもしれない。

そこでは、観察よりも“応答”の構えが求められる。
意味づけて理解するのではなく、まだ意味になる前の「なにか」を受け取る態度だ。

その「なにか」に耳を澄ます感性こそ、支援の現場における“創造性”の出発点となる。

■  エッジ:踏み越えるかどうかの揺らぎの場所

フラートに従うということは、往々にして「エッジ」に触れることを意味する。

エッジとは、慣れ親しんだ態度や価値観の「境界線」であり、それを越えることでしか見えない新しい風景がある。

ただしその境界は、不安や抵抗を伴って現れることが多い。

この違和感に耳を澄ますか、それとも無視するか。
あらかじめ用意された意図を貫くか、場に立ち上がる声に応答するか。

その揺らぎのなかに、支援者の「態度」が問われている。

エッジは未来がほどけてくる“接点”であり、そこに立ち会うには勇気と繊細さが必要だ。

■ 正しさではなく、プロセスに信頼を置く

フラートに従うことは、「正解」に従うことではない。
むしろ「正しさ」とは異なる文脈に耳を澄ませることだ。

なぜそれが気になったのか?
なぜその一言が引っかかるのか?

答えはなくても、その違和感に従う態度がプロセスに命を吹き込んでいく。

気づけば場が動き出し、フィードバックが返り、関係性が微かに揺れ、何かが起こり始める。

そのとき私たちは、「何を正しくしたか」ではなく、「関係性にどんな動きが生まれたか」で世界を見つめ直す。

プロセスそのものを信じる——
それは“正しさ”を疑う覚悟でもある。

■ フラートに従うという覚悟

フラートは微細で、あいまいで、つかみどころがない。

それは論理の外側からやってきて、言葉になる前に消えてしまう。

それでも私たちは、その曖昧さに耳を澄ませることができる。
その“わからなさ”と手を組むことができる。

それは「答えを持つ支援者」ではなく、
「変化に応答する支援者」という立場へのシフトでもある。

■ ほどけ目に感応する感性を育てる

“正しさとは、過去に最適化された知恵。
綻びとは、未来がその“正しさ”をほどいてくる瞬間。
そのほどけ目に気づける感性が、態度をつくり、未来を選びなおす力になる。”

フラートに従うとは、その「ほどけ目」に感応する感性を育てることだ。

だからこれは技術ではなく、態度であり、在り方であり、覚悟である。

未来を問うために、私たちは「今、この場の声」に立ち会い続ける。
答えのないまま、しかし確かに何かがこちらを見つめていると信じながら。

Vol.5|創造と制限のレンマ

— 限界のなかで、世界を編み直すということ -

自由は、制限のなかにある

わからなさとともに在ること。
そこには、ある種の「制限」が伴う。

しかし、それは創造の妨げではない。むしろ、出発点である。

私たちはときに、「自由とはなんでもできること」だと考える。
だが、すべてが可能である状態は、私たちを動けなくする。
選べない。決められない。進めない。
それは、無数の選択肢に埋もれた停滞である。

本当の創造は、制限のなかから立ち上がる。
白いキャンバスに、あらかじめ「サイズ」があるように。
文章に「文字数」があるように。

私たちは限られた枠のなかで、かたちを見出し、意味を与えていく。

支援もまた、そういう営みだ。

相手が誰で、自分が誰で、時間がいくらあって、
できること・できないことが何なのか——
その“できなさ”のなかからしか、関係は立ち上がらない。

■ 制限は、関係にかたちを与える

対人支援の現場には、常に制限がある。

時間、予算、人手、空間、制度、関係性の履歴、そして—自分も相手も万能ではないという事実。

それはしばしば、支援者の「できなさ」として立ち現れる。

だが、ここで問うべきは、「どうすればできるか」ではない。
「できないことの中で、何を選び、どう関わるか」である。

制限は、関係に「構造」を与える。

支援の場に“かたち”が生まれるのは、無限ではなく、有限の中で関係が立ち上がるからだ。

制限があるからこそ、私たちは関わり方を問い、意志を持って形をつくろうとする。

そのプロセスが、創造そのものなのだ。

■ レンマに出会う

この構造のなかで、支援者が出会うのがレンマ(dilemma)である。

矛盾した選択肢のあいだで、どちらにも正しさがあり、どちらか一方では成り立たないという状況。

たとえば——
・「聴く」ことと、「介入する」ことのあいだ。
・「自己決定を尊重する」ことと、「安全を守るために制限をかける」ことのあいだ。
・「今を受け入れる」ことと、「変化を促す」ことのあいだ。

そこには「選べなさ」がある。

しかし、そこで求められているのは、「正解を出すこと」ではない。

むしろ、その矛盾のなかにとどまり続ける構え。
答えのない状態に、姿勢を持って立ち続ける態度である。

レンマとは、「矛盾を解消するための問題」ではなく、「矛盾とともに関わりつづけるためのかたち」である。

■ 関係の「ほころび」は、再創造の入口

制限に出会うと、私たちは“うまくいかない”と感じる。
相手の反応が思うように返ってこない。
伝えたいことが届かない。関係が行き詰まる。

それは、破綻ではない。
むしろ、そこにこそ再構築の入口がある。

「このやり方では届かないのかもしれない」
「別の問いを立てた方がよいのかもしれない」
—そうした微細な“ほころび”への感受性が、場を編み直すきっかけになる。

支援の現場とは、完成された正解を実行する場所ではない。
その場その場で、何度でも関係を編み直しながら、「この条件のなかで、何ができるか」を手探りで問う場所である

■ 意図の純度が問われるとき

「こう関わりたかった」
「これを届けたかった」
その意図が、現実の制限によって揺さぶられるとき、私たちは問われる。
—それでも、この関係に関わり続けるか?
—この場に、自分を差し出し続けるか?

そこで、意図は再び立ち上がる。
それは、初めに思い描いていたかたちとは違っているかもしれない。

制限と向き合いながら、何度も揺さぶられ、編み直されたその意図には、はじめにはなかった純度が宿っている。

創造とは、制限のなかでしか起きない。
そしてその創造は、「正しさ」ではなく、「いま・ここ」の関係性に立ち続けようとする、私たちの態度の選び直しから始まっていくのだ。

Vol.6|それでも立ち上がる「意図」

— わからなさに責任を持つということ -

正しさ」はほどけていく運命にある

正しさとは、過去に最適化された知恵である。
そして、綻びとは、未来がその“正しさ”をほどいてくる瞬間である。

どんなに美しく、整って見える考えや理論も、それが人と人とのあいだで立ち上がる関係に触れたとき、たやすく綻びを見せる。
正しさは、固定化されればされるほど、現実の“いま・ここ”と摩擦を起こすようになる。

私たちは、その綻びにこそ耳を澄ませなければならない。
その“ほどけ目”に気づける感性が、態度をつくり、未来を選びなおす力になる。

■ 「わからなさ」にどう立つか

支援の現場において、最も困難なのは「わからなさ」である。
相手の思いが見えない。
選んだ言葉が、届いているのかも分からない。
自分のしている支援が、果たして何かの力になっているのか、実感が持てない。

この「わからなさ」は、支援者である私を脅かす。
答えを出したくなる。
整理された理論やフレームで、何とか理解したくなる。

しかし、それが関係を“閉じる”ことにつながる場合も少なくない。

「わからなさ」と共に立ち続けること。
その場に対して、開かれたままで居ること。

それは、非常に怖く、同時に、とても誠実な態度である。
なぜなら、「わからなさ」と共に立つことは、関係の未来を、相手とともに創っていくという覚悟だからだ。

■ 意図とは、問い続ける姿勢である

意図とは、単に「こうしたい」という意思ではない。
意図とは、「問いを持ち続ける」という姿勢そのものである。

決して、“最初に描いた未来”にこだわることではなく、関係性の変化や相手の声に耳を澄ましながら、何度でも立ち戻り、問い直し、編みなおされるもの。

関係のなかで生まれ、揺らぎ、変化し続ける。
それでも、関わりつづける理由となるもの —
それが、意図である。

だからこそ、意図を持つとは、「わからなさに責任を持つ」ことと同義なのだ。

「説明できないけれど、関わりたい」という感覚

支援のなかで、ときおり出会う感覚がある。
「何が正解かはわからない。それでも、この人と、この場と、関わりたい」
「説明はできないが、ここに立ち会い続けたい」

それは、理屈ではない。
確信ですらない。

ただ、湧き起こるように立ち上がってくる、
関わりの“根”のようなもの。

その感覚は、とても小さく、頼りない。
それでも、それを信じられる感性こそが、
支援という営みの根底を支えている。

■ わからなさに踏みとどまり、関係をもう一度ひらいていく

私たちは「わからなさ」から逃げることで、正しさにしがみつく。

しかし、本当の意味で「正しさがほどけていく場所」とは、そのわからなさを怖れず、そこで立ち止まり、見直し、関係を編み直す場所である。

“正解を与える”支援ではなく、“ともに考えつづける”支援へ。

“変える”支援ではなく、“関わり続ける”支援へ。

そこにあるのは、明確な成果でも、わかりやすいゴールでもない。

あるのはただ、「この関係を、信じて立ち会い続ける」という態度である。

■ 支援は「意図」として立ち上がる

不確かさにとどまりながら、
それでも関わる。

綻びを見逃さず、
そのほどけ目に耳を澄ます。

正しさを問い直し、
関係を編みなおし、
態度をつくっていく。

そのすべての行為の背後に、
支援者としての“意図”が立ち上がってくる。

それは、絶対的な正しさではない。
むしろ、自分自身にしか持ち得ない、関わりのかたちである。

だからこそ、問いはこう立てられるだろう。
— あなたは、何を信じて、ここに立っているのか?
— その問いを持ち続けられるかぎり、支援は、つづいていく。

わからなさのただなかで、
それでも立ち上がるあなた自身の意図とともに。

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