理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ
「内省しましょう」
「まずは自分を見つめることが大事です」
そんな言葉を、わたしたちはもう何度も耳にしてきました。
書店の棚にも、ビジネスセミナーにも、SNSにも、“気づき”や“問い”を促すフレーズがあふれています。
そして多くの人が、それを 「まずできること」 として受け取る。
紙とペンさえあれば始められる。
ひとりで完結できる。
特別な知識もいらない。
…そんなふうに、思われているようです。
しかし本当は、内省という行為は、そんなに穏やかなものではありません。
むしろそれは、「自分の輪郭が崩れる瞬間」を引き起こす行為です。
見たくなかった感情
認めたくなかった動機
忘れたふりをしていた選択
そういったものと、避けようのない距離で向き合うことになる。
しかもそれは、何の安全装置もないままに訪れます。
乗るまでは静かです。
説明もなく、レールも見えません。
軽やかに「問いを立ててみよう」と踏み出したその瞬間から、レールは勝手に動き出します。
そしてある時点で、急降下や急旋回が始まる。
自分の中で何が起きているのか、どうしてこんなに揺さぶられているのか、分からないまま、ただ身体が引き裂かれるような感覚になる。
それが、内省という“乗りもの”の正体です。
内省は、知的で安全な作業に見えます。
静かなカフェでノートを広げ、自分を見つめ直す。そんな光景を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、心理学の領域ではこうした“自己を振り返る行為”が、必ずしも健やかさにつながるとは限らないとされています。
たとえば、「反芻(rumination)」という概念があります。
過去の出来事や自分の思考を繰り返し思い返すことによって、むしろ不安や抑うつを深めてしまう状態です。
また、「内省の罠(introspection trap)」と呼ばれる現象も知られています。
自分の気持ちを深く観察しているつもりでも、実際には「こうであってほしい自分像」に引きずられたり、無意識に答えを操作してしまったりする。
さらには、「気づいた気になっている」だけで、現実の行動が何ひとつ変わっていない、というケースも少なくありません。
つまり、内省とは「痛み」や「ゆがみ」を引き起こす可能性のある行為だということ。
それが本質的な変化をもたらす前提である以上、
“やり方”も“タイミング”も“サポートの有無”も、本来は慎重に扱うべきなのです。
わたしたちは、経営コンサルタントです。
事業の構造を整えること、仕組みを作ること、言葉を研ぐこと。そうした実務の現場に、日々立ち会っています。
でもそこで本当に向き合うことになるのは、「決められない」「踏み出せない」「崩せない」といった、とても人間的な揺らぎや痛みです。
数字や戦略の奥にあるそれらを整えないままでは、組織は健やかには回っていきません。
内省は危険を伴います。
しかしそれでも、自分の思考や感情と丁寧に向き合うことができたとき、経営も人間関係も、少しずつ変わりはじめる。
だからこそ、わたしたちはそれを扱っています。
扱うからには、軽くは語りません。
わたしたちは、この“絶叫マシン”の仕組みを外側から眺めているわけではありません。
座っているお客さんを、安全な場所から高みの見物することは、わたしたちの道義に反します。
自身が乗っている絶叫マシンの隣席をご覧ください。
わたしたちも、安全ベルトなしで座っています。
Non Table
「うちは風通しがいいって、言われるんですよね」
彼はそう語ったあと、自分でその言葉に小さく首をかしげた。
それはたしかに“そういう空気”でつくられた職場だった。
笑顔もある。報連相もある。反論も一応できる。
でも、どこかが不自然だった。
誰かが本当に迷っているとき、
誰かが納得していないとき、
誰も、口を開かない。
議論の場では意見が出る。
けれど、それは「言っていいこと」の範囲を出ない。
「何か言いにくいことって、ありますか?」
ある日、そう訊かれたとき、
彼は反射的に「特にないですね」と答えた。
でもそのあと、なぜか胸のあたりがざわついた。
“自分自身も、誰かにとっての言いにくさの一部なのかもしれない”
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
問いが届くとは、どういうことなのか。
それは、「答えられる問い」に出会うことではなかった。
むしろ、自分が見ていなかった視点が、
急に目の前に差し出されるようなことだった。
セッションのあと、
彼は部下と話すときの自分の表情が、気になるようになった。
口を挟むタイミングが、一瞬だけ遅れるようになった。
風通しをつくっている“つもり”と、
風が通っている“実感”のあいだには、
ずいぶん距離があることに、ようやく気づき始めたところだ。
彼は、いつも正解を持っていた。
部下に示す指針、顧客への回答、家族のための決断。
迷う前に動くことが、美徳だと信じていた。
ある日、「問いに向き合うセッション」があると聞いた。
正直、それが何の役に立つのか、すぐには分からなかった。
けれど気づけば、彼はその場にいた。
セッションの帰り道、手元に答えはなかった。
ただ、一枚の紙に書かれていた問いが、頭から離れなかった。
──「誰に見せるための“正しさ”を演じていますか?」
その問いは、数日経っても消えなかった。
会議中、ふとした沈黙のとき、夜に一人でお酒を飲むとき。
誰にも言えないまま、彼の中でその問いは形を変えながら残りつづけた。
半年後。
彼はまだ、その問いに明確な答えを持っていない。
けれど、何かを決めるときの速度が少しだけ遅くなった。
立ち止まり、問いを思い出す時間ができた。
そして最近、部下にこう言われた。
「……最近、課長って、なんか言いかけて止まるときありますよね」
彼は笑ってごまかしたけれど、内心ではわかっていた。
その“言いかけた言葉”の裏に、問いがある。
それはまだ形にならないけれど、確かに自分の中に居座っている。
特に困っているわけではなかった。
仕事も順調で、それなりに任されていたし、
人間関係も大きな問題はなかった。
強いて言えば、忙しさのわりに、
手応えがある日とそうでない日の差が、
最近ちょっと大きい気がしていた。
セッション前に送られてきたコラムを、
移動中に軽い気持ちで開いて読んでいた。
そこで出てきた問いのような一文に、
なぜかスクロールが止まった。
内容はよく覚えていないけれど、
「自分で選んでいると思ってたけど、本当にそうだろうか」
みたいなことが書いてあって、
なんとなく、それだけが残った。
考えたくて残ったわけじゃない。
たぶん、“思い出させられた”のだと思う。
日々の中で、考えないようにしてきたことを。
べつに答えが欲しいわけじゃなかった。
問いそのものが、ただ残っていた。
あの日から、何かが始まった──
……ような気がしている。
でもそれも、まだよくわからないまま、日々が流れている。
彼女は完璧だった。
資料は整理され、言語化も抜群。
最新のリーダーシップ論も、セルフコーチングも習得済み。
部下の話も最後まで聞くし、自己開示も忘れない。
“できている”はずだった。
なのに、どこかでいつも空回っていた。
目の前のチームが“本当に動き出す感覚”が、ずっと訪れなかった。
信じている理念もある。
正しいはずの姿勢もある。
でも、何かがつながらない。
自分だけが深呼吸をして、まわりは息を止めているような空気。
「みんなは、今、何を感じてるんだろう?」
それを誰にも聞けないまま、数ヶ月が過ぎた。
ある日、セッションで問いかけられた。
──「あなたが“うまくいっている”と信じている、そのやり方は、あなたのものですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
気づけば、やってきたことのほとんどが
“良いと言われてきたもの”をなぞることだった。
その問いは、答えを求めていなかった。
ただ、自分に静かに根を張っていく感じがした。
すぐに何かが変わったわけではない。
でも最近、
言葉が出てこないとき、黙っていることを自分に許せるようになった。
問いのないまま語るよりも、問いを残したまま立ち止まるほうが、
本当はずっと勇気のいる行為だったことを、いま少しだけ実感している。