理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 物語の所有権解除 》

- 神格化を解く”通過儀礼” -

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プロローグ:

誰かを信じ、託し、やがて幻滅する。

それは失敗ではなく、自分の物語が他者から自分へと還ってくるための通過儀礼なのかもしれない。

神格化も裏切りも、すべては「わたし」を広げていくための投影と回収の運動だった。

このコラムでは、痛みを経て語りを取り戻していくその静かなプロセスを、問いとともに辿っていく。

序章:物語がはじまるとき

— 人に預けた自分の物語 -

人がもっとも苦しいとき。
自分の中の言葉や答えが見当たらず、ただ立ち尽くしているようなとき、
ふとした誰かの一言や、ただそこに在るという佇まいが、救いのように感じられることがある。

その人が、何か特別な行動をしたわけではない。
何かを成し遂げたわけでもない。
それでも、その存在が、まるで“導き手”のように見えてしまうことがある。

そんなとき、私たちは知らず知らずのうちに、その人を少し持ち上げてしまう。
期待や、あこがれや、願いのようなものが、その人に重ねられていく。
それは、神格化に近い動きかもしれない。

「あの人のおかげで変われた」
「この人は、きっとわかってくれるはず」
「自分が信じられなくても、この人は信じられる」
そう思うことで、前に進める瞬間もある。

だが本当に、「その人」がそうだったのだろうか。
それとも、自分がそう信じたかっただけだったのか。
もしかしたら、その人はただの“きっかけ”だったのかもしれない。
変わる準備が、自分の中にすでに芽吹いていたのかもしれない。
それが、その人の在り方に触れたことで、そっと開いたのかもしれない。

そしてやがて、ある種の“幻滅”が訪れる。
「あれ、思っていたほど特別じゃなかったな」
「なんだか普通の人だった」
あるいは、「裏切られた」とすら感じることもあるかもしれない。

だがその違和感や失望もまた、
自分の物語の“所有権”を他者に預けていたことに気づく、はじまりなのかもしれない。

このコラムでは、「神格化」と「裏切り」という二つの感情のあいだにあるものを、ゆっくりと見つめてみたいと思う。
それは、人間関係のなかで誰もが通り得る、静かな変容のかたちでもあるから。

痛みは、避けるものではないのかもしれない。
むしろそれは、“領域を広げていくための道具”となりうる。

自己肯定というものも、「赦すこと」ではなく、
もっと開かれた何かとして始まっていくのかもしれない。

第1章:なぜ人は他者を神格化してしまうのか

— 神格化という仮の依り代 -

弱さの中に見出す“光”

苦しさや迷いの中にいるとき、人は、自分にはない何かを持っているように見える他者に出会うと、その人の姿にすがりたくなることがある。
明るさや落ち着き、ぶれなさや慈しみ。そうしたものが、こちら側の足りなさを照らすように感じられる。

だがそれは、本当にその人の「実態」だったのだろうか。
あるいは、ただそのときの自分が“光”を必要としていただけだったのかもしれない。

■ 投影としての神格化

人を特別視するということは、裏を返せば、自分の中にある何かをその人に託しているということでもある。
安心したい気持ち。導いてほしい気持ち。理解してもらいたいという希求。
それらが、無意識のうちに他者の輪郭に色を塗っていく。
そしてその塗られた像を、私たちは「この人は特別だ」と呼ぶ。

神格化は、崇拝ではない。誤解でもない。
むしろ、もっと静かで切実な“期待”の表れなのかもしれない。

■ 自己保存としての構造

不安なときほど、誰かに答えを預けたくなる。代わりに判断してほしくなる。導いてほしくなる。
それは、自分の中の主導権を一時的に他者に預けることで、自分の存在を保持しようとする、ある種の“自己保存”のはたらきなのかもしれない。
そうして私たちは、見上げるに足る存在を心の中に描き出す。
その像は、現実の相手とは必ずしも一致しない。
そしてその“ズレ”に、しばらくの間、私たちは気づかないままでいる。

■ ほんとうは誰を信じたかったのか

神格化というのは、ある意味で、他者を通して自分自身の一部を見ているということでもある。

もしかしたら私たちは、他者を信じたかったのではなく、
他者の中に映った「自分の可能性」を信じたかったのかもしれない。

そう思うとき、神格化は誤りではなく、
自分に戻っていくための、必要な遠回りだったと見えてくる。

それは、自分がどんなものを欲し、何に救われたがっていたのかを知る、
大切な手がかりでもある。

第2章:幻滅と裏切り

— 像が崩れるとき -

投影が剥がれ落ちる瞬間

「あの人、思っていたのと違った」
「信じていたのに、裏切られた気がする」

そんな言葉が、心の中に浮かぶことがある。

それは本当に“その人が変わった”からなのだろうか?
それとも、“見えていなかったものが見えてきた”だけなのかもしれない。

幻滅とは、相手の裏切りではなく、
自分が見ていた像が崩れたことの痛み。

崇高な理想像の裏にあった、人間的な矛盾や弱さに触れたとき、
投影は静かに剥がれていく。

その痛みは、ときに裏切りのように感じられる。
だが実のところ、それは“像”が壊れただけで、相手が何かを裏切ったわけではないのかもしれない。

■ 「特別さ」の終わりが告げるもの

神格化とは、言い換えれば「見たい像」を相手に重ねることだった。
そこには、期待や祈り、希望が宿っていた。

だからこそ、それが崩れたときには、喪失感や怒りが生まれる。
相手が壊したのではなく、こちら側の「期待」が壊れたのだとしても、
その痛みは、現実の出来事と区別がつかなくなることもある。

「裏切られた」という感情が湧くとき、私たちは往々にして、
他者の内側を見ているのではなく、自分が託した“意味”の回収に直面している。

■ 裏切りという言葉の奥にあるもの

人は、他者に希望や信頼を託すことで、自分の輪郭を保とうとする。
とくに弱っていたとき、誰かを象徴のように見ることで、
自分自身の混乱や不安を整理しようとすることがある。

その象徴性が消えたとき、
すなわち「ただの人間」としてその人が目の前に現れたとき、
私たちは戸惑いを覚える。

それが幻滅であり、裏切りと呼ばれる感情の根っこにあるものかもしれない。
誰かを“特別”にしたのは、相手ではなく自分自身だった。

■ 幻滅は、回復のはじまりでもある

「失望した」「もう信じられない」
そう感じるとき、自分がどれほど相手に意味を預けていたのかが浮かび上がる。
それは、ある種の“物語の所有権”が他者に移っていたということでもある。

そのことに気づけたなら、
その痛みは、やがて“所有権の回復”へとつながっていく。
投影が戻り、相手がただの一人の人間として目の前にいるとき、
自分の手に物語の舵が戻ってくる。

幻滅は、失敗でも敗北でもない。
むしろそれは、自分の語りを他者から取り戻す、通過儀礼のようなものなのかもしれない。

第3章:物語を取り戻す儀式としての“幻滅”

第3章:物語を取り戻す
儀式としての“幻滅”

— 他者から自分へ、物語の回収 -

幻滅を「終わり」にしない

幻滅のあと、人との関係にそっと距離を置くことがある。
それは裏切りに傷ついたから、というよりも、
信じていた“像”が壊れたことで、どう受け止めればいいかわからなくなったからかもしれない。

とはいえ、その距離は、関係の終わりを意味しないこともある。
むしろ、それまでの“意味の配置”を見直すための静かな間(ま)であり、
自分の語りを回復するための、内なる時間なのかもしれない。

■ 他者を「ただの人」として見直す

かつて神格化していた誰かが、
ただの不完全な人間として目の前に現れたとき、
そこにはがっかりと同時に、少しの安堵もある。
理想の像に縛られていたのは、実は自分だったのかもしれない。
その人も、弱さや迷いを抱えて生きている。
そして、私自身もまた、完全ではない誰かを信じていた。
そう思えたとき、ようやく対等な関係の地平が見えてくる。
幻滅は、「幻想の終わり」ではなく、
ようやく相手を「人」として見直すための入口になる。

■ 託していた“意味”を回収する

「あの人がいなければ、私は変われなかった」
そう思っていたとしたら、その“変わった自分”を誰のものにしていたのだろう。
たとえその人が「きっかけ」だったとしても、
変わることを選んだのは、自分だったはずだ。
それを他者の手柄としてしまっていたとしたら、
変化の“物語”はまだ自分のものにはなっていない。
幻滅のあと、
「本当は、自分がどんな願いをその人に託していたのか」
という問いに立ち戻ってみると、
変わったのは“自分の中の何か”だったという実感が静かに湧いてくる。

■ 物語を自分の手に戻す

神格化していた時期も、裏切られたと感じた瞬間も、
すべては“必要な過程”だったのだと思う。
他者を通して、自分の可能性を見出そうとしたこと。
そこに希望を託したこと。
そして、それを取り戻すときの痛み。
それらがすべて、自分という存在の輪郭を描き出していく。
物語の所有権は、ゆっくりと、静かに自分の手へと戻ってくる。
それは、勝ち取るものでも、奪い返すものでもなく、
いつのまにか、自然に戻ってくるような感覚かもしれない。
そして気づく。
誰かを特別視していた時間も、
痛みによって距離を取った日々も、
ほんとうはすべて、自分自身に還るための遠回りだったのだと。

第4章:問い直すことで開かれる再編集

第4章:問い直すことで開かれる
再編集

— 通過儀礼としての所有権解除 -

終わった物語に、問いを差し向ける

文章をほぼそのままに、「けれど」を修正しました。


あの関係はもう終わった、
あの人への信頼は崩れた、
あの出来事は裏切りだった…

そうやって“過去形”で語られる物語は、どこかで凍りついている。
しかし、そこで問いが立ち上がるとき、物語は静かに動きはじめる。

「あのとき、自分は何をその人に託していたのだろう?」
「なぜ、あの人を“特別”にしたかったのだろう?」
「あの人のどんな部分が、いまでも自分の内に残っているのだろう?」

それらの問いは、過去を変えることはない。
しかし、“過去の意味”を変える可能性をひらいていく。

■ 問いとは、自分の奥に踏み入る動き

問いを立てるというのは、答えを得るための作業ではない。
それはむしろ、自分の心の奥に、静かに足を踏み入れていくということ。

なぜ信じたのか。
なぜ委ねたのか。
なぜ傷ついたのか。

その根っこにあるのは、ただ“他者”への感情だけではなく、
自分自身に対する理解や、願いの形だったりする。

■ 解釈が変わると、出来事も変わる

過去の出来事は変えられない。
でも、それをどんな物語として保持するかは、常に変えられる。

「裏切られた」から、「委ねすぎていた」に。
「失望した」から、「期待していたことに気づいた」に。
そしてやがて、「必要な通過点だった」に。

再編集とは、出来事の意味を塗り替えることではなく、
その背後にある構造を見直すことなのだと思う。

そうして物語の編集権が自分に戻ってくるとき、
過去はもはや「止まった時間」ではなく、
今と地続きのものとして、再び語られはじめる。

■ 自分の声で語るということ

他者の言葉で、自分を語っていた時間がある。
「あの人がいなければ」「あの人のせいで」… そんなふうに。

問いを経たあとの語りは、どこか手触りが違ってくる。
そこには、他者を責める言葉も、無理に赦す言葉もない。
ただ、自分の声で、静かに語りはじめる。

それは、誰のものでもない「私の物語」が再び動き出す瞬間でもある。

第5章:広がりとしての自己肯定

— 自分の物語を生き直す -

自己肯定とは、過去を肯定することではない

「自分を肯定する」という言葉は、ときに誤解を生む。
すべてを認めること。過去の選択を良しとすること。
あるいは、自分はこれでよかったのだと、無理に言い聞かせること。

そうした静的な肯定感とは別のところで、
もっと動的で、広がりをもった肯定があるのではないかと思う。

それは、「あれでよかった」と思い込むことではなく、
「あれがあったからこそ、今ここに立っている」と静かに受け取ること。
その受け取り方は、未来にも通じる柔らかさを帯びている。

■ 痛みが、領域をひらいていく

神格化し、裏切られ、問い直し、物語を取り戻す。
その一つひとつの出来事は、確かに痛みをともなうものだった。

それらは、心の器を広げ、世界との関係を変えていく契機でもあった。

かつての自分は、ある一点しか見られなかった。
善か悪か、味方か敵か、信じるか信じないか。
そうした分断の感覚からしか物事を捉えられなかった。

今は、揺らぎも矛盾も含んだまま、誰かを見つめられる。
それは、多様性を生きる力が、自分の内に宿ってきたということでもある。

■ 自己肯定とは、「赦し」ではなく「余白」なのかもしれない

自分の選んだこと、人を信じたこと、痛みに耐えたこと。
それらを「正しかった」と言うのは、どこか息苦しい。

でも、「それでよかったのかもしれない」と言えるようになるとき、
その言葉のなかには、ほんの少しの余白がある。

赦しとは、何かを上書きする行為ではなく、
そのままで置いておくことができるようになることなのかもしれない。

「間違っていたかもしれない」
「でも、あれも必要だったのかもしれない」
その両方が同時に自分の中にあっても、矛盾しなくなる。

■ 広がりとしての「私」

そうして、自分を語る言葉に奥行きが生まれる。

あの人との関係、過去の痛み、変容のプロセス。
すべてが「正しい」か「間違い」かではなく、
どれだけ自分を広げてくれたかという視点へと移っていく。

自己肯定とは、「私はこれでよい」と閉じることではない。
むしろ、「私はまだ広がっていける」と信じられること。

その広がりの中で、他者も、過去も、傷も、やがて居場所を見つけていく。

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