”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 Re-selection 》

― 手放せなかった地図とコンパス -

プロローグ:

最初のきっかけは、やりたいことを見つけたわけでも、未来に夢を描いたわけでもなかった。
ただ、そこに「やりたくないもの」があった。

それからの時間は、地図のない街を彷徨うような日々だった。
ときに誰かの声に針が振れ、ときに風の流れに歩調を合わせ、
気づけば、手にしていたはずの地図も、頼りにしていたコンパスも、どこかへと消えていた。

それでも歩みは止まらず、今、ふと振り返ってみる。
あのときの一歩は、本当に「逃げ」だったのか?
そんな問いと共に、この旅の記録を開いてみようと思う。

※このコラムは実体験をベースにしつつも、フィクションや脚色を含んでいます。

Vol.0|名前のない街

最初の一歩は、ただ“触りたくなかった”からだった。
あれが人生の岐路だったなんて、大げさに言うつもりはない。
けれど確かに、あの日の自分は、何かから逃げようとしていた。

場所は駅前のビルの一室だったと思う。
フロアの看板には会社名も業種も何も書かれていなかった。

中に入ると、コーヒーの匂いと忙しく議論を交わす声、
白いボードに描かれた◯と△と矢印、聞いた事のない言葉がところ狭しと書かれていた。
見覚えのない構図だったが、なぜか懐かしさを感じたのを覚えている。

「これから、時代が変わっていくんです」
誰かがそう言った。
その語尾に熱があったのか、空気に熱があったのか、自分でもわからなかった。

僕はうなずく素振りを見せながら、心の奥では別のことを考えていた。

──寄りによって、なんでこんな事しなきゃならないんだ…
──いや、巻き込まれなくて済む方法があるはずだ。
──それを見つけて、さっさと一抜けしよう。

そのつもりだった。
だから、その夜に持ち帰った大量の資料を、誰よりも丁寧に読み込んだ。
あの時間が、地図の始まりだったのかもしれない。

あの街に、名前はなかった。
誰も企画名を口にしない。
誰も今を記録しない。

でもそこでは、人が連日、自分の“夢”を売り買い、取引していた。
わたしもまた、その一人になろうとしていた…

Vol.1|針の向くほうへ

「信じてますよね?」
咄嗟に、うなずいた。
正直に言えば、まだ確信はなかった。
ただその場では、信じているフリをしている方が、いろんなことが円滑だった。

直属の上司は、明るくて無邪気な人だった。
数字も資料も、説明された通りに受け入れる。
「根拠は?」と問いたくなることでも、素直に信じる。

「なんでそんなに疑わないんですか」と聞いたことがある。
彼は笑って、「だって、みんな一生懸命でしょ」と返してきた。
その返しに、モヤモヤした。
でも、彼のやり方が結果を出していたのも事実だった。

合わないとは思ってはいたが、間違っているとも言えなかった。

そんな時、他の部署にいる先輩社員と知り合った。
言葉数は少なく、表情も静か。
でも、話す内容にはいつも具体と手触りがあった。
彼と話すたびに、自分が無意識に飛び越えていたものに気づかされる感覚があった。

気がつくと、その人の考え方や仕事の進め方に惹かれていた。

チームが振り分けられ、自身がチーム長になった。
年下のチームメンバーが頼ってくれるようになった。
「自分にできることがあるんだ」と、初めて思えた。

やっていたことは、企画を練るとか、新しい文化を広めるとか、
いうなればマーケティングに近い仕事だった。
「相手の心にちゃんと届く言葉は何か?」を考える事がことのほか面白かった。

しばらくして成果が出始めた。
自分の名前が、少しずつ社内で知られるようになった。
そのことが、思っていた以上に気恥ずかしかった。

最初は半信半疑だった。
「すごいですね」と言われても、なんとなく照れくさくて曖昧な態度を取っていた。

ところが、“この企画、ホンモノかもしれない”という気持ちが、
自分の中で次第に膨らんでいった。

事業は伸びていった。
世の中の潮流にも乗っていた。
「今、本腰を入れないと、大きな機会を逃すかもしれない」という空気が、
連日どこかで流れていた。

あの頃の僕は、意思というよりも、空気の流れに針が傾くコンパスのようだった。
でも、それでよかった。
その方向には、たしかに“正解”のようなものが漂っていたから。

Vol.2|伝わらない熱

この事業は、面白い。
やればやるほど見えてくるものがあり、深みにも達しがいがある。

最初は“やりたくなかった”はずの自分が、
今では人一倍の熱を持って取り組んでいる。
そんな自分の姿を見れば、きっと周囲も同じように思うだろう。
この企画の奥行きに気づき、面白さに気づき、夢中になっていくだろう。

そう思っていた。

ところが、そうはならなかった。
部下たちは、表面上では頷きながらも、どこか冷めた目をしていた。
同僚は、決められた数字を追うことだけに終始し、それ以上を語ることはなかった。

わたしが熱を込めて話すほど、彼らの表情は遠くなっていった。

「どうして分かってくれないんだろう」
「何が響いていないんだろう」
「伝え方が悪いのか? タイミングか? それとも……興味がない?」

焦燥感ばかりが募った。

わたしは彼らに苛立ちを覚えるようになっていった。
これだけ面白いものに、どうして熱くなれないのか。
見えていないのか。見ようとしていないのか。

そんなふうに思ううちに、彼らの“鈍さ”を軽蔑するようになっていた。

同時に、チームの関係性が徐々に変化していくのを感じていた。
一緒にスタートを切った仲間との距離が、少しずつ開いていく。
でもわたしは、それを“彼らにビジネスセンスがないせい”だと結論づけた。
そうすることで、自分の中に浮かんでいた違和感を、深く掘り下げずに済ませていた。

振り返れば、あの頃の自分は、“内側”に潜るのを避けていたのかもしれない。
何かが噛み合っていないことに気づいていながら、
それを直視せず、他者の問題として片づけていた。

でもそれは、きっとどこかでわかっていた。
──原因は自分の中にある。
ただ、それを認めるには、あまりにも勢いがつきすぎていた。

Vol.3|足ることを知る人

ある日、わたしはひとつの支社を任されることになった。
任されるということは、信頼されたということだ。
そう思った瞬間、また少しだけ針が前に進む音がした。

日々の業務に加えて、チームのマネジメントも加わった。
この事業がどれだけ面白くて、可能性に満ちていて、未来に繋がるものか──
それをどうにかして伝えたくて、資料を作り直したり、話し方を工夫したり、何度も試した。

どれも、うまくいかなかった。

焦りが募っていた頃、他の支社の支社長と出会った。
噂ではその支社も好調だと聞いていたが、本人の雰囲気はまるで違った。
競争心がないわけではない。
けれど、“これ以上を望まない”という穏やかな重さを纏っていた。

「望んでる売り上げは達成してるんで、それ以上はいらんのですよ。」
彼はそう言って、ほほえんだ。

ブレがなかった。
そして、“満ちている”という状態が、こんなにも凛としているものかと驚いた。

支社長とは、たまたま自宅が近かったこともあり、週末に会うことが増えた。
スポーツ観戦に行き、コーヒーを飲み、たわいもない話をした。
彼はいつもジーンズにGジャン姿で、最初はそのカジュアルさに驚いた。

ある日、そのGジャンは中学2年のときに姉に買ってもらったものだと聞いた。
もう40年以上、修理を重ねながら着続けているらしい。
ジーンズも高校時代からのもので、色褪せ、膝が擦れていた。

「僕にとっては、ビンテージとかじゃなくて、中学生から着ていた、ただの“服”なんです。
着てたら、勝手にビンテージになっていくんです。」

彼はそう言った。
“捨てなかった”というより、“捨てる理由がなかった”ような顔だった。

何度も繕われたその服が、僕にはとても凛々しく見えた。
それは強さではなく、確かさだった。

ある晩、酔った勢いで僕は彼に問いかけた。

「どうしてもっと上を目指さないんですか?」
「もっと売り上げ伸ばせるじゃないですか?」
「あなたには、欲がないんですか?」

彼は少しだけ間をおいて言った。
「僕だって欲はありますよ。ただ、もう全部、満たされてるんです。これ以上は持ちきらんのですよ。」

その瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。

ああ、そうか。
この人は、“まだ足りない”と思っていない。

あの日、売り上げが一気に10倍になったときのことを思い出した。
高揚と、混乱と、そしてその直後に訪れた空虚。

「じゃあ、これから何を目指せばいい?」
「この売り上げを、何年維持すればいい?」

真っ暗な問いが胸をよぎった、あの夜の感覚がよみがえった。
そして、思った。
また同じことを繰り返そうとしていたのかもしれない。

Vol.4|消えること、壊れること

このままでは、きっと自分はおかしくなってしまう──
そんな思いが頭をよぎるようになったのは、支社長との会話のあとなのか、
それより前からだったのか、よく思い出せない。
ただ、確かに、自分の中で何かが崩れかけていた。

会社を辞めようと何度も思った。
けれど、そのたびに目の前にちらつく数字や評価、成功の残り香が、
最後の一歩を踏み出すのを引き止めた。
そうしているうちに、
気づけば──2年が過ぎていた。

ある日、ふとした瞬間に、奇妙な感覚がよぎった。
自分は、自分の身の回りにあるものを、すべて“所有している”と、
無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。

親も、ペットも、仕事も、住んでいる家も、
そして──最愛の人も。

何も言わずに離れていくこと。
壊れていくこと。
目の前から消えていくこと。

それが、無性に怖かった。

思い返すと、その感覚の正体に気づいたのは、
最愛の人が亡くなったときだった。

彼女がいなくなった朝、最初に思ったことは、
「僕の前から消えた」という言葉だった。

“死んだ”のではなく、“いなくなった”という感覚。
なんの了解もなく、黙って、勝手に、いなくなった。

そのとき、自分の中にある執着のかたちを知った気がした。
「いなくなるなら、僕の許可を取ってからにしてほしい。」
そんなふうに思ってしまった自分に、愕然とした。

どこかで、すべてをコントロールできるものだと思い込んでいたのかもしれない。
人生も、他人も、未来も。

でも、何もかもが、“勝手に”動く。
自分の知らないところで変わり、そして、いなくなる。

それを“当たり前”として受け入れることが、できていなかった。

ようやく、僕は会社を辞める決断をした。
ただ、「辞めたあとに何をするか」は、まったく見えていなかった。

自分のやりたいことを探そう。
そう思った。
でも、何も出てこなかった。

焦った。
探しても探しても、“これだ”というものは見つからなかった。
何がしたいのか、何が好きなのか、わからなかった。

ただ、毎日悩んで、迷って、足踏みするような日々が続いた。

針は静かに止まり、
地図も、コンパスも、手からこぼれ落ちた。

ここから先に進むには、
今までのやり方とはまったく違う“何か”を、探さなければならなかった。

Vol.5|選んでいるということ

何がしたいのかわからないまま、七年が過ぎた。
“やりたいことを探す”という行為そのものが、
気づかないうちに、自分の中の執着になっていたのかもしれない。

「まだ見つかっていない」
「きっと、どこかにあるはずだ」

そう思い続けたことで、
“いま”という時間から、いつも少しだけズレて生きていた。

ある夜、ふと目が覚めた。
時計を見ても、目盛りはもう記憶に残っていない。
ただ、街は静まり返り、部屋の中に自分の呼吸だけがあった。

そのとき、頭の中で誰かが囁いたような気がした。
「今この瞬間、やりたいことしてるでしょ?」

……なんだろう、この声は。
意味がわからないのに、不思議と体のどこかにしっくりと収まった。

思い返してみる。
ご飯を食べたいと思ったときに、食べている。
歯を磨こうと思ったときに、磨いている。
電車に乗るために、歩くことを選んでいる。

それらは誰かに強制されたものではない。
自分で“やろう”と思って、自然に選んできた行為だった。

大層なものではないけれど、
確かにそれは、自分が選んでいた“やりたいこと”だった。

わたしはずっと、やりたいこととはもっと特別で、
大きくて、華やかで、誇れるものだと思っていた。

誰かを驚かせるようなこと。
人生を変えるようなこと。
何かを成し遂げるようなこと。

でも、どれだけ探しても見つからなかった“それ”は、
日々の静かな選択の中に、ずっとあったのかもしれない。

意識せずに選んでいた小さな行為のひとつひとつが、
自分の“やりたいこと”だったのだと、ようやく気づいた。

その気づきが訪れた夜中の三時、
わたしは、数年ぶりに、自然と笑った。

肩の力がふっと抜けるような、
「なんだ、そうだったのか」という笑みだった。

そしてそのまま、
数年ぶりに深い眠りについた。

Vol.6|地図のない場所へ

目が覚めたあの夜から、少し時間が経った。
何かが劇的に変わったわけではない。

世界は相変わらず、誰かを目指し、何かと比べ、今日の続きを生きている。

ただ、自分の中では、
何かが、静かにほどけていた。

あるとき、かつての仕事のことをふと思い出した。
支社長まで登り詰めたあの事業。

最初はやりたくなくて、逃げ道を探すために調べた。
でも、いつの間にか誰よりも詳しくなって、
どうすれば伝わるかを毎日考えていた。

頂上が見えなくても、必死で登っていた日々。
あの時間は──今思えば、非常に有意義だった。

やりたくて始めたわけじゃなかった。
でも、本気になっていた。

その熱は確かに、自分の中にあった。

それに気づいたとき、
過去の出来事がすこし違って見えた。

罪悪感でも、後悔でもない。

ただ、「あれも、自分だったな」と思えるような、
静かな肯定だった。

昔、誰かにもらった地図を信じて歩いていた。
正しさも、成功も、そこに書かれていた。

でも、いま手の中にある地図は、
誰にも見せたことがない、自分の心の奥にだけあるものだ。

コンパスも変わった。
もう、外側の磁力には動かない。
今はただ、静かに、自分の内側を指している。

歩きながら、描きながら、迷いながら。
この地図と、このコンパスで、
わたしはまた、歩いていく。

あとがき

この物語に、結論はない。
誰かの役に立つ話ではないかもしれないし、
何かを証明するものでもない。

ただ、自分のなかで長く手放せなかったひとつの時間を、
もう一度、別の視点で見てみたくなった。

書くことで、許したかったのかもしれない。
書くことで、受け入れたかったのかもしれない。

それが本当にできたのかは、まだわからない。

でも、いまならこう言える気がする。
「あの時の自分も、ちゃんと生きていた」と。

そしてもう一つ…
やりたいことを探し続けるのをやめて、
いま選んでいることに目を向けてみる。

それだけで、世界の輪郭が少し変わって見えるかもしれない。

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