人の話を聞いていたら、自分の経験まで違って見えてきて、みんな違うことを言っているのに、気づけば誰も考えつかなかった話になっていることについての
講座
誰もコントロールしていないのに、全体が動き出す。
誰もコントロールしていないのに、
全体が動き出す。
概 要
“パララックス”とは、視差のこと。
同じ星を見ていても、立つ場所が変われば、星の位置は違って見える。天文学では、その見え方のずれから、星までの距離を測る。一つの場所に立っているだけでは、距離は分からない。
人の見え方にも、同じことが起きている。国に文化があるように、個人にも文化がある。その文化の中にいる間は、文化は世界そのものに見える。違う文化に立つ人と出会ったとき、初めて自分の文化が「文化」として見えてくる。視差は、どちらかが間違っているということではない。自分の前提が姿を現すための条件である。
“エンカウンター”とは、出会いのこと。
同じ会議に出ていたはずなのに、後になって話してみると、見ていた場面がまるで違うことがある。同じ出来事の中にいて、違う出来事を生きていた。そのずれは、話してみるまで分からない。
エンカウンターとは、そのずれに触れてしまう出会いのことである。顔見知りが増えるような出会いではない。自分の世界とは違う世界が、否定できない形で目の前に現れる出会いである。
違う世界に触れると、自分の世界が揺らぐ。その揺らぎは、心地よいものとは限らない。それでも、その揺らぎの中でしか見えてこないものがある。
この講座の名前は、この二つを重ねたもの。立つ場所の違う者同士が、言葉を交わし、見え方のずれに触れていく。そのための12週間である。
“パララックス”とは、視差のこと。
同じ星を見ていても、立つ場所が変われば、星の位置は違って見える。天文学では、その見え方のずれから、星までの距離を測る。一つの場所に立っているだけでは、距離は分からない。
人の見え方にも、同じことが起きている。国に文化があるように、個人にも文化がある。その文化の中にいる間は、文化は世界そのものに見える。違う文化に立つ人と出会ったとき、初めて自分の文化が「文化」として見えてくる。視差は、どちらかが間違っているということではない。自分の前提が姿を現すための条件である。
“エンカウンター”とは、出会いのこと。
同じ会議に出ていたはずなのに、後になって話してみると、見ていた場面がまるで違うことがある。同じ出来事の中にいて、違う出来事を生きていた。そのずれは、話してみるまで分からない。
エンカウンターとは、そのずれに触れてしまう出会いのことである。顔見知りが増えるような出会いではない。自分の世界とは違う世界が、否定できない形で目の前に現れる出会いである。
違う世界に触れると、自分の世界が揺らぐ。その揺らぎは、心地よいものとは限らない。それでも、その揺らぎの中でしか見えてこないものがある。
この講座の名前は、この二つを重ねたもの。立つ場所の違う者同士が、言葉を交わし、見え方のずれに触れていく。そのための12週間である。
PARALLAX & ENCOUNTER は、人が世界を見るときの「前提」と、見方の違い(視差)、そして違う世界を見ている人との「出会い」を扱う、12週間の講座です。
進み方は、読むこと、見ること、話すこと。
読む・見ることとは、自分の見え方を知ることです。
いつもは世界そのものだと思っていた見え方が、自分の前提を通した一つの見え方として、姿を現します。
その見え方を対話の中で話す。
話すことは、手放すことです。
言葉にして人と人のあいだに置かれた見え方は、もう誰のものでもなくなり、そこから、誰も考えつかなかった話が生まれてきます。
何が起きるかは、起きてみるまで分からない。
予定調和で終わらないのがこの講座の一番の醍醐味かもしれません。
イントロダクション
Introduction

この講座の12週間は、一本の線路を旅する時間です。
電車は途中の六つの駅に停車します。旅人は駅に降りて、しばらくそこに滞在します。見え方が姿を現すこともあれば、揺らぐこともある。そうやって”何か”が組み替わっていくのを見ながら、また電車に乗って、先へ進みます。
私たちは、世界をそのまま見ているつもりでいます。実際には、いつの間にか身につけた前提を通して見ている。
旅人は駅に降りるたびに、その見え方に出会い直していきます。他の人の言葉に触れて揺らぎ、場に置かれた言葉の痕跡を拾いながら、少しずつ組み替わっていく。やがて、駅で起きたことは、姿を変えて日常にも現れ始めます。職場の会議。誰かとの会話。帰り道の景色…
電車はやがて、終着駅に到着します。その先には、駅で降りた者だけに見える道が続いています。
今回の3か月の旅はそこで終わりますが、道はそこから先も永遠に続いていきます。
イントロダクション
Introduction
この講座の12週間は、一本の線路を旅する時間です。
電車は途中の六つの駅に停車します。旅人は駅に降りて、しばらくそこに滞在します。見え方が姿を現すこともあれば、揺らぐこともある。そうやって”何か”が組み替わっていくのを見ながら、また電車に乗って、先へ進みます。
私たちは、世界をそのまま見ているつもりでいます。実際には、いつの間にか身につけた前提を通して見ている。
旅人は駅に降りるたびに、その見え方に出会い直していきます。他の人の言葉に触れて揺らぎ、場に置かれた言葉の痕跡を拾いながら、少しずつ組み替わっていく。やがて、駅で起きたことは、姿を変えて日常にも現れ始めます。職場の会議。誰かとの会話。帰り道の景色…
電車はやがて、終着駅に到着します。その先には、駅で降りた者だけに見える道が続いています。
今回の3か月の旅はそこで終わりますが、道はそこから先も永遠に続いていきます。
この講座が扱う問い
私たちは、どのような前提で世界を見ているのか。
異なる他者と出会い、現実に触れたとき、どう応答していくのか。
その前提は、間違いでも欠陥でもありません。
これまで判断し、行動し、生きてくるために働いてきたものです。
ただ、その前提のほとんどは無自覚です。そこに気づいて、違う前提で生きている人の話を聞いてみる。すると、自分の経験までが少し違って見えてくることがあります。
なぜ、無自覚な前提に自覚的になるのか。
前提が無自覚な間は、人はその前提に動かされていて、世界を見ているつもりで、前提の枠の中だけで判断し、動かそうとしています。
自覚的になるとは、その前提を捨てることではなく、世界の姿だと思っていたものを、「自分の見え方」として持てるようになることです。
見え方を握りしめる力が緩むと、反応ではなく、応答が始まります。
自然の中では、誰も全体をコントロールしていないのに、全体が動き続けています。この講座がその先に見ているのは、コントロールする側から、全体の動きに自分も参加していく側への、在り方の転換です。
この講座は、古い前提を壊して、正しい新しい前提に置き換えるためのものではありません。違う見方を、排除も同化もせず、内包していく。そのための場です。
講座の設計にあたって、私たちはこの仕事を「無自覚な前提への自覚と、視差を通じた出会い」と呼んでいます。
この講座は完璧を目指していませんし、その瞬間の最適解だけを提供します。同じ文章を読んでも、見える世界は人によって違います。その違いを、正しい・間違いで処理しないこと。それがこの講座の、たぶん一番大事な約束です。
こんな問いや関心を持つ人へ
自分自身と、身近な人との関係
- 話が噛み合わないことが多い
- 相手を理解しているつもりなのに、すれ違いが繰り返される
- 自分の当たり前が、他者には当たり前ではないと気づいてしまった
- 家族や身近な人との関係を、別の角度から見てみたい
職場・マネジメント・リーダーシップ
- 指示しないと動かない。でも、指示すると主体性が生まれない
- 会議がいつも同じところを巡っている
- 立場の違いから対立が起き、ほどけない
- 予測のつかない状況で、どう判断し、どう動くか
- 管理や役職だけに依存しない関係性を考えたい
コミュニティ・自律分散・共創
- 誰か一人に活動が集中してしまうことに違和感がある
- 自発的に人が関わる場を考えたい
- 異なる人々が、どうすれば共に何かを生み出せるのか知りたい
- 中央からの指示によらない連携に興味がある
哲学・科学・人間についての知的好奇心
- 人はなぜ、同じものを違って見るのか
- 無意識の前提とは何なのか
- 自分が理解していると思っている世界は、どこまで確かなのか
- 自然界で起きる自己組織化を、人間や組織を考える手がかりにしたい
- 複雑系、認識論、関係性、他者理解への好奇心がある
新しい組織観・OSへの関心
- 従来の管理モデルとは異なる組織のあり方を考えたい
- ティール組織や自律分散型組織に関心がある
- 自分の思考や判断を動かしている「OS」を考えてみたい
- 既存の方法論とは違う角度から、現実を捉え直したい
講座内容
Course Contents
「自己組織化」という言葉がある。
誰も全体を指揮していないのに、全体が動き、秩序が立ち上がる現象のことである。
空ではムクドリが、隣の動きに応答しながら、群れの形を変えていく。海ではイワシが、隣の震えを受け取り、波のように群れ全体へ広げていく。地面ではアリが、残された痕跡の集積の上に、道を立ち上げていく。粘菌は、個の境界を溶かし、全体で感じ取る。どれにも、中心で指揮する者はいない。
その材料になるのは、一人ひとりの形である。外の正解や、誰かに合わせて、自分のいびつな形を整えてしまうと、場に届くのは整えられた形のほうになる。形が崩れた場所では、内側から湧く動きも起きにくい。
形を整えなくていい場とは、何も起きない場のことではない。何が起きても大丈夫だと、信じ切ることのできる場である。摩擦が起きても、言葉が届かなくても、場が崩れかけても、それでも大丈夫だという信頼。その信頼の中で、人は形を整えることをやめ、自分の形のまま隣と関わり始める。
自己組織化は、形を合わせた場の中でも起きる。ただ、そこで生まれるのは同調の秩序である。合わせ続けるうちに形は固まっていき、やがて共鳴が消えていく。
この講座が場に置こうとするのは、その信頼のことである。
講座内容
Course Contents
「自己組織化」という言葉がある。
誰も全体を指揮していないのに、全体が動き、秩序が立ち上がる現象のことである。
空ではムクドリが、隣の動きに応答しながら、群れの形を変えていく。海ではイワシが、隣の震えを受け取り、波のように群れ全体へ広げていく。地面ではアリが、残された痕跡の集積の上に、道を立ち上げていく。粘菌は、個の境界を溶かし、全体で感じ取る。どれにも、中心で指揮する者はいない。
その材料になるのは、一人ひとりの形である。外の正解や、誰かに合わせて、自分のいびつな形を整えてしまうと、場に届くのは整えられた形のほうになる。形が崩れた場所では、内側から湧く動きも起きにくい。
形を整えなくていい場とは、何も起きない場のことではない。何が起きても大丈夫だと、信じ切ることのできる場である。摩擦が起きても、言葉が届かなくても、場が崩れかけても、それでも大丈夫だという信頼。その信頼の中で、人は形を整えることをやめ、自分の形のまま隣と関わり始める。
自己組織化は、形を合わせた場の中でも起きる。ただ、そこで生まれるのは同調の秩序である。合わせ続けるうちに形は固まっていき、やがて共鳴が消えていく。
この講座が場に置こうとするのは、その信頼のことである。
第一停車駅「見方」

夕暮れの空で、ムクドリが巨大なうねりを描く。
群れに指揮者はおらず、それにもかかわらず全体は絶えず動いている。
第一駅(第1回)「見方」では、「分かる」ということを扱います。
私たちは普段、物事を「分かる」ものとして扱っています。
第1回は、その「分かりたい」という欲求そのものを「病」と見立てて考えます。
分かるとは、掴むこと。予測できるものに変えて、自分の側に所有すること。その見方をしている限り、見えてこない秩序があります。
秩序は、誰かが作るものではなく、応答の中で起きてくるものではないか。
この回は、その「秩序の正体」を追います。
知ることは、いつの間にか溜め込むことと重なっていく。
情報を囲い込む「ダム」から、通り抜けていく「メディア」へ。自分の「分かり方」がどう組み上がっているのかを観ていく時間です。
第二停車駅「境目」

朝靄の湖の駅。
水はホームの足元まで満ちていて、列車の影が水面に揺れている。
陸と水の境は、どこにあるのか分かりません。
第二駅(第2回)「境目」では、「境目」ということを扱います。
細胞は、膜で仕切られています。
膜は壁ではなく、通すものと通さないものを、その都度選択し続けている境目です。
人にも、同じ膜があります。
社会の期待は、浸透圧のように外から流れ込んできて、境目が薄い場所では、破裂しそうになったり、萎縮したりします。
内側からは、モヤモヤが湧いてきます。
モヤモヤは不具合ではなく、自分のOSと、いま動いているアプリとの不整合からの知らせであり、更新の始まる合図と考える事ができます。
この回は、その境目を観ていく時間です。
立つ場所そのものが、動き始めます。
第三停車駅「あいだ」

坂の町と、森のあいだの駅。
片側には煤けた家並みが積み重なり、片側には獣の通る細道が続いている。
第三駅(第3回)「あいだ」では、「関係性」を扱います。
誰かが正解を持っている場では、正解を持たない人の探索は止まります。
答えを出すことは助けに見えて、場の動きを殺してしまうことがあるのではないでしょうか。
合わないことは、欠陥ではありません。
音が響き合うのは、境目があるからです。
ズレたまま、バラバラなままでも、一つの動きが生まれることがあります。
アリの群れには、全体を指示する者がいません。
一匹一匹が、地面に残された痕跡に応答しているだけです。
その応答の積み重ねが、道を作ります。
この回は、違いを消すのではなく、違いのある場で何が起きるのかを観ていく時間です。
第四停車駅「源」

森の奥の泉の駅。
一滴が落ちて、波紋が広がっていく。
木々の間から、光が一筋差し込んでいます。
第四駅(第4回)「源」では、「源泉」を扱います。
場は、誰かが最初の一滴を落とすところからしか始まりません。
その一滴を落とした者には、静かな責任が生まれます。
場を支配する責任ではなく、始めてしまったことへの責任です。
意味は、自分で探し当てるものではありません。
人生の側から問いが届いていて、こちらは応答する側にいます。
沈黙も、その応答の一つです。
言葉で埋めない空白が、新しい秩序を呼び込みます。
粘菌は、個と個の膜を溶かして、全体で感じ取っていきます。
足りないときは、あるもので工面をする。その工面にも、誠実さが現れます。
この回は、自分の源に触れ、そこからどう応答するのかを観ていく時間です。
第五停車駅「現場」

夕景の町の縁の駅。
線路と川が、同じ曲線を描いて町の外へ流れていく。
第五駅(第5回)「現場」では、「現実」を扱います。
講座の中で起きていることは、日常の現場で起きていることの縮図です。
「分からない」への恐れ、沈黙、膠着は、職場でも家庭でも同じ形で現れます。相似形です。
自分が無意識に繰り返している支配のパターンも、そこで姿を現します。
正解を出す側に回ること。不安を隠すために、完全な計画を押し付けること。
置いていくのは、完璧な解決策ではありません。
違和感や問いという痕跡を置き、自分の欠乏を晒して隙間を作り、異質な言葉を呪文のように投げ込むことです。
「準備が整ったら動こう」は、管理OSの罠かもしれません。
この回は、学んできたことを現実の中に置いていく時間です。
第六停車駅「門出」

夜明けの終着駅。
線路は車止めで終わり、その先には小さな道が続いています。
第六駅(第6回)「門出」では、「自由と責任」を扱います。
講座は、受け取る場所であることを終えます。
「何が得られるか」を問う客の立場から、「何を引き受けるか」を問う側へ。
うまくいった形を、正解として残そうとした途端に、場は固まり始めます。
形を守ることが目的に変わり、生命力は失われていきます。
未完成のままでいることも、誠実さの一つなのかもしれません。
意思決定の基準も変わります。
損得や効率ではなく、その決断が生命としての美しさと響き合っているか。
教える者になるのではなく、自分の現場で最初の一滴を落とし続ける。
その背中が、次の源を呼び覚まします。
立つ場所を、何度でも砂場にすること。
この回は、自由と責任が一つになる場所を観ていく時間です。
第一停車駅「見方」
夕暮れの空で、ムクドリが巨大なうねりを描く。
群れに指揮者はおらず、それにもかかわらず全体は絶えず動いている。
第一駅(第1回)「見方」では、「分かる」ということを扱います。
私たちは普段、物事を「分かる」ものとして扱っています。
第1回は、その「分かりたい」という欲求そのものを「病」と見立てて考えます。
分かるとは、掴むこと。予測できるものに変えて、自分の側に所有すること。その見方をしている限り、見えてこない秩序があります。
秩序は、誰かが作るものではなく、応答の中で起きてくるものではないか。
この回は、その「秩序の正体」を追います。
知ることは、いつの間にか溜め込むことと重なっていく。
情報を囲い込む「ダム」から、通り抜けていく「メディア」へ。自分の「分かり方」がどう組み上がっているのかを観ていく時間です。

第二停車駅「境目」
朝靄の湖の駅。
水はホームの足元まで満ちていて、列車の影が水面に揺れている。
陸と水の境は、どこにあるのか分かりません。
第二駅(第2回)「境目」では、「境目」ということを扱います。
細胞は、膜で仕切られています。
膜は壁ではなく、通すものと通さないものを、その都度選択し続けている境目です。
人にも、同じ膜があります。
社会の期待は、浸透圧のように外から流れ込んできて、境目が薄い場所では、破裂しそうになったり、萎縮したりします。
内側からは、モヤモヤが湧いてきます。
モヤモヤは不具合ではなく、自分のOSと、いま動いているアプリとの不整合からの知らせであり、更新の始まる合図と考える事ができます。
この回は、その境目を観ていく時間です。
立つ場所そのものが、動き始めます。

第三停車駅「あいだ」
坂の町と、森のあいだの駅。
片側には煤けた家並みが積み重なり、片側には獣の通る細道が続いている。
第三駅(第3回)「あいだ」では、「関係性」を扱います。
誰かが正解を持っている場では、正解を持たない人の探索は止まります。
答えを出すことは助けに見えて、場の動きを殺してしまうことがあるのではないでしょうか。
合わないことは、欠陥ではありません。
音が響き合うのは、境目があるからです。
ズレたまま、バラバラなままでも、一つの動きが生まれることがあります。
アリの群れには、全体を指示する者がいません。
一匹一匹が、地面に残された痕跡に応答しているだけです。
その応答の積み重ねが、道を作ります。
この回は、違いを消すのではなく、違いのある場で何が起きるのかを観ていく時間です。

第四停車駅「源」
森の奥の泉の駅。
一滴が落ちて、波紋が広がっていく。
木々の間から、光が一筋差し込んでいます。
第四駅(第4回)「源」では、「源泉」を扱います。
場は、誰かが最初の一滴を落とすところからしか始まりません。
その一滴を落とした者には、静かな責任が生まれます。
場を支配する責任ではなく、始めてしまったことへの責任です。
意味は、自分で探し当てるものではありません。
人生の側から問いが届いていて、こちらは応答する側にいます。
沈黙も、その応答の一つです。
言葉で埋めない空白が、新しい秩序を呼び込みます。
粘菌は、個と個の膜を溶かして、全体で感じ取っていきます。
足りないときは、あるもので工面をする。その工面にも、誠実さが現れます。
この回は、自分の源に触れ、そこからどう応答するのかを観ていく時間です。

第五停車駅「現場」
夕景の町の縁の駅。
線路と川が、同じ曲線を描いて町の外へ流れていく。
第五駅(第5回)「現場」では、「現実」を扱います。
講座の中で起きていることは、日常の現場で起きていることの縮図です。
「分からない」への恐れ、沈黙、膠着は、職場でも家庭でも同じ形で現れます。相似形です。
自分が無意識に繰り返している支配のパターンも、そこで姿を現します。
正解を出す側に回ること。不安を隠すために、完全な計画を押し付けること。
置いていくのは、完璧な解決策ではありません。
違和感や問いという痕跡を置き、自分の欠乏を晒して隙間を作り、異質な言葉を呪文のように投げ込むことです。
「準備が整ったら動こう」は、管理OSの罠かもしれません。
この回は、学んできたことを現実の中に置いていく時間です。

第六停車駅「門出」
夜明けの終着駅。
線路は車止めで終わり、その先には小さな道が続いています。
第六駅(第6回)「門出」では、「自由と責任」を扱います。
講座は、受け取る場所であることを終えます。
「何が得られるか」を問う客の立場から、「何を引き受けるか」を問う側へ。
うまくいった形を、正解として残そうとした途端に、場は固まり始めます。
形を守ることが目的に変わり、生命力は失われていきます。
未完成のままでいることも、誠実さの一つなのかもしれません。
意思決定の基準も変わります。
損得や効率ではなく、その決断が生命としての美しさと響き合っているか。
教える者になるのではなく、自分の現場で最初の一滴を落とし続ける。
その背中が、次の源を呼び覚まします。
立つ場所を、何度でも砂場にすること。
この回は、自由と責任が一つになる場所を観ていく時間です。




