《 自分を苦しめてきた“見えざる秤” 》

プロローグ:
わたしは、測っていた。
誰かのこと。
自分のこと。
いつもどこかで、比べながら。
学歴、肩書き、言葉づかい、身のこなし。
それらのすべてが、見えない秤の上に置かれていた。
あるとき、ふと気がついた。
あの秤は、ほんとうに必要だったのか。
これは、“測る”ことをやめ、
“見る”ということに立ち戻ろうとした、小さな記録。
Vol.0|苦しさの正体に名前をつけるなら
人と比べてしまうのは、どうしてだろう。
誰かを見て、羨ましくなったり、
自分が小さく思えたり。
そんな感覚に、ずっと振り回されてきた。
「自信がない」とか、「劣等感」とか。
言葉にしようと思えば、いくらでも当てはまりそうなものはある。
でも、どの言葉もしっくり来なかった。
もっと静かで、
もっと根深くて、
もっと自分の中に溶け込んでいるもの。
そんな気がしていた。
最近になって、ようやく、
それに名前をつけられる気がしている。
見えざる秤(はかり)。
それは、人を測るための秤。
そして、自分を苦しめるための秤だった。
自分でも気づかぬうちに、
その秤は育っていた。
誰かを「すごい」と思うたびに、
自分の“重さ”が決まっていく。
軽い、重い、劣っている、足りていない。
そんな風に、自分を測り続ける日々が、
いつの間にか当たり前になっていた。
このコラムは、
その“見えざる秤”に気づいていく過程の話だ。
苦しさの正体に、
少しずつ輪郭が現れてきた時のことを、
静かに綴ってみたい。
Vol.1|秤はいつの間にか、育っていた
— 無意識に自分の基準を作っていた話 ―
わたしの秤には、優先順位があった。
誰かを“すごい”と思う時、
その秤の順番に従って、無意識に重さを測っていた。
一番上にあったのは、「学歴」だった。
どこの学校を出たのか、
どんな肩書きを持っているのか。
それが、その人の“重さ”を決める場面は、
社会の中に確かにある。
知識や思考の深さを、
肩書きが保証する場面も、少なくない。
もちろん学び直すことも、
後から学歴を積み上げることもできる。
それでも、同じ時間を生きてきた中で、
その肩書きを勝ち取ったという事実が、
その人の輪郭を際立たせるように感じていた。
二番目は、「育ちや家柄」。
どんな環境で育ったのか、
どんな親のもとで生きてきたのか。
これもまた、
その人の言葉や振る舞いに、確かに滲み出る。
努力だけでは決して手に入らない、
長い歴史が刻んできた“地層”のようなものが、そこにはある。
一代でどうにかなるものではなく、
生まれた時から背負っている、
見えない輪郭のようなものが、そこにはある気がしていた。
三番目は、「お金」。
持っているかどうか。
稼げるかどうか。
暮らしにどれだけ余裕があるか。
これもまた、人の価値を測る秤のひとつだった。
ただ、学歴や家柄とは違い、
お金は、学歴や生まれに関係なく、
手に入れることができるものだ。
もちろん、簡単なことではない。
それでも、努力や選択の積み重ねで動かせる部分がある。
だからこそ、
わたしの中では、お金の“重さ”は、
一番上には来なかった。
その秤を持ったままでいると、
いつまでも自分が“軽い側”に固定されたままだった。
そのことに気づかぬまま、
長いこと、自分を測り、人を測り続けていた。
Vol.2|敬意の優先順位
— わたしの秤が人を見る順番を決めていた ―
わたしの秤には、優先順位があった。
誰かを“すごい”と思う時、
その秤の順番に従って、無意識に重さを測っていた。
一番上にあったのは、「学歴」だった。
どこの学校を出たのか、
どんな肩書きを持っているのか。
それが、その人の“重さ”を決める場面は、
社会の中に確かにある。
知識や思考の深さを、
肩書きが保証する場面も、少なくない。
もちろん学び直すことも、
後から学歴を積み上げることもできる。
それでも、同じ時間を生きてきた中で、
その肩書きを勝ち取ったという事実が、
その人の輪郭を際立たせるように感じていた。
二番目は、「育ちや家柄」。
どんな環境で育ったのか、
どんな親のもとで生きてきたのか。
これもまた、
その人の言葉や振る舞いに、確かに滲み出る。
努力だけでは決して手に入らない、
長い歴史が刻んできた“地層”のようなものが、そこにはある。
一代でどうにかなるものではなく、
生まれた時から背負っている、
見えない輪郭のようなものが、そこにはある気がしていた。
三番目は、「お金」。
持っているかどうか。
稼げるかどうか。
暮らしにどれだけ余裕があるか。
これもまた、人の価値を測る秤のひとつだった。
ただ、学歴や家柄とは違い、
お金は、学歴や生まれに関係なく、
手に入れることができるものだ。
もちろん、簡単なことではない。
それでも、努力や選択の積み重ねで動かせる部分がある。
だからこそ、
わたしの中では、お金の“重さ”は、
一番上には来なかった。
その秤を持ったままでいると、
いつまでも自分が“軽い側”に固定されたままだった。
そのことに気づかぬまま、
長いこと、自分を測り、人を測り続けていた。
Vol.3|崩れた秤と、残ったもの
— 憧れと失望、そのあとに -
■ 偶然出会った“上の人”
ある時期、わたしのなかの秤を根底から揺さぶるような存在と出会った。
知性があり、教養があり、会話の中で飛び交う言葉のどれもが新鮮だった。
聞き慣れない言葉がいくつも飛び出した。
心の動きや社会構造、見えないバイアスや関係性の網目を扱うような、思考の奥をくすぐる言葉たち。
その人は、まるでそれらを日常語のように語っていた。
まぶしかった。
そのまぶしさに、わたしは憧れと尊敬のような感情を重ねていった。
■ 強い秤が、ぐらついた瞬間
その人の言葉や態度に触れれば触れるほど、
「自分にもこういう世界が理解できるのかもしれない」と思えるようになっていった。
わたしにとって“学歴”という秤は、それまで絶対的なものだった。
だからこそ、その人の存在は、自分の中に眠っていた「賢くありたい」という欲求と、
「やっぱり自分は軽い」という思い込みを、同時に揺らし始めていた。
ところが、ある時ふと気づいてしまった。
その人が語っていたはずの深い理論や概念の多くが、表面的な理解にとどまっていたこと。
それらを実践に落とし込むことなく、ただ“わかっている風”の空気をまとうために使っていたこと。
知っている、語れる、という外枠だけが膨らんで、中身が追いついていないのだと、
ある瞬間に、肌で感じてしまった。
それは、期待が大きかった分だけ、深い失望をともなった。
自分が敬意を払ってきた秤が、音もなく崩れ落ちたような感覚だった。
■ 見えなくなった呪縛
その一件のあと、暫くしてふと、憑き物がとれたようにこころが軽くなった気がした。
「学歴」という秤が、自分の中で無効になっていた。
もちろん、世の中において学歴がもつ意味や影響力が消えたわけではない。
ただ、少なくともわたしの中では、それは「絶対的な重さ」ではなくなっていた。
あの人がいたからこそ、わたしは多くを学んだ。
そして、あの人の“不完全さ”を感じ取ったことで、ようやく自分の“秤の呪縛”にも気づけたのかもしれない。
憧れが失望に変わったとしても、それは無意味ではなかった。
むしろ、その過程を通じて、ようやく自分自身の足元に目を向けられるようになったのだから。
Vol.4|秤を捨てて、目を凝らす
— “測る”ではなく、“見つめる”へ -
■ 測る目から、見つめる目へ
それまで、無意識のうちに人を測っていた。
学歴がある人、育ちのよさが滲む人、経済的な余裕がある人。
そうした“重さ”に、自分の軽さを際立たせては落ち込む。
そんな構図が、いつの間にか日常の背景に染みついていた。
ただ、その秤を生み、育てていたのは、紛れもなく自分だった。
誰かに「おまえは軽い」と言われたわけではない。
秤というのは、自分が持っていないもの、届いていないものに対してこそ、つくられてしまう。
だから、その秤の上では、自分は必然的に“最下層”に位置づけられる構造になる。
しかもそれは、誰かがそうしたのではなく、自分がつくり、自分で自分をそこに置いていたのだ。
失望を感じ、しばらくたった後に、無効になった秤に縛られていた自分に気が付いた。
■ 秤のわずかな痕跡だけが残る中、見えてきたもの
測られることに怯えていたのではない。
測るための秤を、自分がせっせとつくっていたことに、ようやく気づいた。
しかもその秤では、いつだって自分が一番“軽く”なるように、はじめから設定されていた。
他人を「上」に置くのは、畏敬や憧れの延長として、まだ救いがある。
だが問題は、「下」に置く構造が同時に生まれてしまうことだ。
そこに自分を置いたままでいる限り、どれだけ誰かを尊敬しても、
その関係には無意識の“ヒエラルキー”がつきまとう。
尊敬とは、上下ではなく、距離である。
近すぎず、遠すぎず、その人の佇まいや生き方を、ただ感じ取り、
自分の内側に余白をつくってくれるもの。
秤の存在に気付き、それを少しずつ手放してみたら、
そうした見方が少しずつできるようになった。
■ “見る”という、いとなみへ
今はもう、人を測るような事は、あまりなくなった。
“誰かを測ること”よりも、“誰かを見つめること”に、関心が移ったのだ。
静かに観察すること。
その人の輪郭を、その人らしいままに浮かび上がらせること。
そこには、評価も比較もいらない。
秤の上では、誰かと自分を“同じ土俵”に並べることが前提だった。
土俵を降りてみると、それぞれが立っている場所のちがいも、
歩んできた時間の違いも、ただの風景として眺めることができる。
“測る”ことではなく、“見る”といういとなみに、
少しずつ、自分の目は変わってきている。
Vol.5|秤のない世界へ
—測らずに、見るということ ―
あの秤が消えてから、どれくらい経っただろう。
誰かを見かけたとき、昔のように無意識に測ろうとするクセは、まだ完全には消えていない。
でも、そのたびに、自分の中の“秤をつくってきた過去”を思い出す。
そして、測ることより、見ることの方が、ずっと豊かだということも。
いま、あらためて思う。
あの秤は、誰かから押しつけられたものではなかった。
自分が、自分を守るために、無自覚のうちにつくりあげた道具だった。
手に入らなかったもの、届かなかったもの、なれなかった自分。
それらを抱えながらも、ちゃんと価値を見出そうとして、
こしらえた“重さのものさし”だった。
自分より“上”にいるように見えていた人たちは、
どこか完全な存在のように思えていた。
実際には誰もが未完成で、誰もがそれぞれの“途上”にいるだけだった。
善いことも、未熟さも、すべてを抱えたまま歩いているというだけのこと。
そのことに気がついたとき、わたしの中にあった“秤”は、もう役割を終えた。
誰かと自分を比べて測るための道具ではなく、
同じ地平で、ただ人を見るための目を持とうと思えた。
秤があるかぎり、わたしは他者と自分を比べずにはいられない。
上か下か、勝ちか負けか、成功か失敗か。
そのどれでも、わたしはいつも“軽い側”に立っている気がする。
もう、測らなくてもいい。
誰かを測らずに見ること。
自分を測らずに感じること。
その先に、ようやく“対等”という感覚が生まれてくる。
わたしの中には、もう秤はない。
……いや、もしかすると、まだどこかに残っているかもしれない。
それでもいい。
気づくたびに、そっと手放していけばいい。
世界は、測らなくても、ちゃんと見える。
そして、見ようとするまなざしは、必ず、自分の中の何かを動かしてくれる。
そんなふうに、わたしは、生きていきたい。