”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 選択の地形 》

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プロローグ:

誰もが、何かを選びながら生きている。
だが、その選択は、本当に自由だったのか?

組織で、家庭で、人生で―
私たちは「選ぶこと」から逃れられない。

選ばされる者、選ぶ者、そして、選び直す者たちへ。

《選択の地形》
それは、問いと物語がすれ違う、名もなき軌跡。

Vol.0|都市ジャングルを生きる

— 「狩人は、同時に獲物でもある -

都市に暮らしていると、すべてが整っているように感じる。
システムも、道路も、経営理論も、スーツの襟元さえも。

でも私は、いつもこう思っている。
「都市の中を、ジャングルのように生きる」ことが大切だと。

ビルの谷間を抜ける風のように、人も情報も欲望も予測不能に交差し、何が起こるかわからない。それが「都市という現場」のリアルだ。

経営もまた、同じである。

特に順調に波に乗っているときこそ、私は「これは追い風か、それとも嵐の前触れか?」と問い返す。

気づけば周囲に人が集まり、物事がスムーズに進み、資金も流れてくる——それは確かに良い兆候かもしれない。

でも、そんなときこそ、「狩人は、同時に獲物でもある」という言葉を思い出す。

これは、私が独立して間もない頃に出会ったある人物の言葉だ。

当時の私は理想ばかりを追いかけ、地に足がついていなかった。今振り返れば、選択に“責任を持つ”という感覚が抜け落ちていたのだと思う。

経営者の仕事とは、選び続けること。

だが、選ぶという行為は、意思だけで完結するものではない。

「自分が何を選ばなかったか」

「その選択が、どんな世界を引き寄せるか」

そうした“構造のリアリティ”と向き合う覚悟が必要だ。

都市ジャングルを生き抜く狩人は、状況を読む。空気を嗅ぎ、静かに耳をすまし、次の一手を計る。

けれどその一手が、時には自分自身を狙うブーメランになることもある。

だからこそ、選択には“十全な想定”が求められる。

成功に酔いそうな時ほど、選んだ道の陰影を見つめる。

行動の背後にある“自負心”や“盲点”を内省する。

それは恐れることではない。

むしろ、選択に責任を持つことこそが、「自分」という存在をこの世界に刻む最大の証になる。

都市の中で、ジャングルのように生きる。

自らの意思で選び、かつ選ばれていることを忘れない。

経営というリアルな戦場に立つすべての人にとって、この感覚は羅針盤になるのかもしれない。

Vol.1|追い風の中で、地に足をつける

— 理想が加速する時代の「選ばされる構造」 -

成功が加速するとき、私たちは足元を見失う

気づけば「もっと上へ」「もっと速く」へと駆り立てられている。
称賛される仕事、注目を浴びる企画、成長を約束されたポジション。
それはたしかに“追い風”だった。けれど、その追い風に乗って走っていたとき、私たちはどこに向かっていたのだろう?

その問いを抱く前に、すべてはすでに決まっていたかのように、選択は加速していく。
気がつけば、「成功」は選ぶものではなく、“選ばされていたもの”にすり替わっていたのかもしれない。

■ 自負心という名の影

選択には、いつも“選びたくなる何か”が付随している。
それは使命感かもしれないし、社会的正しさかもしれない。あるいは、自分にしかできないという自負――「選ばれるべき自分」という感覚だ。

だがその自負心は、しばしば選択の透明性を濁らせる。
本当は、問い直すべきは「なぜそれを選びたくなるのか?」という動機の根であり、その根には、無自覚な欲望や未整理の過去が絡みついていることもある。

■ 理想と接続された“選択の暴走”

理想の追求、変化への貢献、新しい価値の創造。
現代において、こうした言葉の持つ重力は強い。特にリーダーや創造的職業に就く人ほど、その理想が強力な「推進力」となり、選択のスピードを上げてしまう。

だが、理想が加速すればするほど、足元は見えなくなる。
問いのない選択。勢いだけの判断。そしてその選択が、自分だけでなく、周囲や未来の誰かの人生をも巻き込んでいく。

■ 「どこへ行くか」より「どこに立っているか」

選択とは、常に何かを“選び取る”ことだと思われがちだ。
だが本当は、「いま、自分がどの地形の上に立っているか」を感じ取るところから始まる。
足場の感覚。過去との連続性。そして、自分の内側にある力の流れ。

《選択の地形》は、そうした「自分がどこに立っているのか」という感覚を回復させる試みである。
理想や未来に飛び立つ前に、一度足元を見つめ直す。
それは、選ばない勇気にも、踏みとどまる決断にも通じていく。

■ 選択の“起点”は、いつもここにある

追い風のときこそ、選択は危うくなる。
浮き立つ感情と高揚感の中で、地面との接続が切れる。
だからこそ、最初の一歩は「立つこと」であり、見えない足場を感じ直すことなのだ。

これから始まる《選択の地形》の旅は、「どう選ぶか」の前に、「どこに立っているか」を問うところから始まる。
そして、その問いこそが、選択を“自分のもの”へと取り戻すための最初の応答なのかもしれない。

Vol.1.5(補稿)|選択を掘るということ

— リトロダクションという思考の技法 -

私たちは、日々無数の選択をしている。
しかし、選択とは本当に“今ここ”だけで行われているのだろうか?

たとえば、ある場面で誰かの言葉に過敏に反応してしまったり、ある提案に強い拒絶感を抱いたり。
それらは論理や合理性とは別の、もっと深い「どこか」から生まれているように感じる。
それはなぜか?

そこには、“地層”のように折り重なった意味の蓄積がある。
出来事の背景、身体に刻まれた記憶、過去の反復、そして言葉にならない感情の起源。
私たちの“選ぶ”は、それらの地層を通してにじみ出てくる。

■ アブダクションでは見えないもの

現代の思考法では、アブダクションがよく用いられる。
現象から仮説を導き、未来の行動や施策に活かしていく思考法だ。
だが、アブダクションはどこかで「観察可能なもの」「すでに表れたもの」に依存している。

問題はここだ。
選択とは、多くの場合“まだ言語化されていない領域”から湧き出してくるものだということ。
“観察できるもの”の外側にある領域こそが、私たちを動かしていることがある。

■ リトロダクション—選択の起源にふれるための方法

そこで現れるのが、リトロダクション(retroduction)という思考法である。
これは「何がその出来事を“意味あるもの”にしたのか」を探るプロセス。
原因ではなく、“意味の生成地点”に焦点を当てる。

たとえば、ある決断に自信が持てなかったとする。
そこに浮かび上がるのは、「私は間違ってはいけない」「期待に応えなければならない」といった内なる声。
その声の出どころをたどると、過去の評価体験、親との関係、職場での暗黙のルール―
それらが“この選択”に影響を与えていたことに気づく。

それは、過去を掘り直し、“いま”の選択の文脈を再構築する作業だ。

■「自分らしさ」とは、すでにそこにあった“地形”の再発見

私たちは、ときに“自分らしさ”を探し、よりよい選択をしようとする。
だが、その「自分らしさ」すら、無数の出来事、解釈、刷り込みの層の上に立っている。
選ぶ前に、私たちはすでに“ある地形”に立たされているのだ。

リトロダクションは、その地形に輪郭を与え、名前を与え、光をあてる。
それによって、選択は「反応」ではなく「応答」へと変わる

「なぜ、自分はこの選択に傾いたのか?」
「それはどんな地形の上に立っていたのか?」
「その地形は、いまも自分を動かしているのか?」

その問いこそが、選択を掘るということなのだ。

《選択の地形》という旅のために

この補稿は、《選択の地形》というシリーズを読むうえでの「道具」でもある。
私たちが問い続ける“選択”とは、ただの意思決定ではない。
それは文脈の選び直しであり、意味の再配置であり、自分との関係の再交渉でもある。

リトロダクションとは、過去を掘り、未来に応答する力を取り戻す思考技法。
それは、「この選択をした自分」を深く理解し、
「この選択をしていく自分」をつくっていく営みだ。

この道具を手に、《選択の地形》という旅を、あなた自身のリズムで歩んでほしい。

Vol.2|選ばない、という選択肢

— 沈黙の力と立たない勇気 -

「選択肢がある」という幻想

私たちはいつも「選ばなければならない」と思い込んでいる。
あらゆる場面で、YesかNoか、やるかやらないか、進むか戻るか。
そのどちらかを「選ぶ」ことが、自立であり、意思表示であり、主体性だと信じて疑わない。

しかし、時に――いや、本質的な瞬間ほど――
“選ばない”という行為が、もっとも深く世界に関わる選択になることがある。

沈黙する、という態度

何かを「言う」ことよりも、「言わない」ことの方が重みを持つ場面がある。
場を揺らさず、風を読むようにしながら、静かにそこにいる。
それはただの“傍観”ではない。
深いところで事態を見据えながら、言葉を封じ、行動を保留する。

“沈黙”とは、選択肢の放棄ではなく、
選択の可能性を十全に保ったまま、最も重要な「間」を創る行為である。

決断しない、という決断

状況が混沌としているとき、
情報が偏っているとき、
対話がなされていないとき――

そんなときに「決める」ということは、誰かを傷つけるか、
未来を歪ませる可能性がある。

だからこそ、あえて立たない。
沈黙し、時を待つ。
それは逃げではなく、“責任ある立ち止まり”である。

フラートを聴く力

アフォーダンスやフラートといった概念は、
「環境が発している微細な呼びかけ」を受け取る感性に通じている。

選択とは、その“かすかなゆらぎ”に気づくことから始まる。
だが、音が大きすぎると、その微かな声が聞こえなくなる。

沈黙とは、その環境音に耳を澄ませるための準備でもある。
すぐに応答しない、反応しない、結論を出さない。
そこに“もうひとつの選択”が浮かび上がってくる。

“選ばない”ことが、世界との信頼を育む

選択を急がないことで、他者の声を待つことができる。
自分の答えを一旦保留することで、別の可能性に開かれる。

それは、「自分だけが正しいわけではない」と認める行為であり、
「まだ見えていない大事な何かがあるかもしれない」と信じることでもある。

この“保留の態度”が、関係性に余白を生み、
結果として深い合意や共創へとつながることがある。

勇気とは、動かないことにも宿る

「立ち上がること」が勇気だと思われがちだ。
けれど、本当に必要なのは、「立たない勇気」かもしれない。
それは、自分の焦りや恐れを飲み込み、
場の流れと共に“待つ”という選択をすること。
表面的には消極的に見えて、
内面では最も積極的に“今”と関わっている状態。

最後に

選択とは、いつも「何かをする」ことではない。
選ばない、という選択こそが、
もっとも深く世界とつながる扉であることも時にはある。

それは沈黙の中にあり、
何も立てない風の中にある。

焦って掴まないこと。
そこにこそ、選択の本質があるのかもしれない。

Vol.3|選ぶとは、世界と等価に関わるということ

「責任を持って選ぶ」とはどういうことか

「選ぶ」とは、単に意思を示すことではない。
それは、自分の存在が世界と“対等に関わっている”という宣言でもある。
独立したばかりの頃、私は理想ばかりを追いかけていた。
夢は語れど、足元のリスクには無頓着だった。
選択の結果が自分にどんな帰結をもたらすか、想像もしていなかった。
責任を持っていたとは言いがたい。
今思えば、“選ばれた未来”にただ酔っていただけだったのだと思う。

だがある時、こう言われた。
「追い風が吹いている時ほど、気をつけろ」と。
成功していると思っていた時こそ、最も足元が危うい。
気分が高揚し、選択が雑になり、全能感に満たされていく。
だが本当に大切なのは、最悪を想定しながら、最上を望むこと。
目の前の選択に“責任”を持ち、自分の足で立ち続けることだった。

それ以来、「自分の選択が、自分という存在そのものをつくる」という実感が、
日常の中で深く沁みるようになった。

選ぶことは、選ばれなかったものすべてを引き受けること

選ぶという行為には、「等価性」が潜んでいる。
選択とは、与えられた選択肢の中からひとつを“消去法的”に選ぶことではない。
それは、「この選択を引き受ける」と、自ら名乗り出る行為だ。
そこには、世界との応答関係が生まれる。
選んだ瞬間、私たちは世界と対話をはじめるのだ。

選ぶとは、同時に「選ばなかった他の選択肢すべて」を引き受けるということでもある。
それは、まるで“世界の重さ”を片手に持つような感覚だ。
だからこそ、選択には覚悟がいる。
自分の意志で選んだつもりでも、その背後には無数の“不採用の未来”が横たわっている。

都市の中で鍛えられる「選ぶ力」

この等価性の感覚は、どこか都市のジャングルのような現実で鍛えられる。
理想を掲げて歩いていると、すぐに足を取られる。
都市は不確実で、理不尽で、予定調和が通用しない。
けれど、だからこそ、選ぶという行為の“リアル”が浮き彫りになる。

舗装された道に見えても、足元は脆い。
予想外の摩擦や偶発性が、いたるところに潜んでいる。
その中で選ぶということは、結果として「自分の軸とは何か」が試されることでもある。
それは、自分の輪郭をたどる営みであり、他者や環境との対等な関わりのなかで、
自分の“声”を確かめ直すプロセスなのだ。

「この世界にいていい」と、選択によって合意する

選ぶとは、世界と等価に関わるということ。
それは、世界からの問いかけに応じ、自ら立ち位置を定めること。
誰かの物語をなぞるのではなく、
自分の軌跡として、一歩を踏み出すこと。

その一歩は、言葉にならない合意を世界と交わすことでもある。

「私はここにいていい。」

この選択を通じて、自分はこの世界と関わっている―
そう思えたとき、私たちは初めて「責任ある自由」を手にするのかもしれない。

Vol.4|盟友の声を聴く

— “もうひとりの自分”と共に選ぶ -

都市というジャングルを歩きながら

「都市の中をジャングルのように生きる」―

それは、私が好んで使う比喩だ。見通しの効いた都市空間の裏側には、複雑に絡み合った意図、偶然、誤解、そして小さな偶発的な生成が渦巻いている。

舗装された道を歩いているようで、実はそこはいつでも足元を掬われうる“野生”の領域。

都市も、選択も、一歩間違えばジャングルだ。

その中で、私たちは日々、何かを選び、何かを選ばずに生きている。

しかし本当に、私たちは自分の意志で選んでいるのだろうか?

選んだはずなのに、選ばされていた

独立したての頃、私は理想ばかりを追い、足元をまったく見ていなかった。

「こうしたい」「こうあるべきだ」――その“理想の輪郭”だけを根拠に、物事を決めていた。

結果として選んだ道の多くは、自分にとって最善でもなければ、地に足がついたものでもなかった。

いま振り返ると、あの頃の選択には、どこか“取り憑かれている”ような感覚があった。

夢や希望の言葉を自分で使いながら、実のところは、焦りや自負心に突き動かされていたのだ。

「なぜ自分はそう選んだのか」を読み解く

過去の自分の選択をエスノグラフィのように掘り返していくと、そこにある“パターン”が見えてくる。

特定の場面で似たような判断をしてしまう、同じような人間関係でつまずく、あるいは躊躇なく突き進む癖。

そうした痕跡を辿っているうちに、私はある仮説にたどり着いた。

それは―「盟友」の存在だ。

盟友とは、自分の中にいるもうひとりの自分。

無意識に衝動を生み出す存在であり、時に私の判断を乗っ取る“影の選択者”。

彼(あるいは彼女)は、私がまだ自分の感情を整理できない時、
過去の痛みや成功体験をもとに、そっと肩を叩いてくる。

「こっちの道を行け」と。

狩人と獲物、どちらも自分

私はかつて、いつも「狩られる側」だった。

状況に追い詰められ、他人の評価に引きずられ、いつも“そうするしかない”という選択をしてきた。

けれど、“盟友”の存在に気づいたとき、視点が一変した。

それまでの選択の背後に、私自身の分身がいたこと。

その分身が「今ここで、なぜこれを選ぼうとしているのか」と語りかけてくるようになったのだ。

狩人は同時に、狩られる獲物でもある―。

そう自覚したとき、初めて自分の選択に責任が持てるようになった。

それは、選択する主体としての“私”を取り戻す瞬間でもあった。

選択は、魂の痕跡を辿る旅

“盟友”に気づくこと―

それは、自分の選択の背後にある「魂の血筋」や「内なる動機」に出会い直すことでもある。

選択とは、ただの意思決定ではない。

それは、自分が無意識のうちに避け続けてきたもの―

記憶、経験、痛み、パターンといった“影の地層”とどう向き合うか、という問いなのだ。

私たちは、選んでいるようでいて、
実は「避けること」を目的に選んでしまっていることがある。

それが“盟友”の仕業であり、もうひとりの自分の声なのだ。

その声に耳を澄ませ、
「なぜ自分はこれを避けたくなったのか?」と問うこと。

そこから、選択はより“自分らしい”ものへと変わっていく。

Vol.5|結び目の選択

— 過去が未来をひらくとき -

「すでに選ばれてしまったこと」へのまなざし

人生には、すでに選んでしまったことがある。
もう変えられないと思っていること。
あのとき、ああすればよかった、とは思っても、時計の針は戻せない。
けれど本当にそうだろうか?
過去の“選択”は、本当に固定されたものなのだろうか。

ときに、過去のある一点を「選び直す」ことで、
私たちは思いもよらないかたちで、未来を変えてしまうことがある。
それは、過去の修正ではなく、
過去と未来のあいだに新しい“接続点”を発見するような行為だ。

「結び目」という出来事

ある選択が、長い時間を経てから突然意味を帯びることがある。
ずっと失敗だと思っていた判断が、
別の視点から見ると、まったく異なる可能性の扉だったと気づくことがある。
その瞬間、時間が折りたたまれ、
点と点が“結び目”のように絡み合いながら、
新しい道筋を描きはじめる。

この「結び目」とは、
過去・現在・未来が同時に更新されるような地点だ。
それまで見えていなかった第三の選択肢が、そこから浮かび上がる。
それは偶然のように見えて、
実はずっと見えないところで「熟していた問い」が、
あるタイミングで姿を現したのかもしれない。

問い直しは、選び直しになる

過去の選択に対して、問いを立てること。
「あのとき、自分はなぜあの道を選んだのか?」
その問いの奥には、痛みや誤解、未熟さ、そして切実な願いが隠れている。
私たちは、選ぶときにすべてを見通しているわけではない。
だからこそ、「問い直す」ことは、
その選択を再び生き直すことでもある。

過去を否定するのではなく、
その選択にこめた“切実さ”をもう一度すくい上げること。
すると、そこに新しい視点が流れ込んでくる。
一度閉じたと思っていた選択が、別のかたちで開き直る。
“選び直す”ことは、“つくり直す”ことでもある。

新たな選択肢は、いつも「今」にある

私たちは未来を「予測」して生きている。
でも、未来は予測ではなく、関係の中で“出現する”ものだ。
過去のしがらみによって狭まっていた視野の先に、
まったく新しい地平が見えてくることがある。

そのとき必要なのは、
「今、自分がどんな過去を抱えて立っているのか」に気づくことだ。
過去を語り直すこと。
問い直すこと。
そのプロセスを通して、
これまで見えなかった“もう一つの選択肢”が、
静かに姿を現す。

結び目をほどくのではなく、結び直す

ある選択を後悔しても、なかったことにはできない。
でも、それに新しい意味を与えることはできる。
それまでの選択を「結び直す」ことで、
まったく違う未来への通路がひらける。

選択とは、いつも「今」に立ち上がる行為だ。
だからこそ、たとえ過去が絡まっていても、
その結び目をどう扱うかは、自分で選びなおすことができる。

選ぶとは、結び直すこと。
過去と未来の間に、新しい物語を織り直すこと。
そして、その選び直しの中に、
未来への扉が、そっと姿を現してくるのかもしれない。

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