”銀座スコーレ”上野テントウシャ

schole_logo_icon_80x80

"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《サービスをやめて、場をつくる 》

- サブスク構造の逆転術と、“関わり代”のデザインについて -

Home / 共創と“場”の設計思想 / サービスをやめて、場をつくる

プロローグ:

つくり手であるはずのわたしたちが、
いつの間にか“提供者”という立場に縛られていく。

届けることに疲れ、
支えきれない関係に追われながら、
それでも何かを残したくて、走り続けてしまう。

このシリーズは、
そんなサービス構造の内側に潜む「見えない前提」を見直し、
場の可能性にひらかれていくための備忘録である。

Vol.0|サブスクの罠

— サブスクという構造のなかに、疲弊の種がある -

「続ければ安定する」の落とし穴

サブスクリプション型のビジネスは、
どこか“理想的なかたち”として語られがちだ。

「毎月定額の収益が入る」
「継続するファンと関係が築ける」
「ストック型で、安定性がある」

そんな言葉に背中を押されて、
オンラインサロンや会員制サービス、noteの有料マガジンなど、
さまざまな形での導入が広がってきた。
実際に取り組んでいる人も少なくないはずだ。

けれど、運営を始めた多くの人が、
しばらくして感じるのはある種の違和感だ。

それは、こんな感覚かもしれない。

  • 「最初の熱量はあったのに、維持するのがつらくなってきた」
  • 「こんなにがんばっているのに、離脱されていく」
  • 「更新が滞ることに、罪悪感すらある」

言い換えれば、
「継続すること」が自分の自由を狭めていくような構造。

そこにひっそりと横たわる疲弊の種を、
わたしたちはあまり語らない。

■ 構造に埋め込まれた、疲れの原因

原因は単に
「やる気が続かなかった」わけではない。

むしろ、構造そのものに
疲弊が内包されていたのだとしたらどうだろう。

たとえば、こんな三重構造:

  • 価格は抑えめ(薄利)
  • コンテンツは更新前提(多売)
  • すべての価値提供を運営者が担う(固定化)

この状態では、
「続けること」が「消耗すること」になってしまう。

定額課金という形式が、かえって「パフォーマンスの義務化」を生み、
次第に“生活の中でプレッシャーの源”になっていくことすらある。

更新が止まったら、離れてしまうかもしれない。
価値があると思ってもらえなければ、関係が切れてしまうかもしれない。

そんなふうに、

■ 問いの入り口に立つ

このVol.0では、
何かを決めつけるのではなく、
ただひとつの問いの入口に立ちたい。

サブスクという構造の中に、
わたしたちはどんな“前提”を抱えていたのだろう?

安定、安心、関係性、信頼、収益…。

そこに、期待しすぎたものがなかったか。
逆に、“期待され続けること”が
しんどくなっていなかったか。

疲れたのは、自分のせいではなく、
疲れやすい構造が、
そこに組み込まれていただけかもしれない。

まずはそこから、
解きほぐしていきたい。

Vol.1|共創のはじまり

— 場がサービスになるという逆転 -

提供しつづける構造が抱える限界

サブスク型サービスがしんどくなる理由のひとつに、
「提供者=運営者であり続ける構造」があります。

価値を感じてもらうために、コンテンツを出し続ける。
満足してもらうために、レスポンスを早くする。
更新頻度や新規企画を途切れさせないように、
自分の時間と集中力を差し出す。

それ自体は悪いことではないし、誠実な営みでもあるのですが、
「与える側」だけが走り続けなければいけない状態が続くと、
どうしても“続けること”自体が重荷になっていきます。

そして気がつけば、コンテンツを届けることが、
“義務”や“責任”のように感じられてくる。

それが、悪循環の始まりです。

■ 「場=サービス」への視点の転換

そこで問い直したいのが、
そもそも「サービス」とは何か、という部分。

もしそれを「価値を届けること」だと捉えるなら、
届ける手段が“情報”でなくてもいいし、
届ける主体が“運営者”でなくてもいいはずです。

むしろ、参加者どうしの関係性や、共鳴、反応、問いのやりとり、
そうした“場の中で育っていくものそのもの”が、
サービスたりうるという発想があっていい。

つまり、
運営者がずっと価値を作り続けるのではなく、
場の中で価値が勝手に生まれていく構造へと移行する。

この視点の転換こそが、
「自走する場づくり」の入り口になります。

■ 価値は“関係性のなか”で立ち上がる

「場がサービスになる」という言葉が
少し抽象的に聞こえるかもしれません。

でも、実際にはごくささやかな場面に
その兆しは現れます。

  • 誰かの問いに、別の誰かが返事をしてくれる
  • 自分の発言が、他者の気づきや行動につながる
  • 表現や発信が、別の視点を引き出していく

そんなふうに、
“人と人の間”に意味が立ち上がっていく感覚。

この構造が立ち上がると、
運営者がすべてを支える必要はなくなります。

それどころか、
あえて「全部やらない」ことが、
場にとって健やかだったりもする。

■ 「関わる」ことそのものが価値になる場へ

コンテンツが主役ではなく、
関わること自体が価値になる。

投稿する
読んでいる
反応する
黙っている
横で見ている
誰かと話してみる

どの関わり方にも「意味がある」とされる場所。
それが、場がサービスとして機能する状態です。

場にいるだけで、何かが起こるかもしれない。
その期待があるから、人はそこに留まる。

そしてまた誰かの動きが、
誰かの関心を引き出す。

静かに、でも確かに。

そんな循環が始まるとき、
サブスクは「提供の場」から
「共創の土壌」へと変わっていきます。

Vol.2|関わり代をひらく

— 動きたくなる余白のつくり方 -

“参加できる場”の、その手前

共創的な場を育てていくうえで、
大切なのは「参加の設計」だとよく言われる。

とはいえ実際は、参加してもらう以前に、
“関われそうだと思えるかどうか”が問われている気がする。

「発信は自由です」と書いてある。
「誰でも歓迎します」と言われる。
「コメントも質問も気軽にどうぞ」と案内される。

それでも、
「わたしが今、ここで関わってもいいのか」
という感覚がつかめずに、
そっと引き返すようなことがある。

表面上の“自由”だけでは、安心して関われない。

だから必要なのは、
“関わり代”のある場だと思う。

■ 関わり代とは、関わっても大丈夫だと思える“空白”

関わり代(しろ)とは、言い換えれば、
「関わってもいい」「関われそう」という心理的な入口と、
実際に「関わる手段がある」という構造的な入口が、
両方そろっていること。

たとえば:

  • 「ちょっと覗いてみる」だけでもOKな雰囲気
  • 見ているだけの人にも、視線が向けられていること
  • 話したいときに、少人数で話せる設計
  • 誰かの問いに返すだけでも“関わっている”とされる文化

こうした細かな“余白”が、誰かの動きを生み、
場を内側からあたためていく。

完璧に整っている場では、その隙がない。
まったく整っていない場では、足を踏み入れにくい。

「整っていないけど、誰かが気づいてくれている」
そんな場所が、関わり代を持つ場だと思う。

■ 関わり方に“正解”をつくらない

そしてもうひとつ大事なのは、
「どんな関わり方にも価値がある」と信じること。

投稿する人も
問いを読むだけの人も
数ヶ月動かないまま、ずっと見ている人も

すべてが、場の一部として認められていること。

参加すればするほど評価される仕組みではなく、
“関わる”ということの質と温度が、大切にされている空気があるかどうか。

そうした前提があるからこそ、
人は自分のペースで動けるし、

たとえ“何もしていない”ように見えるときでも、
静かに関係が育っていることを信じられる。

■ 動きたくなる場には、余白がある

「もっと関わってほしい」と思ったとき、
やることを増やしたり、説明を足したりしてしまいがちだけど、
実はその逆なのかもしれない。

“足りない”と思う部分に、
人が自然に動きたくなるスペースが宿る。

誰かが何かをしてくれるのを待つのではなく、
「ここ、自分だったらこうしてみたいかも」と思える瞬間がある。

そんな未完成のまま開かれている構造が、場を育てていく。

関わり代とは、ただの隙間ではない。
誰かの動機が目覚めるための、“呼吸できる余白”なのだと思う。

Vol.3|スピンアウトを迎え入れる

— 内発的動機が芽吹く場の成熟 -

場の中から、ひとつの動きが“はみ出す”

関わり代のある場が育ってくると、
やがて誰かが、自分の内側から湧いた動機に従って
動き出す瞬間が訪れる。

「ちょっと、自分でもやってみたくなって」
「あの話、もう少し深めたくて」
「この場の外で、こんなことを考えてみました」

そんな一歩が、スピンアウトのはじまり。

それは、あらかじめ計画された動きではなく、
運営者の意図をなぞったわけでもない。
でも確かに、「この場があったから生まれたもの」なのだ。

■ スピンアウトは“信頼”の証

誰かが何かを始めるとき、
そこにはリスクもある。

うまくいくかどうか分からない。
場に受け入れられるかどうかも分からない。

それでも一歩踏み出せるのは、
「この場なら、きっと何かが返ってくるだろう」
という小さな信頼があるから。

言い換えれば、スピンアウトが生まれる場というのは、
“はみ出しても大丈夫”な文化が根づいている場だという事だ。

■ “勝手にやってみた”を歓迎できるか

スピンアウトが自然に起こる場には、
ある種の共通点がある。

  • すべてを申請制・許可制にしていない
  • 勝手にやってみたことが、咎められない
  • 運営者以外の動きも、正面から受け止められる

つまり、主役が入れ替わる余白がある。

たとえ運営の意図から少しズレていたとしても、
それが「誰かの内側から生まれた動き」なのであれば、
いったんは丁寧に迎え入れてみる。

その姿勢が、次のスピンアウトを生み、
場にさらなる“動きの幅”が生まれていく。

■ 「スピンアウトが場を拡張する」

場のなかでスピンアウトが起こると、
そこにはいくつかの連鎖が生まれる。

「こんな関わり方もありなんだ」と感じる人が出てくる
「あの人にできたなら、自分にもできるかも」と思う
「外に持ち出してもいいんだ」と気づく

その連鎖が、場の可能性を“外”へひらいていく。

自分の内側に生まれた動機を、
他者と共有し、形にしてみたくなる。

そうした空気のなかで、
場は「情報提供の場所」ではなく、
“内発的なプロジェクトが立ち上がる土壌”として機能していくのだと思う。

Vol.4|三層で支える

— プロジェクトが芽吹く構造のつくり方 -

目に見える“動き”の背後にあるもの

場のなかでスピンアウトが起こる。
参加者が自ら問いを持ち、動き出す。

それは一見、とても自然な流れに見える。
けれど、その自然さの背後には、意図的に設計された“見えない構造”がある。

放っておいても人が育ち、動く場というのは、
実際にはかなり繊細に支えられている。

その支えは、3つの層に分けて捉えると整理しやすい。

■ 第一層:仕組み ― 入り口を複線で開く

「どう関わるか」は、人によって全く違う。
関わり代のある場には、“関わり方の選択肢”がいくつも用意されている。

  • 少人数で話す機会がある
  • 書かずに読むだけでも存在できる
  • 勝手に始められるスペースがある
  • 投稿や反応が、必ずしも量や頻度で評価されない

たとえば、「問いにコメントしてみる」「何かをまとめてみる」「自分なりのスピンアウトを試みる」。
そのどれもが“正しい関わり方”として尊重されていること。

階段がひとつではなく、スロープも裏口も用意されている構造。
それが、誰かの動機に火をつけていく。

第二層:言葉 ― 文化を育てる日常のコード

場の文化をつくるのは、制度よりも言葉だ。
ふとしたやりとり、何気ない一言のなかに、場の価値観は滲み出る。

「やってもいいよ」ではなく「やってくれてありがとう」
「主役は誰?」ではなく「主役は、その時々で変わる」
「ルールだから」ではなく「ここでは、こういう空気を大切にしてる」

そうした言葉・在り方が交わされるうちに、
参加者は「どう動いていいか」を感じ取っていく。

公式ルールではなく、体感として身につく“空気のルール”が、
安心して関われる雰囲気を支えている。

■ 第三層:運営スタイル ― 余白を守る在り方

そして最も見えにくく、
しかし最も場を支えているのが、運営者の姿勢やスタンスだと思う。

すべてを把握しようとしない
指示するより、観察する
反応を急がず、静かに見守る

ときには、やらなさすぎることが、
場にとって最善であることもある。

誰かが動いたとき、
「それ、いいですね」と背中を押すこと。

誰かが黙っているとき、
「いてくれてうれしいです」と伝えること。

その静かな支えが、余白を守り、動機の芽を潰さず、
場の中に無数の可能性の種を残していく。

■ 三層で耕す「育ちやすい土壌」

この三層 ―

  • 仕組みとしての構造
  • 言葉としての文化
  • スタイルとしての姿勢

それぞれが別々にあるのではなく、
ゆるやかに溶け合って、場の空気を形作っていく。

この土壌が耕されているとき、
場はひとつの情報発信の拠点ではなく、
共創が自然に芽吹いていく生態系になる。

そして、誰かの動きが、また別の誰かの関心を誘発し、
場は自走しはじめる。

自走とは、“放っておいても勝手に回る”ことではない。
関わりたいと思う人が、自然に動ける空気が保たれているということ。

それを支えるのが、この三層なのだと思う。

Vol.5|サービスをやめて、場をつくる

— 提供の構造から、共鳴の土壌へ -

提供し続けることに、疲れていない

「誰かの役に立ちたい」
「価値のあるものを届けたい」
「関わってくれる人に、何か返したい」

そう思って始めたはずのサービスが、
いつの間にか、義務と責任の塊のように感じられてしまうことがある。

自分が提供を止めたら、関係が終わってしまうような不安。
価値を出し続けなければ、見放されるのではないかという焦り。

そうして気づけば、
“提供者であること”をやめることが怖くなる。

そのような時、その構造の中に、
どこか疲れがたまっていろような事はないだろうか。

そんな、仮の“問い”を立ててみる事で、
これまでとは違った新しい“気付き”があるかもしれない。

■ 「場をつくる」という在り方

サービスをやめる、というのは、
届けることをやめる、という意味ではない。
価値をつくらなくていい、という話でもない。

そうではなくて、
「提供する」ことにすべてを預けすぎない構造へ移行するということ。

誰かの問いが誰かを動かし、
誰かの投稿が別の気づきを生み、
知らないうちに関係性が育っていく。

そうした “価値が場の中で立ち上がっていく状態” を信じてみる。
それが、サービスから場への転換点になる。

■ 自分の“余白”が、場の“土壌”になる

場をつくるというのは、何かを詰め込むことではなく、
「関わりたくなる余白」を丁寧に耕していくことだと思う。

すべてを説明しない。
すべてを管理しない。
すべてを期待しない。

それでも、動いてくれる人がいるかもしれない。
それでも、残ってくれる人がいるかもしれない。
それでも、何かが育っていくかもしれない。

そう信じられる範囲で、自分のリズムを守りながら、
自分が提供しすぎないことで育っていく“何か”に、
目を向けていられる余白を残しておく。

■ 提供ではなく、共鳴を起点に

サービスとは、価値を届ける構造。
場とは、価値が共鳴する構造。

前者は、誰かががんばりつづけることで成り立つ。
後者は、誰かが動きたくなることで育っていく。

どちらが良い悪いではなく、
どちらの構造を、自分がこれから作り、支えていきたいのか。

少なくともわたしは、
「疲れながら価値を出しつづける人」の隣で、
「無理のない形で何かが育っていく場」を一緒に探していきたいと思っている。

■ あとがきとして

このシリーズは、何かを結論づけたくて書いたものではない。
どこかで立ち止まり、
「この構造は本当に自分に合っているのか」
「続けることが、自分を削ってはいないか」
そんな問いを巡らせたかっただけなのかもしれない。

サービスをやめる。
それは、提供を終えるというより、
共鳴する土壌を信じてみるという選択でもある。

この章が、誰かの手放しの助けになりますように。

上部へスクロール