組織を動かすのは、制度や指示ではない。
最終的には、言語化されない“空気”がすべてを決めていく。
意思決定の速さも、声の通り方も、意欲の発火点も、
目に見えない“場の質”によって左右される。
だからこそ、無添加経営は、目に見えないものを見ようとする。
混ざりものの正体に気づき、
濁りはどこから入ったのかを辿り、
それを淡々と取り除いていく姿勢を大切にする。
理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ
混ざりもののない組織は、
なぜこんなにも澄んで見えるのか。
足りないから足す、ではなく、
混ざっているから引くという判断。
本質を曇らせる言葉や制度に気づき、
静かに取り除いていく姿勢。
それは、経営の“引き算の美学”であり、
意志ある選別の連続でもある。
この連載では、
組織の純度を取り戻すための
“無添加という眼差し”を探っていく。
■ 見た目はきれい。でも、どこか薄い。
きちんと整えられたスローガン。洗練されたビジョンボード。
一見、言うことはないように見える。むしろ、よくできている。
ところが、なぜかその言葉に触れたとき、こちらの内側が静かにならない。
どこかに、“よそゆきの顔”をしている気配が残る。
それは、まるで「出汁を取りすぎたスープ」のような感覚だ。
きれいには澄んでいるのに、肝心の旨みがどこかに抜け落ちている。
派手ではないけれど、舌の奥に「なにかが違う」が残る。
何かよくわからないのだが、とにかく“薄い”のだ。
そういう言葉に、わたしたちは日々、何度となく出会っている。
それが企業の発信であれ、個人の自己紹介であれ、同じことだ。
“混ざって”いるのだ。本心ではない何かが。
■ ウケそう、映えそう、褒められそう。
言葉には、背景がある。
それがどのような場面で、
どんな意図で書かれたのか。
たとえば、上場準備のタイミングで。
たとえば、採用の勝負時に。
たとえば、競合との差別化が求められたとき。
そこで使われた言葉が、
「本当に自分たちの言葉だったか」と問われると、
たいていは曖昧なまま、時間の奥に沈んでいく。
目的のために、“少しだけ足した”言葉たち。
「ウケそう」
「褒められそう」
「いい会社っぽく見えるかも」
そう思って選んだ単語は、やがて文脈のなかで熟成され、
まるで“元から自分たちの言葉だったかのような顔”をしはじめる。
その結果、出来上がるのは、“味付け”されたブランドだ。
もとは素材のままで美味しかったものに、
調味料を重ね、トレンドで盛りつけ、
食欲はそそられるが、
どこか“他人のレシピ”になってしまったような違和感が残る。
■ 「足して整える」は、安心の作法。
足すことは、安心でもある。
「何かが足りない気がする」
「このままだと伝わらないかもしれない」
「インパクトが弱い」
そんな気配が漂ったとき、
わたしたちは無意識に“足す”という行為に手を伸ばす。
説明を加え、
意味を補強し、
響きのいい言葉で輪郭を整える。
でも——
その行為の根幹にあるのは、
もしかすると、
「自分たちのままで勝負できる気がしていない」
という感覚かもしれない。
■ 無添加であるという選択肢
「混ぜものをしない」とは、勇気が要ることだ。
足さないまま立つ。
整えすぎずに出す。
情報過多のなかで、
“削ぎ落とす”という判断は、決して自然にはできない。
だが、足さないからこそ、見えてくるものがある。
言葉の芯、
動機の火種、
組織の姿勢。
それはきっと、
整いすぎた装飾の向こうにしか立ち上がってこない。
無添加とは、薄味ではない。
むしろ、「味そのもの」で勝負する姿勢だ。
だからこそ、混ざっていないものは、輪郭が立つ。
素材の温度も、質感も、手触りも、そのまま伝わる。
経営やブランドにおいて、
それを選ぶことはできるのか。
それが、これからの問いである。
何かを「足す」ことは簡単だ。
安心するし、納得もできる。
足せば足すほど、よくなる気がする。
それが、施策であれ、制度であれ、ブランドであれ。
でも、本当に必要なのは——
「今ここにある“混ざりもの”は何か?」を見つめること。
そして、「それを引く」判断を下すことだ。
その引き算には、思いのほか強い“恐れ”が伴う。
– 足りなくなるのではないか
– 誤解されるのではないか
– 手抜きに見られるのではないか
その恐れが、「足す」という行動を正当化させる。
だが実際には、
“引かないこと”が、濁りを蓄積させていく。
■ 引くためには、まず識別が必要だ
引くという判断には、明確な識別が必要だ。
「これは誰の価値観か?」
「この施策の“目的”と“由来”は一致しているか?」
「加えたものが、本質を引き立てているか、曇らせているか?」
この識別をおろそかにしたまま、
善意で何かを加えると、
組織はどこかで“自分たちの味”を見失いはじめる。
判断基準が「正しさ」や「効果」に偏るほど、
組織の言葉や文化は、“他人の味”に近づいていく。
■ 「添加物チェックリスト」はあるか?
たとえば、こんな視点で、社内にある“混ざりもの”を見つめ直してみる。
▶ 添加物チェックリスト
その取り組み、成果ではなく“安心感”のためではないか?
→ やってる感を出すための活動になっていないか
この問いかけは、断捨離ではない。
目的の純度を高めるための、“静かな澄まし作業”だ。
■ 混ざっているから、抜く
足りないから足すのではなく、混ざっているから抜く。
この判断軸は、シンプルだが、とても静かで深い。
そしてこの「混ざり」を見抜く力こそが、組織にとっての洞察であり、美意識である。
なにを抜き、なにを残すか。
それは、“足す力”以上に、経営の思想が問われる瞬間だ。
■ 「こうあるべき」は、いつからそこにあった?
成長し続けることが正しい。
多様性を尊重しなければいけない。
従業員エンゲージメントは高くあるべき。
社会課題に向き合う企業でなければならない。
こうした言葉は、疑いようもない“正しさ”として語られがちだ。
しかし、ほんとうにそれは、自分たちの実感から出たものだろうか?
あるいは、いつの間にか“前提”として混ざり込んでいただけではないだろうか。
前提とは、施策よりも静かに、深く組織に染み込む。
そして厄介なことに、それが混ざりものだと気づきにくい。
■ 無意識のアップデートが、濁らせる
たとえばある日、競合が「社会課題×ビジネス」というテーマで話題になった。
気づけばその語彙が、自社のビジョン資料にも入り込み、
社員が使うスライドにも自然に登場しはじめる。
外的な“情報の空気”は、内側にある文脈を、少しずつ書き換えていく。
誰も「変えよう」とは言っていないのに、空気が変わる。
そうして、「うちも、こういう方向でいこうか」となる。
一つひとつは小さな選択だが、
それが積もったとき、組織の“味”がじんわりと変質していく。
■ それは一過性ではないか?
ISOの取得をはじめ、
SDGs、ウェルビーイング、DE&I、サステナビリティ経営。
どれも本質的には重要な概念だ。
とはいえ、「いま取っておかないと」「入れておかないとまずい」
という外発的な理由だけで導入されたものは、ほぼ例外なく“混ざりもの”になる。
内容ではなく、形式。
背景ではなく、表面。
意志ではなく、評判。
そうして組織に入り込んだ制度や方針は、
やがて本来の目的を見失い、“あることにしておく”状態へと変質する。
それは、“一過性の混ざりもの”が常態化した姿だ。
■ 気づかないうちに…
「このままでいいのか?」と感じながらも、
「いまの時代、これくらいはやっておかないと」という声に背中を押される。
気がつけば、「やりたいこと」よりも「外的に見せたいこと」が上回っていく。
こうして、施策よりも先に、価値観が加工されていく。
価値観は、声高に語られるものではない。
だからこそ、気づかないうちに“味付け”されてしまう。
■ 成分表示は、言葉だけではない
表面的には“らしい”言葉が並んでいても、
そこに内側の実感が宿っているかは、組織のふるまいにこそ表れる。
これらの“裏打ち”がないとき、
言葉は看板となり、理念はラベルとなる。
■ 澄んだ判断を取り戻すために
無自覚の前提は、否定すればいいというものではない。
むしろ、見えていなかったものが見えるようになったとき、
はじめて「引くかどうか」の判断ができる。
無添加経営とは、まず、何がすでに混ざってしまっているかに目を凝らすことから始まる。
前提を“疑う”のではなく、“読み解く”。
それが、混ざりを取り除き、組織を澄ませる第一歩になる。
■ やる気を“設計する”ことの違和感
「モチベーション設計」「動機づけの仕組み化」
それらの言葉は、一見まっとうで、前向きに聞こえる。
だが、ほんとうに人の意志や熱量は、“設計”するものだろうか。
評価制度、報酬体系、報奨キャンペーン、インセンティブ…。
こうした仕組みの多くが、無意識に内発性を“囲い込もう”としている。
それはまるで、料理に味の素をふりかけて
「美味しく感じさせる」ようなやり方だ。
表面的には活気があるように見えても、
時間が経てば、どこか乾いた後味が残る。
■ 添加された動機は、消費されやすい
動機が“添加”されていると、
人は目的の達成と同時に、意欲を手放してしまう。
それは構造上、そうなっている。
こうした動機は、条件が消えた瞬間に火が消える。
つまり、「意欲を燃やす」のではなく「意欲を燃やし尽くす」構造になっている。
無添加経営は、そこに異を唱える。
火は、燃やすものではなく、“守るもの”であるという感覚。
やる気は、設計するのではなく、“滲み出る環境”から立ち上がる。
■ 染めないほうが、人は動く
「うちの会社はこうあるべき」
「この行動をすれば褒められる」
「これは“らしい”ふるまいだ」
こうした“染め”が強すぎる組織は、一見まとまりがよく見える。
しかしそこには、自律ではなく同調が広がっている。
無添加の環境は、“強制しない”という意味ではない。
むしろ、“色を混ぜすぎないことで、個々の輪郭が際立つ”状態をつくることだ。
意志が立ち上がる余地を、環境が残している。
それが、内発性の条件になる。
■ 無添加的な文化の事例
たとえば、小さなクラフトメーカーの社内に、
“評価制度”はないけれど、なぜか社員が勝手に提案を出し、
工程を改善し、新しい販促企画を試していた。
理由を尋ねると、
「面白いと思ったから」
「言っても怒られない雰囲気だから」
「それをやっている人の顔が、かっこよかったから」
そんな答えが返ってくる。
そこにあるのは、報酬ではなく、
“場の温度”に反応した動機だ。
それは、仕組みではない。空気であり、信頼であり、共鳴である。
■ 添加しないと、湧いてくるもの
無添加とは、何もしないことではない。
足さないことによって、「自然に立ち上がってくるもの」への信頼を取り戻すことだ。
意志は、刺激よりも環境に反応する。
だからこそ、「仕組みで動かそうとしない姿勢」そのものが、もっとも力強いエネルギーを生む。
組織にとっての無添加とは、
人を動かすことではなく、動きたくなる空気を保つことなのかもしれない。
■ 増やすことで、広がらないことがある
事業を拡張するとき、人は“何かを足す”ことを考える。
新規事業、ツール導入、多拠点展開、人材強化、ブランド刷新……。
どれも必要な選択肢であり、否定する理由はない。
ところが、拡張という言葉に“足すこと”しか含まれていないとき、
組織はむしろ、重たく、動きにくくなっていく。
手段が増えるほど、判断が遅くなる。
人が増えるほど、伝言が歪む。
選択肢が広がるほど、軸が見えにくくなる。
本当に拡張したいなら、「増やす前に澄ます」が先なのかもしれない。
■ 澄んだ組織は、境界がにじんでいく
“無添加”という姿勢で組織を保っていると、
自然と、境界のにじみが起こる。
役職の境界、部署の境界、職能の境界。
本来そこにあった線が、少しずつ薄れていく。
なぜかというと、輪郭がはっきりしている人や組織は、
「自分がどこまでか」を正確に把握しているから、踏み越えなくてもよくなる。
一方で、過剰に装飾された組織は、
輪郭が曖昧なまま広がっていき、
気づかぬうちに、混ざり、漏れ、摩耗していく。
境界を強化するのではなく、輪郭の純度を高めること。
その方が、じつは広がりやすい。
■ 空けることは、無視でも放棄でもない
「何もしない」という選択肢は、現場では難しい。
特にマネジメント層は、「空白」に耐えられない。
なにかしていないと、不安になる。
でもその「空けておくこと」こそが、
メンバーや現場にとっての“入り込む余白”になる。
それは余白であり、信頼であり、呼吸のスペースだ。
過剰な管理や介入を引いた瞬間に、
不思議と自律的な動きが生まれはじめる。
空けることで、思考や行動が広がる方向に誘導される。
それが、添加されていない場の強みだ。
■ 拡張とは、硬さを手放すことでもある
組織を拡張するとは、スペックを盛ることではない。
脱ぎ捨てることを厭わない姿勢こそが、拡張の鍵である。
これらはすべて、硬さを和らげる選択だ。
つまり、“無添加的な拡張”とは、輪郭を崩さずに、硬さを手放していくこと。
組織が澄んでいれば、拡張は自然に起こる。
無理に広げなくても、にじむように、伝播していく。
その静かな拡がりこそが、持続可能な拡張のあり方なのかもしれない。
■ 組織のかたちは、空気に滲む
組織を動かすのは、制度や指示ではない。
最終的には、言語化されない“空気”がすべてを決めていく。
意思決定の速さも、声の通り方も、意欲の発火点も、
目に見えない“場の質”によって左右される。
だからこそ、無添加経営は、目に見えないものを見ようとする。
混ざりものの正体に気づき、
濁りはどこから入ったのかを辿り、
それを淡々と取り除いていく姿勢を大切にする。
■ それは、問いよりも“識別”の世界
この経営姿勢は、
「何が正解か?」と問い続けるスタイルとは少し違う。
もっと静かで、研ぎ澄まされた、“識別”の感覚に近い。
それは、混ざっているか、混ざっていないか。
曇っているか、澄んでいるか。
足されているか、立ち上がっているか。
たとえるなら、経営者自身が“マクスウェルの悪魔”であるかのように、
組織に流れ込んでくる大小さまざまなエネルギーや要素を、
目に見えない粒度で識別し、通すものと止めるものを選び続ける存在。
■ マクスウェルの悪魔的視座
“マクスウェルの悪魔”とは、本来、熱の流れを変える仮想的な存在だ。
目には見えない粒子の動きを識別し、
秩序と混沌のバランスを変える役割を担う。
無添加経営の実践においては、
経営者やリーダーがその“悪魔”のような観察者となる。
混ざりものを見分ける
熱量の発生源を見極める
空気の透明度を保つように、静かに環境を整える
それは、誰かを導く力というよりも、
組織の内側から濁りを遠ざけ、意志が自然に燃える空間を守る力である。
■ 成分表示を、定期的に読み直す
理念、言葉、制度、日常のふるまい。
そこに混ざっていないか? 加えすぎていないか?
本来の素材は、今も生きているか?
“成分表示”を自分たちの手で定期的に読み直すという営み。
それこそが、無添加経営を続けていくということなのかもしれない。
無添加とは、固定化された理想ではない。
むしろ、繊細な眼差しで組織の“今”に問いかけつづける姿勢そのものである。
そして、その姿勢を持つ組織だけが、
いつかまた濁りに触れても、自ら澄ませていく力を失わない。
■ 経営とは、識別である
足すのでもなく、否定するのでもない。
経営の本質は、流れ込んでくるあらゆる要素のなかから、
通すものと、止めるものを見極めるまなざしにある。
無添加経営とは、何もしないことではない。
むしろ、何を加えずにいられるかという意思を保ち続ける営みだ。
理念、制度、言葉、文化。
そこにほんのわずかな“濁り”が入り込んだとき、
その違和感を拾える静けさと、
識別の感度を持てるかどうか。
経営とは、絶えず流れ込むものを前にして、
組織の透明度を、選び続けることである。
「うちは風通しがいいって、言われるんですよね」
彼はそう語ったあと、自分でその言葉に小さく首をかしげた。
それはたしかに“そういう空気”でつくられた職場だった。
笑顔もある。報連相もある。反論も一応できる。
でも、どこかが不自然だった。
誰かが本当に迷っているとき、
誰かが納得していないとき、
誰も、口を開かない。
議論の場では意見が出る。
けれど、それは「言っていいこと」の範囲を出ない。
「何か言いにくいことって、ありますか?」
ある日、そう訊かれたとき、
彼は反射的に「特にないですね」と答えた。
でもそのあと、なぜか胸のあたりがざわついた。
“自分自身も、誰かにとっての言いにくさの一部なのかもしれない”
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
問いが届くとは、どういうことなのか。
それは、「答えられる問い」に出会うことではなかった。
むしろ、自分が見ていなかった視点が、
急に目の前に差し出されるようなことだった。
セッションのあと、
彼は部下と話すときの自分の表情が、気になるようになった。
口を挟むタイミングが、一瞬だけ遅れるようになった。
風通しをつくっている“つもり”と、
風が通っている“実感”のあいだには、
ずいぶん距離があることに、ようやく気づき始めたところだ。
彼は、いつも正解を持っていた。
部下に示す指針、顧客への回答、家族のための決断。
迷う前に動くことが、美徳だと信じていた。
ある日、「問いに向き合うセッション」があると聞いた。
正直、それが何の役に立つのか、すぐには分からなかった。
けれど気づけば、彼はその場にいた。
セッションの帰り道、手元に答えはなかった。
ただ、一枚の紙に書かれていた問いが、頭から離れなかった。
──「誰に見せるための“正しさ”を演じていますか?」
その問いは、数日経っても消えなかった。
会議中、ふとした沈黙のとき、夜に一人でお酒を飲むとき。
誰にも言えないまま、彼の中でその問いは形を変えながら残りつづけた。
半年後。
彼はまだ、その問いに明確な答えを持っていない。
けれど、何かを決めるときの速度が少しだけ遅くなった。
立ち止まり、問いを思い出す時間ができた。
そして最近、部下にこう言われた。
「……最近、課長って、なんか言いかけて止まるときありますよね」
彼は笑ってごまかしたけれど、内心ではわかっていた。
その“言いかけた言葉”の裏に、問いがある。
それはまだ形にならないけれど、確かに自分の中に居座っている。
特に困っているわけではなかった。
仕事も順調で、それなりに任されていたし、
人間関係も大きな問題はなかった。
強いて言えば、忙しさのわりに、
手応えがある日とそうでない日の差が、
最近ちょっと大きい気がしていた。
セッション前に送られてきたコラムを、
移動中に軽い気持ちで開いて読んでいた。
そこで出てきた問いのような一文に、
なぜかスクロールが止まった。
内容はよく覚えていないけれど、
「自分で選んでいると思ってたけど、本当にそうだろうか」
みたいなことが書いてあって、
なんとなく、それだけが残った。
考えたくて残ったわけじゃない。
たぶん、“思い出させられた”のだと思う。
日々の中で、考えないようにしてきたことを。
べつに答えが欲しいわけじゃなかった。
問いそのものが、ただ残っていた。
あの日から、何かが始まった──
……ような気がしている。
でもそれも、まだよくわからないまま、日々が流れている。
彼女は完璧だった。
資料は整理され、言語化も抜群。
最新のリーダーシップ論も、セルフコーチングも習得済み。
部下の話も最後まで聞くし、自己開示も忘れない。
“できている”はずだった。
なのに、どこかでいつも空回っていた。
目の前のチームが“本当に動き出す感覚”が、ずっと訪れなかった。
信じている理念もある。
正しいはずの姿勢もある。
でも、何かがつながらない。
自分だけが深呼吸をして、まわりは息を止めているような空気。
「みんなは、今、何を感じてるんだろう?」
それを誰にも聞けないまま、数ヶ月が過ぎた。
ある日、セッションで問いかけられた。
──「あなたが“うまくいっている”と信じている、そのやり方は、あなたのものですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
気づけば、やってきたことのほとんどが
“良いと言われてきたもの”をなぞることだった。
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ、自分に静かに根を張っていく感じがした。
すぐに何かが変わったわけではない。
でも最近、
言葉が出てこないとき、黙っていることを自分に許せるようになった。
問いのないまま語るよりも、問いを残したまま立ち止まるほうが、
本当はずっと勇気のいる行為だったことを、いま少しだけ実感している。