理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 重いコンダラを手放す 》

- 信じながら疑う知性の話 -

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プロローグ:

整えました。段落を分け、スマホでも読みやすい形にしました。


人は、思い込む生きものだ。
経営者も、社員も、コンサルタントも――みんなそれぞれの「正しさ」を信じている。

ただし、その“正しさ”がいつの間にか“重いコンダラ”になっていることに、気づいていない。

努力、信念、根性。
ビジネスの現場では美徳とされるこれらも、過剰になるとローラーのように現場を均してしまう。
しかも本人はそれを「いい仕事だ」と信じて疑わない。

このコラムは、その「重さ」の正体を見つめる旅である。
手放すとは、信じることをやめることではない。
むしろ、“信じながら疑う”という知性に出会うことなのだ。

Vol.0|“空耳”のように始まる思い込み

Vol.0|“空耳”のように始まる
思い込み

— 思い込みのはじまり -

かつて深夜番組『タモリ倶楽部』には、「空耳アワー」という人気コーナーがあった。
洋楽の歌詞が、まったく別の日本語に聞こえてしまう――そんな空耳ネタは、笑いとともに“人の耳がつくる錯覚”を鮮やかに映し出していた。

昭和の名作『巨人の星』のオープニング曲にも、この空耳が登場する。
歌詞冒頭の「思い込んだら」という歌詞が、「重いコンダラ」という謎の道具の名前に聞こえてしまったのだ。

グラウンド整備のローラーを見て「あれがコンダラか」と信じて疑わなかった人も少なくない。
もし本当に存在していたら、きっと“業界最重量級”の整備器具だったに違いない。

もちろん実際にはそんな道具は存在しない。
だが、人は耳にした音を自分の知識や経験に引き寄せ、もっともらしい現実に補完してしまう。

その結果、思い込みは確かな事実のように定着してしまうのだ。
私たちは気づかぬうちに、それぞれの「重いコンダラ」を引きずっているのかもしれない。

Vol.1|脳がつくる“正しさ”

— すべての解釈は仮説である -

「解釈」を見ている私たち

私たちは日々、世界を“見ている”と思っている。
だが実際には、脳が処理した情報を“見せられている”にすぎない。

光、音、匂い、温度、言葉。
それらは、外界から届く単なる信号であり、意味を与えるのは常に人間の側だ。

脳は、現実をそのまま受け取ることができない。
あまりにも情報量が多すぎるからだ。

だからこそ、私たちは無意識のうちに「仮説」を立てる。
過去の経験、知識、文脈をもとに「おそらくこうだろう」と予測し、
その仮説に合う情報を拾い、合わないものを静かに切り捨てる。

その予測の積み重ねが、“見ているつもりの現実”を形づくる。
つまり、世界は外にあるようでいて、実際には脳の内側で再構成された“編集版”なのだ。

正しさの心地よさ

人は「わかった」と思えたときに安心する。
それは、仮説と現実のズレ――“予測誤差”が小さくなった瞬間だ。

脳は誤差を減らすことを快と感じ、
そのために、都合のいい情報を拾い、都合の悪い情報を見落とす。

このメカニズムが働くと、
「自分の理解こそ正しい」と感じる瞬間が生まれる。
それは真理を掴んだ証拠ではなく、
脳がうまく辻褄を合わせたという生理的な快感にすぎない。

私たちは、“正しさ”という感覚を信頼しすぎる。
だが、それは事実ではなく、“整合性の錯覚”だ。
世界を理解したという満足感が、次の問いを閉じてしまう。

思い込みの構造

思い込みは、怠惰や盲信の産物ではない。
むしろ、人間の知性が世界を効率的に処理するための仕組みだ。

仮説なしには、何ひとつ認識できない。
だが、それが固定化すると、世界の変化に気づけなくなる。

脳は、いったん整った“物語”を壊すことを嫌う。
だから、新しい情報が届いても、
既存の枠組みの中で理解し直そうとする。

その結果、矛盾を抱えたままでも
「まあ、そんなものだろう」と納得してしまう。

思い込みとは、脳が立てた仮説が、
いつの間にか真実として居座ってしまった状態なのだ。

ビジネスに潜む“重いコンダラ”

この構造は、組織やビジネスの現場にもそのまま現れる。

「顧客はこういうものを求めている」
「この業界ではこうするのが常識だ」
「この商品が売れているのは、品質がいいからだ」

――これらは一見、経験に基づいた判断のようで、
実際には、過去の仮説を再生産しているにすぎない。

思い込みは、成功体験と結びついた瞬間に強固になる。
成果を出した仮説ほど、崩すのが難しくなるのだ。

だからこそ、変化を前にしても過去の解釈を引きずり、
新しい現実に適応できなくなる。

まるで、もう必要のない“重いコンダラ”を、
律儀にグラウンドの端まで押し続けるように。

仮説を疑うという知性

思い込みを完全に捨てることはできない。
なぜなら、私たちは“仮説的にしか”世界を知覚できないからだ。

大切なのは、思い込みをなくすことではなく、
自分がどんな仮説のもとに動いているのかを、
ときどき立ち止まって見つめ直すこと。

「これは事実なのか、それとも自分の解釈なのか」
そう問い直すたびに、脳がつくる“正しさ”はほどけていく。

思い込みの奥には、まだ見ぬ現実が眠っている。
その静かな気づきが、新しい思考の扉を開く。

Vol.2|正しさが行動を決める

— 無意識の選択肢 -

無意識のハンドル

私たちは、自分の意志で行動を選んでいると思っている。
しかし、その多くは“正しさの定説”にあらかじめ導かれている。

脳は過去の経験を参照し、似た状況を見つけ出しては
「この場合はこうする」と自動的に舵を取る。
それが「選択しているように見える」だけなのだ。

行動はしばしば意識の前に決まっている。
意識は後から追いつき、「自分で選んだ」と物語を整える。
私たちの自由意志は、実際には“行動のナレーション担当”なのかもしれない。

そして、そのナレーションは常に「正しさ」の物語で編まれる。
社会的であれ、倫理的であれ、自分を守るためであれ――
行動にはいつも、何らかの“正当化の脚本”が存在している。

安全という誘惑

脳は、整合性の取れた世界を好む。
新しい行動は、不確実性を伴う。
そのたびに脳は、予測できない誤差を嫌い、
できるだけ“安心できる行動”を選ばせようとする。

それは生存のための仕組みであり、同時に成長を阻む構造でもある。
未知に踏み出すより、既知のパターンに戻る方が安全だと信じてしまう。
「今までこうしてきたから」「みんなそうしているから」――
そうした言葉の裏には、脳が求める“安全の物語”が潜んでいる。

正しさは、しばしば安心の別名だ。
そして安心は、思考の停止とも隣り合わせにある。

仮説が“定説”に変わる瞬間

行動を導く“正しさ”は、本来は仮説である。
その仮説が長く機能し続けると、いつしか定説へと変わる。
疑う対象から外れた瞬間に、それは信念へと変質し、
私たちはその前提の上でしか考えられなくなる。

定説化した仮説は、思考の余白を奪う。
もはや検証の必要がないと感じたとき、
脳は更新をやめ、過去の整合性だけを頼りに世界を判断し始める。
その状態こそが、思い込みの始まりだ。

集団の正しさ

個人の中にある“正しさの定説”は、やがて集団の中で強化される。
同じ前提を共有することで、仲間意識と秩序が生まれるからだ。
その秩序は、同時に異質な視点を排除する。

組織には、目に見えない“集合的コンダラ”がある。
暗黙のルール、評価軸、成功体験。
それらは一見合理的に見えても、更新されないまま“信念の重り”となっていく。

誰かが「本当にそうだろうか」と問うた瞬間、
その人はしばしば異端とみなされる。
変化の端緒はいつも、その“ズレ”からしか始まらない。

正しさの共有が組織をまとめ、同時に停滞させる。
それは、社会全体にも当てはまる構造だ。

選択の説明責任

思い込みから完全に自由になることはできない。
ただ、その思い込みを説明できるようになることはできる。

なぜその判断をしたのか。
なぜその選択が“正しい”と思えたのか。
それを言葉にできるとき、私たちは無意識のハンドルを一度、意識に引き上げている。

説明できる選択は、責任を伴う。
それは他者への責任であると同時に、自分への誠実さでもある。
つまり、思い込みを手放すとは「説明できる自分」であることだ。

“重いコンダラ”を押しているうちは、動いている気がする。
だが、その重さの由来を知らぬままでは、同じ円を回り続けるだけだ。
行動を変えるためには、まずその重さの正体を見抜くこと。
それが、自由に選ぶための最初の一歩になる。

Vol.3|問いが仮説をほどく

— 思い込みとの共存 -

問いは、思考の呼吸

問いは、正しさを否定するためにあるのではない。
むしろ、固まってしまった思考を揺らし、柔らかくするためのものだ。

人は、一度「これは正しい」と信じた瞬間に、安心を手に入れる。
その安心の中で、思考は呼吸を忘れていく。
問いとは、その呼吸を取り戻すための動きである。

「なぜ?」「本当に?」「それ以外は?」――
その小さな一息が、思考を再び動かし始める。

問いがあることで、思い込みは“動的な仮説”へ戻る。
固定された定説に少しの揺らぎが生まれ、
そこに再び余白と変化の可能性が宿る。

仮説をほどくとは、関係を変えること

思い込みをほどくとは、それを消すことではない。
自分とその前提との「関係」を変えることだ。

問いを立てるたび、私たちは自分の立脚点を一歩外側から眺める。
それは、前提を疑うというよりも、
「私はなぜ、これを当然だと思ったのか?」と自分に耳を傾ける行為だ。

問いの力は、対象ではなく自分との関係性を変えることにある。
思い込みを抱えたままでも、
「いま自分がどんな思い込みの上に立っているのか」を見つめるだけで、
その影響力は静かに弱まっていく。

自分を信じ、信念を疑う

問いは、自分を揺らす行為だ。
だが、それは自己否定ではない。
むしろ、自分を信じているからこそできることだ。

自分を信じるとは、「今の理解」を絶対視しない強さを持つこと。
信念を疑える人は、信じるという行為を意識的に選んでいる。
その姿勢は不安定に見えて、実はとても安定している。

問いを持つとは、自分という存在の“更新可能性”を信じることだ。
「揺らいでも大丈夫」という前提があるからこそ、
人は思い込みを観察できる。

思い込みとの共存

思い込みを完全に消すことはできない。
それは脳が世界を理解するための基本構造だからだ。
だからこそ、思い込みとどう共に生きるかを考える必要がある。

自分の中にある定説を、定期的に棚卸しする。
「これはまだ今の私にとって有効か?」と問う。
問いを持つとは、過去の理解を現在に呼び戻すことでもある。

思い込みを抱えたままでいい。
ただ、その重さの由来を知っていればいい。
問いは、思い込みを壊すためではなく、
思い込みと共に歩くためにある。

Vol.4|重いコンダラを手放す

— 思い込みを扱う自由 -

■ 見えない重さを知る

人は誰しも、何かを信じて動いている。
それは理念であったり、価値観であったり、あるいは“当たり前”という名の重りかもしれない。

思い込みは、目に見えない形で私たちを支えている。
だからこそ、簡単には手放せない。
手放そうとするほどに、その重さは際立って感じられる。

「重いコンダラ」とは、その重さそのものの比喩だ。
努力や信念という言葉の影で、私たちは自分の正しさを押し続けている。
それを無理に消す必要はない。

ただ、その重さがどこから来ているのかを知ること――
そこに、“手放す”という行為の本質がある。

■ 自分を動かしている“前提”

行動や判断の裏には、必ず前提がある。
「こうすべき」「これが正しい」「これが安全」――
そうした言葉は、思考の地層のように積み重なり、
私たちの選択を静かに方向づけている。

多くの人は、その前提を疑わないまま動いている。
そして気づかぬうちに、「選んでいる」のではなく「選ばされている」状態に陥る。

自分を動かしている前提を知ることは、
自分をコントロールするためではなく、
自分を理解するためにある。

それを意識できたとき、行動は“反応”ではなく“選択”へと変わる。
思い込みを扱うとは、行動の前にある見えない意図を見つめることだ。

■ 信じながら、疑う

人は、何かを信じなければ進めない。
だが、信じきってしまえば、見えなくなるものがある。
その矛盾のあいだにこそ、成熟した自由が宿る。

信じながら疑うとは、信念を否定することではない。
信じるという行為を“選び直し続ける”姿勢である。
それは、一度定説となった自分の仮説を、何度でも検証し直すということ。

メタ認知とは、その循環を引き受ける知性だ。
「私はなぜ、これを正しいと感じたのか?」
「その正しさは、今の私にもまだ有効だろうか?」
そう問い直すたび、私たちは思い込みの外に出る。

その瞬間、思い込みは敵ではなく、共に歩むパートナーになる。

手放すということ

手放すとは、消すことではない。
それは、抱え方を変えることだ。

思い込みの存在を知ると、その重さを意識できる。
意識できるものは、選べる。

つまり、手放すとは、
「もう、無自覚に引かなくてもいい」という自由を取り戻すことだ。

思い込みを持つことは悪ではない。
それは人間である証拠でもある。

ただ、その重さの由来を知り、
いつでも置き直せる柔らかさを持っていたい。

私たちはもう、コンダラを引かなくてもいい。
ただ、その重さの正体を知っていればいい。

Epilogue|思い込みという名の風景

思い込みは、間違いではない。
それは、私たちが世界と関わるための“足場”のようなものだ。

仮にその足場が不完全でも、そこに立たなければ何も始まらない。
人は、自分の見ている世界を信じて生きる。

その信じ方に個性があり、矛盾があり、歴史がある。
だからこそ、思い込みは生き方のかたちでもある。

ただ、どこかでふと立ち止まり、
「なぜ私はこの足場に立っているのだろう」と振り返ることができたなら、
その瞬間、私たちは世界との関係を少しだけ変えられる。

思い込みを手放すとは、
無垢になることでも、正しさを捨てることでもない。

“わかっていない自分”を引き受けながら、
それでも前へ進むという選択のことだ。

問いを持つとは、その歩みの中に風を入れること。
固まった地面を少し耕し、見えない根を確かめること。

そうして少しずつ、足場が更新されていく。
思い込みは、消えない。

そのかわりに、扱い方を変えることはできる。
そのとき初めて、
「信じる」と「疑う」のあいだにある落ち着いた場所に立てるのかもしれない。

※余談ですが、後年の検証で『巨人の星』のオープニング映像と歌詞は
実際には噛み合っていなかったという。
つまりこのコラム自体もまた、知らぬ間に“重いコンダラ”を背負っていた――ということになる(爆)
参考:@the3rdplace

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