《 理念は語るが、足元は語らない 》
- 理念と動機の乖離 -
プロローグ:
理念は掲げやすい時代になった。
SNSに流れる無数の信条や、企業が打ち出すパーパス。
それらは存在を示す旗のようであり、社会的評価を得るための装置にも見える。
言葉と行動がずれていくとき、理念は静かに形だけのものになる。
本来、理念は行動を飾る看板ではなく、動機や在り方から自然に滲み出る性質をもつ。
理念と動機の乖離は、誰にでも起こる現象だ。
そこには、構造としての“断絶”があるのかもしれない。
このコラムは、その断絶を見つめ、理念と動機をどのように繋ぎ直すことができるのかを探る試みである。
Vol.0|理念はどこから生まれるのか
私たちは「理念」という言葉をよく使う。
企業であればビジョンやパーパス、個人であれば信条や価値観。
それは未来を描く羅針盤であり、人や組織を動かす旗印だ。
だが、理念は本当に「言葉」から始まるのだろうか。
言葉にする前に、それを支える「動機」や「在り方(Being)」が存在しているはずだ。
理念と動機が一致していれば、それは“いのちのある言葉”として伝わる。
しかし理念が動機から切り離されるとき、言葉は形骸化し、行動との乖離が生まれてしまう。
このコラムでは、その「理念と動機の乖離」がなぜ起きるのか、
そしてどうすれば理念が再び“生きた言葉”として息づくのかを探っていく。
では、なぜこの乖離が広がっているのか。
次に、その構造を見ていきたい。
Vol.1|言葉と行動のすれ違い
— 表出の逆転が生む見えない乖離 -
SNSが生活に溶け込んだことで、誰もが理念や想いを語れるようになった。
企業のビジョン、個人の信念、社会活動の動機──それら“言葉”は、存在証明であり、社会的評価の手段でもある。
だが、発言と行動は、常に一致しているわけではない。
むしろ発言は「意図されたイメージ」や「理想自己」の表出であり、行動は「無意識の前提」や「根底の在り方」の反映だ。
■ 本来の構造:BeingからDoingへ
本来、在り方(Being)が行動を導き、行動(Doing)が言葉や理念を裏づける。
つまり「どう生きているか」が先にあり、その積み重ねの上に、言葉が意味を持ち始める。
■ 現代における“逆転の兆候”
とはいえ、現代においてはこの構造が逆転しているように見えるケースが増えている。
- 本来:Being → Doing(在り方が行動を導く)
- 現代:Doing → Being(のように見せる)(演出されたDoingが本質に見える)
発言が“理想自己”の演出に傾き、意図的なイメージづくり(Doing)が先行し、行動や在り方(Being)との接続が曖昧になる──そんな現象が、特にSNSなどパブリックな場面で散見されるようになった。
■ 見えない乖離
「言っていること=その人の本質」と信じるとき、私たちは無意識にこの逆転を真実として受け取ってしまう。
そこから、理念と動機との間に見えない乖離が広がっていく。
Vol.2|正義はどこから生まれるのか
— 承認経済とルサンチマンの影 -
■ 承認が理念を加速させる
SNSの普及によって、理念を語ることはかつてないほど容易になった。
「社会を良くしたい」「多様性を尊重したい」──そうした言葉は瞬く間に拡散され、共感とともに“いいね”という数値化された評価を伴う。
理念は、かつて内面を整えるためのものだった。
だが今やそれは、外部からの承認を獲得する手段として機能している。
理念は「生きる指針」である以上に、「評価される商品」となった。
■ 企業のCSRメッセージと現場の乖離
ある企業が「環境配慮」を掲げて大規模な広告キャンペーンを打った。
しかし実際の現場では、過剰包装や廃棄ロスが依然として多く、社員の多くもその理念に共感していない。
理念は「社会的イメージ」を守るための演出となり、行動との乖離がむしろ不信感を生んでしまった。
■ リベラルな言説の裏側
現代の言論空間では、多様性や包摂、共生、対話といったリベラルな価値が頻繁に語られる。
これらは一見すると普遍的で望ましい理念だ。
しかし、その言説の背後には「かつて守られなかった自分」「否定され続けた経験」「理解されなかった痛み」といった未処理の感情が潜んでいることも少なくない。
理念は理想を示すように見えて、実は過去の痛みの反転として語られている。
そこには「ルサンチマン的動機」が横たわっている。
■ 正義が武器に変わるとき
ルサンチマンとは、抑圧や不遇から生まれる怨恨が、道徳や正義に形を変えて表出する現象だ。
その動機が理念を支えるとき、言葉は鋭利さを増し、しばしば他者を断罪する武器となる。
「多様性を認めよう」という言葉の裏に、「かつて否定された自分の痛み」がある。
「共感を大事にしよう」という発言の奥に、「聞いてもらえなかった怒り」がある。
それ自体は人間的で自然なことだ。
だが、その痛みが理念を覆い尽くすと、理念は「他者を救う言葉」から「他者を裁く言葉」へと変質していく。
■ 社会運動に潜むルサンチマン
また、ある社会運動では「対話と共生」をスローガンに掲げていた。
だが活動の実態は「敵対する相手を徹底的に排除する」方向に傾き、対話どころか分断を深めてしまった。
その背後には、かつて差別や抑圧を受けた痛みがあり、それを否定することはできない。
ただし、その痛みを消化しきれずに「正義」として表明するとき、理念は他者を糾弾する武器へと変わってしまう。
■ 身近な小さな例
もっと身近には、会社や地域の場で「オープンな議論を大事にしたい」と言いながら、実際には自分の意見を否定されることに耐えられず、相手を攻撃したり場を閉じてしまう。
こうした現象も同じ構造に含まれる。
■ 無自覚な“正義の演出”
承認経済とルサンチマン的動機が重なるとき、人は「正義を語る自分」に無自覚なまま酔いしれる。
理念は、自分を守る盾でありながら、同時に他者を攻撃する槍にもなりうる。
そして本人は、それを“善意”や“内省”だと信じて疑わない。
ここにこそ、理念と動機の乖離が最も深く潜む。
■ 問いを自分に返す
理念の源泉が痛みや怨恨であること自体は否定されるべきではない。
むしろそこにこそ、人間のリアルな動機がある。
問題は、それを自覚せずに「普遍的な正義」として外へ投げかけてしまうことだ。
だから必要なのは、理念を掲げるときに、「その正義はどこから生まれたのか?」と自分に返す問いだ。
理念は痛みからも、欲望からも、希望からも生まれる。
その源泉を無視したときにだけ、理念は“演出”に堕ちる。
Vol.3|問いを外に向ける内省
— 自負と盲点のパラドックス -
■ 内省を“装う”という甘美
現代は「内省」や「自己理解」という言葉が広く語られるようになった。
SNSやメディアでは「自分と向き合う」「自分を知る」といったフレーズが氾濫し、内省は知的で成熟した態度の象徴になっている。
そのため「私は内省的だ」と自負すること自体が、社会的な承認や知的優位の証として機能する。
だがここに盲点がある。
内省を“行っている自分”というイメージが強固になるほど、本当の意味での内省が進まなくなる。
■ 問いが自分に返ってこない
内省的な人ほど、自分に問いを向けているつもりで、実際には問いを「外」に向けてしまう。
- 「社会はなぜこうなっているのか」
- 「なぜあの人は理解できないのか」
- 「人はなぜ矛盾を抱えるのか」
どれも一見すると思索的な問いだ。だが、そこには「私は例外である」という前提が潜んでいる。
こうして問いは外界を分析する道具になり、自分を揺るがす契機にはならなくなる。
■ 具体例:経営者の会議での内省的ポーズ
ある経営者は「私は常に内省している」「理念に基づいて行動している」と語ることを習慣にしていた。
会議の冒頭でも、「自分を省みることが大事だ」と強調し、社員からの信頼を得ようとしていた。
しかし議論が進み、社員から経営方針の矛盾を指摘された途端、態度は一変する。
「その指摘は理解している、すでに考えてある」と話を遮り、次第に相手を“理解不足”と断じるようになった。
彼の言葉は「内省的なリーダー」というイメージを演出していたが、
実際の行動は、自分に返ってきた問いを受け止めきれず、外へ押し戻すものだった。
内省を「語ること」と「実際に受け止めること」の間には、大きな隔たりが存在していた。
■ 内省が“免罪符”になるとき
さらに厄介なのは、「私は考えているから大丈夫」という免罪符が生まれることだ。
- 他者からの指摘に対して「それはもう考えている」と遮断する。
- 矛盾を突かれたときに「揺れていることこそが人間的」と言い訳する。
- 行動が伴わなくても「気づいているから十分」と納得してしまう。
ここで内省は、自分を開く行為ではなく、自分を守るための鎧に変わる。
■ 自負と盲点のパラドックス
つまり「私は内省的だ」という自負が強い人ほど、自己修正が難しくなる。
自己修正には、本来「未熟さを認める柔らかさ」が不可欠だ。
だが自負は、その柔らかさを奪い、むしろ「揺らがない自分」をつくり出してしまう。
内省が深まるほど、自己防衛が強まる──そんな逆説がここにある。
■ 自分に返す問いの難しさ
ではどうすれば、このパラドックスを超えられるのか。
そのためには「問いが自分に返ってくる瞬間」を大切にするしかない。
- その理念は、私自身をも裁いているか?
- その言葉を語るとき、私は痛みや欲望から目を逸らしていないか?
- 内省という言葉を使って、自分を免罪していないか?
こうした問いは、耳が痛い。
だがその痛みに耐えることなしに、理念と動機を繋ぎ直すことはできない。
Vol.4|組織に宿らない理念
— 現場に滲む“乖離”の空気 -
■ 言葉と現場のねじれ
企業はしばしば立派な理念を掲げる。
「人を大切にする」「持続可能な社会に貢献する」「挑戦する文化を育てる」──そのどれもが正しく、美しい。
だが現場に目を向けると、その理念が“生きている”と感じられないことがある。
社員は疲弊し、形式的な会議が続き、日々の判断は短期的な利益に偏る。
掲げられた理念と、日常のふるまいの間には、目に見えない“ねじれ”が漂っている。
■ 具体例:CSRと社員の温度差
ある大手企業は「サステナビリティ」を企業理念の中心に据え、大規模なキャンペーンを展開した。
だが社員に聞くと「実際の現場では、利益優先で環境への配慮は二の次」「数字を追う圧力が強く、理念はポスターにしか存在していない」との声が多かった。
経営層が掲げた理念は外部に向けては評価されたが、内部ではむしろ“白々しさ”を生み出していた。
理念と行動が乖離するとき、組織全体に冷めた空気が流れ込む。
■ 具体例:挑戦文化と失敗の罰則
あるスタートアップは「挑戦を奨励する」という文化を打ち出していた。
しかし、実際には失敗した社員には厳しい処分が下され、同僚からの評価も下がる仕組みが残っていた。
その結果、社員は挑戦を避け、上司の顔色をうかがうことが常態化した。
理念と真逆の現実が、組織の深層に根を下ろしていたのである。
■ 社員は理念の“不在”を敏感に感じ取る
社員は理念の美しさよりも、日常のふるまいに現れる“本気度”を見ている。
- 「人を大切に」と言いながら、深夜残業を前提とする。
- 「挑戦を尊ぶ」と言いながら、失敗には厳罰を与える。
- 「環境配慮」と掲げながら、短期的利益に偏った判断を繰り返す。
こうした矛盾は、小さな違和感として蓄積され、やがて大きな不信に変わる。
社員にとっての理念は、語られるものではなく、体感されるものなのだ。
■ 具体例:理念を社員が“自分ごと化”したケース
一方で、理念と動機が結びついたときの力もある。
ある中堅メーカーでは「壊れにくさ」を理念に据えた。これは経営者が幼少期に「壊れやすい製品」に苦しんだ体験から生まれた言葉だった。
その背景を社員に語り続けることで、理念は単なるスローガンではなく「自分たちが誇れる行動指針」として受け止められた。
このとき、社員の振る舞いは自然と理念に沿っていった。
■ 乖離の根源は“動機”にある
なぜ理念が現場に宿らないのか。
それは、掲げられた理念が経営者自身の内発的な動機と繋がっていないからだ。
流行に合わせてつくられた理念や、外部のコンサルによって整えられた言葉は、美しいが血が通っていない。
そこには「本当に自分が信じていること」や「存在を支える動機」が欠けている。
だから社員も「経営者の理念」を自分のものとして受け取れない。
結果として理念は形骸化し、現場の動きと乖離していく。
■ “いのちのある企業”とは
理念が動機と結びつき、行動に反映されているとき、企業には独特の温度が宿る。
- 経営者の言葉と行動が一致している
- 理念が判断の軸として自然に共有されている
- 社員が「この言葉は本物だ」と感じられる
それは外向きのメッセージではなく、日常のふるまいを通じて伝わる。
つまり“いのちのある企業”とは、理念が動機から立ち上がり、行動に滲み出る企業のことだ。
■ 立ち返るべき問い
組織を率いる立場の人にとって必要なのは、次の問いだ。
- この理念は、私自身のどんな動機とつながっているのか?
- その動機は、言葉だけでなく行動に現れているか?
- 社員や顧客は、この理念を“本物”として感じているか?
理念と行動の乖離は、避けられない瞬間もある。
だがそれを繋ぎ直そうとする姿勢こそが、企業にいのちを吹き込む。
Vol.5|理念を生き直す
— 動機と結び直すための実践 -
■ 理念は言葉だけでは立ち上がらない
これまで見てきたように、理念が行動と乖離するのは珍しくない。
- 社会的な承認を得るために演出化された理念
- 過去の痛みや怨恨から生まれた理念
- 現場の実態とねじれてしまった企業の理念
いずれも、理念そのものが問題なのではない。
理念が「動機」と繋がっていないことこそが問題なのだ。
■ 動機に立ち返ることの難しさ
では、どうすれば動機に立ち返れるのか。
それは決して容易ではない。動機は多くの場合、欲望や痛み、恥や怒りといった扱いづらい感情に根ざしているからだ。
たとえば「壊れにくい製品をつくりたい」という理念の背後に、幼少期に壊れやすいものに悩まされた経験があるかもしれない。
「誰も取り残さない社会を」と語る理念の背後に、自分が孤立していた痛みがあるかもしれない。
動機を直視することは、自分の弱さや脆さを認めることでもある。
だから多くの人は、理念を“正しい言葉”に変換することで、その難しさを回避しようとする。
■ 具体例:動機に触れ直した経営者
ある経営者は「グローバルに成長する企業」を理念に掲げていた。
だが社員はその言葉に共感できず、組織は疲弊していった。
転機になったのは、経営者が自らの過去を語ったときだった。
「幼少期、海外に渡ったとき、言葉が通じず孤独だった。だから、自分は“つながりを感じられる場”を作りたいと思った」
その体験から理念を言い直したとき、社員の表情は変わった。
それは大義名分ではなく、動機に根ざした“生きた言葉”だったからだ。
■ 実践のステップ
理念を生き直すためにできることは、派手な戦略ではなく、小さな内省の積み重ねだ。
- 動機を探る問いを立てる
- この理念は、どんな欲望や痛みから生まれたのか?
- それは自分の存在をどう支えてきたのか?
- 言葉を再び自分に返す
- 社会に投げかける前に、「この言葉は自分に突き刺さるか?」を確認する。
- 社会に投げかける前に、「この言葉は自分に突き刺さるか?」を確認する。
- 行動の小さな一致を重ねる
- 理念を体現する大きなアクションよりも、日々の小さな選択に理念を反映させる。
- 従業員や顧客が「この理念は行動に出ている」と感じる瞬間を増やす。
■ 実践のステップ
理念を生き直すためにできることは、派手な戦略ではなく、小さな内省の積み重ねだ。
1.動機を探る問いを立てる
- この理念は、どんな欲望や痛みから生まれたのか?
- それは自分の存在をどう支えてきたのか?
2.言葉を再び自分に返す
- 社会に投げかける前に、「この言葉は自分に突き刺さるか?」を確認する。
3.行動の小さな一致を重ねる
- 理念を体現する大きなアクションよりも、日々の小さな選択に理念を反映させる。
- 従業員や顧客が「この理念は行動に出ている」と感じる瞬間を増やす。
■ “生きた理念”とは
理念は完成品ではなく、常に動機と結び直されるプロセスだ。
外に向けて正しく語ることよりも、内側の動機と折り合いをつけること。
そこからにじみ出た言葉と行動こそが、周囲に伝わる力を持つ。
“生きた理念”とは、外の評価ではなく、自分の存在から立ち上がる言葉である。
Vol.6|理念の行方
— 未来へつなぐ小さな営み -
■ 理念は終わらない問いである
理念は一度掲げて終わりではない。
むしろ「なぜこれを掲げるのか」「その背後にある動機は何か」と問い直し続ける限りにおいて、生き続ける。
言葉と行動の乖離は、完全に消えることはない。
人も組織も揺らぎながら生きている以上、理念は常に現実との摩擦を抱える。
だからこそ理念は、完成品ではなく、未完の問いとして受け継がれていくものだ。
■ 具体例:理念を引き継ぐ瞬間
ある老舗企業の二代目は、先代が掲げた「誠実」という理念をどう扱うべきか悩んでいた。
表向きには守ろうとしていたが、実際には社員から「形骸化している」との声が多かった。
転機は、先代が「誠実」という言葉を掲げた背景を知ったときに訪れた。
それは戦後の混乱期、生活に必要な商品を不当に高値で売る業者が多い中で、
「正直に商いをしたい」という切実な願いから生まれた理念だった。
理念の背後にある“動機”に触れ直したとき、二代目は「誠実」を自分の言葉に言い直すことができた。
それは理念を守るのではなく、理念を生き直すことだった。
■ 理念は未来の土壌になる
理念は、次世代にとっての“制約”にも“資源”にもなる。
過去の理念をただ守ろうとすれば枷になる。
しかし、その背後にある動機を受け止め、言い直すことで、新しい土壌になる。
つまり理念は「引き継ぐもの」ではなく、未来の問い直しに開かれた素材なのだ。
■ 私たちに残された問い
では、私たちは理念をどう扱っていけばいいのか。
- 理念を演出や装飾にしていないか?
- 理念を武器や免罪符にしていないか?
- 理念を自分の動機と結び直す努力を怠っていないか?
これらの問いに明確な答えを出す必要はない。
ただ、この問いを持ち続けること自体が、理念を“生きたもの”として未来へつなぐ営みになる。
■ 終わりに
理念と動機の乖離をどう繋ぎ直すか──
このシリーズで見てきたことは、結局のところ一人ひとりの内側の営みに帰着する。
理念は語るものではなく、生きるもの。
そしてその営みは、声高な宣言ではなく、日々の小さな選択に宿る。
未来を形づくるのは、その小さな積み重ねだ。
私たちが理念を生き直すたびに、組織や社会に少しずつ“いのち”が芽吹いていく。



