《 内省の本質 》
- 安全ベルトのない絶叫マシン -
■ はじめに
「内省しましょう」
「まずは自分を見つめることが大事です」
そんな言葉を、わたしたちはもう何度も耳にしてきました。
書店の棚にも、ビジネスセミナーにも、SNSにも、“気づき”や“問い”を促すフレーズがあふれています。
そして多くの人が、それを 「まずできること」 として受け取る。
紙とペンさえあれば始められる。
ひとりで完結できる。
特別な知識もいらない。
…そんなふうに、思われているようです。
■ 内省は、“穏やかそうな顔をした装置”だ
しかし本当は、内省という行為は、そんなに穏やかなものではありません。
むしろそれは、「自分の輪郭が崩れる瞬間」を引き起こす行為です。
見たくなかった感情
認めたくなかった動機
忘れたふりをしていた選択
そういったものと、避けようのない距離で向き合うことになる。
しかもそれは、何の安全装置もないままに訪れます。
■ 内省は、安全ベルトのない絶叫マシン
■ 内省は、安全ベルトのない
絶叫マシン
乗るまでは静かです。
説明もなく、レールも見えません。
軽やかに「問いを立ててみよう」と踏み出したその瞬間から、レールは勝手に動き出します。
そしてある時点で、急降下や急旋回が始まる。
自分の中で何が起きているのか、どうしてこんなに揺さぶられているのか、分からないまま、ただ身体が引き裂かれるような感覚になる。
それが、内省という“乗りもの”の正体です。
■ 心理学的にも、「安全」とは言いがたい行為
■ 心理学的にも、「安全」とは
言いがたい行為
内省は、知的で安全な作業に見えます。
静かなカフェでノートを広げ、自分を見つめ直す。そんな光景を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、心理学の領域ではこうした“自己を振り返る行為”が、必ずしも健やかさにつながるとは限らないとされています。
たとえば、「反芻(rumination)」という概念があります。
過去の出来事や自分の思考を繰り返し思い返すことによって、むしろ不安や抑うつを深めてしまう状態です。
また、「内省の罠(introspection trap)」と呼ばれる現象も知られています。
自分の気持ちを深く観察しているつもりでも、実際には「こうであってほしい自分像」に引きずられたり、無意識に答えを操作してしまったりする。
さらには、「気づいた気になっている」だけで、現実の行動が何ひとつ変わっていない、というケースも少なくありません。
つまり、内省とは「痛み」や「ゆがみ」を引き起こす可能性のある行為だということ。
それが本質的な変化をもたらす前提である以上、
“やり方”も“タイミング”も“サポートの有無”も、本来は慎重に扱うべきなのです。
■ それでも、なぜわたしたちはこれを扱うのか?
■ それでも、なぜわたしたちは
これを扱うのか?
わたしたちは、経営コンサルタントです。
事業の構造を整えること、仕組みを作ること、言葉を研ぐこと。そうした実務の現場に、日々立ち会っています。
でもそこで本当に向き合うことになるのは、「決められない」「踏み出せない」「崩せない」といった、とても人間的な揺らぎや痛みです。
数字や戦略の奥にあるそれらを整えないままでは、組織は健やかには回っていきません。
内省は危険を伴います。
しかしそれでも、自分の思考や感情と丁寧に向き合うことができたとき、経営も人間関係も、少しずつ変わりはじめる。
だからこそ、わたしたちはそれを扱っています。
扱うからには、軽くは語りません。
■ そして、伝えておきたいことがひとつあります。
わたしたちは、この“絶叫マシン”の仕組みを外側から眺めているわけではありません。
座っているお客さんを、安全な場所から高みの見物することは、わたしたちの道義に反します。
自身が乗っている絶叫マシンの隣席をご覧ください。
わたしたちも、安全ベルトなしで座っています。
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