経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

第一停車駅「見方」

夕暮れの空で、ムクドリが巨大なうねりを描く。
群れに指揮者はおらず、それにもかかわらず全体は絶えず動いている。
第一駅(第1回)「見方」では、「分かる」ということを扱います。

私たちは普段、物事を「分かる」ものとして扱っています。
第1回は、その「分かりたい」という欲求そのものを「病」と見立てて考えます。
分かるとは、掴むこと。予測できるものに変えて、自分の側に所有すること。その見方をしている限り、見えてこない秩序があります。

秩序は、誰かが作るものではなく、応答の中で起きてくるものではないか。
この回は、「秩序の正体」を追います。

知ることは、いつの間にか溜め込むことと重なっていく。
情報を囲い込む「ダム」から、通り抜けていく「メディア」へ。自分の「分かり方」がどう組み上がっているのかを観ていく時間です。

第二停車駅「境目」

朝靄の湖の駅。
水はホームの足元まで満ちていて、列車の影が水面に揺れている。
陸と水の境は、どこにあるのか分かりません。
第二駅(第2回)「境目」では、「境目」ということを扱います。

細胞は、膜で仕切られています。
膜は壁ではなく、通すものと通さないものを、その都度選択し続けている境目です。

人にも、同じ膜があります。
社会の期待は、浸透圧のように外から流れ込んできて、境目が薄い場所では、破裂しそうになったり、萎縮したりします。

内側からは、モヤモヤが湧いてきます。
モヤモヤは不具合ではなく、自分のOSと、いま動いているアプリとの不整合からの知らせであり、更新の始まる合図と考える事ができます。

この回は、その境目を観ていく時間です。
立つ場所そのものが、動き始めます。

第三停車駅「あいだ」

坂の町と、森のあいだの駅。
片側には煤けた家並みが積み重なり、片側には獣の通る細道が続いている。
第三駅(第3回)「あいだ」では、「関係性」を扱います。

誰かが正解を持っている場では、正解を持たない人の探索は止まります。
答えを出すことは助けに見えて、場の動きを殺してしまうことがあるのではないでしょうか。

合わないことは、欠陥ではありません。
音が響き合うのは、境目があるからです。
ズレたまま、バラバラなままでも、一つの動きが生まれることがあります。

アリの群れには、全体を指示する者がいません。
一匹一匹が、地面に残された痕跡に応答しているだけです。
その応答の積み重ねが、道を作ります。

この回は、違いを消すのではなく、違いのある場で何が起きるのかを観ていく時間です。

第四停車駅「源」

森の奥の泉の駅。
一滴が落ちて、波紋が広がっていく。
木々の間から、光が一筋差し込んでいます。
第四駅(第4回)「源」では、「源泉」を扱います。

場は、誰かが最初の一滴を落とすところからしか始まりません。
その一滴を落とした者には、静かな責任が生まれます。
場を支配する責任ではなく、始めてしまったことへの責任です。

意味は、自分で探し当てるものではありません。
人生の側から問いが届いていて、こちらは応答する側にいます。

沈黙も、その応答の一つです。
言葉で埋めない空白が、新しい秩序を呼び込みます。
粘菌は、個と個の膜を溶かして、全体で感じ取っていきます。
足りないときは、あるもので工面をする。その工面にも、誠実さが現れます。

この回は、自分の源に触れ、そこからどう応答するのかを観ていく時間です。

第五停車駅「現場」

夕景の町の縁の駅。
線路と川が、同じ曲線を描いて町の外へ流れていく。
第五駅(第5回)「現場」では、「現実」を扱います。

講座の中で起きていることは、日常の現場で起きていることの縮図です。
「分からない」への恐れ、沈黙、膠着は、職場でも家庭でも同じ形で現れます。相似形です。

自分が無意識に繰り返している支配のパターンも、そこで姿を現します。
正解を出す側に回ること。不安を隠すために、完全な計画を押し付けること。

置いていくのは、完璧な解決策ではありません。
違和感や問いという痕跡を置き、自分の欠乏を晒して隙間を作り、異質な言葉を呪文のように投げ込むことです。

「準備が整ったら動こう」は、管理OSの罠かもしれません。
この回は、学んできたことを現実の中に置いていく時間です。

第六停車駅「門出」

夜明けの終着駅。
線路は車止めで終わり、その先には小さな道が続いています。
第六駅(第6回)「門出」では、「自由と責任」を扱います。

講座は、受け取る場所であることを終えます。
「何が得られるか」を問う客の立場から、「何を引き受けるか」を問う側へ。

うまくいった形を、正解として残そうとした途端に、場は固まり始めます。
形を守ることが目的に変わり、生命力は失われていきます。
未完成のままでいることも、誠実さの一つなのかもしれません。

意思決定の基準も変わります。
損得や効率ではなく、その決断が生命としての美しさと響き合っているか。

教える者になるのではなく、自分の現場で最初の一滴を落とし続ける。
その背中が、次の源を呼び覚まします。

立つ場所を、何度でも砂場にすること。
この回は、自由と責任が一つになる場所を観ていく時間です。

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