経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 屍なき加害 》

- 善を語る時代の危うさ -

プロローグ:

事業はいつも光をまとう。
成長や成功、社会への貢献が強調される。
だが、その光には必ず影がある。

市場を広げれば誰かの市場が縮み、
雇用が生まれれば別の雇用が失われる。
数字に映らないところで、犠牲や喪失は積み上がっていく。

成功とは、加害と共犯の上に立つものだ。
無害な事業は存在しない。

だから必要なのは、加害を避けることではなく、
自覚して引き受ける姿勢である。

銀座スコーレは、その宿命を見据え、
お客さんの共犯者となる覚悟を持つ。
誤魔化しのない欲求を扱うのは、
共犯を搾取に変えないためだ。

このシリーズは、事業の影と光を重ねて描く試みである。

Vol.0|見えない代償

— 成長に潜む加害 -

領土を広げることは、武将にとって成功の証だった。
だが、その道の先には必ず屍が横たわっていた。
勝利とは加害を意味し、その重みを無視することはできなかった。

いま、事業が市場を広げるときも同じ構造がある。
奪われるのは土地ではなく、顧客や資源や人材。
血は流れず、代償は数字やシェアの変動に姿を変える。

犠牲が見えにくくなっただけで、加害が消えたわけではない。
数字が並ぶグラフを眺めていると、
その裏にある喪失や犠牲を忘れてしまう。

「成長」という言葉の明るさに、影の存在がかき消されていく。
だが、成長の裏には必ず代償がある。
その影を見失わないことから、この話を始めたい。

Vol.1|成功に不可欠な“自覚”

— 事業に宿る加害 -

価値と奪いの両義性

事業はしばしば「価値を生むもの」として語られる。
新しい商品を作り、サービスを届け、人の役に立つ。
その側面は確かにある。

しかし、そこで止まってしまうと、
事業のもう半分―「奪う」という性質が見えなくなる。

お金が自分のもとに集まるということは、
誰かのもとからお金が減っているということだ。
それは表に出にくいが、
事業の根底に常に流れている質である。

市場競争という加害

市場を広げるとは、シェアを奪うことに他ならない。
「新しい顧客を得る」と聞くと前向きに響くが、
裏返せば「他の誰かから顧客を奪っている」ということだ。

ある店に行列ができれば、隣の店の客足は減る。
あるサービスが伸びれば、旧来のサービスは衰退する。
数字の増加は喜ばれるが、
その増加は必ず誰かの減少と表裏一体である。

ここに、事業の避けられない“加害の質”が潜んでいる。

自覚のあった時代、自覚を失った時代

戦国武将は、この加害を自覚していた。
領土を広げることは、人を殺め、村を焼き、屍を積み上げることだと知っていた。
成功は「加害と共にある」と、誰もが肌で理解していたのだ。

現代の事業も、構造は本質的に変わらない。
ただ犠牲が血や煙ではなく、数字やシェアの推移に置き換わった。
画面に映るグラフの裏で、雇用が失われたり、地域が疲弊したりしている。

数字上は「成長」と映るため、その加害性が隠れてしまう。
ここに、現代の危うさがある。

数字が上がることを「当然」とみなすとき、
そこには誰かの減少や喪失が含まれている。
勝ちがあることは、負けがあることと同義だ。

それを競争の常識として受け入れてしまうと、
犠牲を見えなくしてしまう。
無自覚の加害は、そこから生まれる。

巻き込むという加害

事業は一人ではできない。
人を巻き込み、共感や期待を集め、仲間や顧客を増やしていく。

だがその「巻き込み」は、時に本人の自覚を越えて相手を引きずり込む。
働く人は「やりがい」の名のもとに過重な負担を担い、
顧客は「お得感」の陰で依存を強める。

巻き込みとは、相手の自由を削り、方向を変える力を伴う。
それはやはり、“加害”の一形態なのだ。

共犯という選択

巻き込まれる人々は、知らぬ間に共犯者となる。
「いいことをしている」と信じることで、
加害の側に立っている事実が覆い隠される。

だからこそ、始める側に必要なのは、
「自分は加害している」という自覚だ。

この自覚があるかどうかで、事業の質は大きく変わる。
自覚のない加害は暴力になる。
自覚のある加害は、巻き込まれる人に
「共犯になるかどうか」を選ばせる余地を残す。

それこそが、成功に不可欠な“自覚”である。

Vol.2|誤魔化しのない純度

— 鈍化が生む加害 -

掟としての欲求

人は誰しも、自分を自分たらしめる欲求を抱えている。
ただし、それに気づかないまま生きていることもある。
あるいは、本当ではないものを「そうだ」と思い込んでしまうこともある。

純度の高い欲求は、近づこうとはできても、掴み切ることはできない。
それは、言葉にしようとすればするほど零れ落ちる、
“語りえぬもの”に近い。

そのかすかな輪郭を辿ろうとすることが、
生き方を決めていく。

加害は避けられない

事業には、加害の質が必ず含まれる。
純度が高いかどうかに関わらず、何かを奪い、誰かを犠牲にしてしまう。

「全世界にとって良いことをしている」と胸を張る人もいる。
だが、その言葉はしばしば、
自分の加害に無自覚である証でもある。

むしろ「無自覚などない」と信じてしまうことこそ、
最大の無自覚なのだ。

だからこそ、欲求を濁さずに選び取ることが求められる。
加害を避けることはできなくても、
加害を誤魔化さない態度は選べる。

自覚とは、「無自覚の不在」を信じないことから始まる。

鈍化という裏切り

欲求を鈍らせることは、
一見すると加害を和らげるように見える。
だが実際には、最も危うい加害につながる。

濁った欲求に人を巻き込めば、
共犯者は誤った理由を信じて動くことになる。
それは、暴力と変わらない。

自覚と選択

誤魔化しのない純度を持つとき、
人は必ず加害者になる。

その事実を自覚せずに進めば、
周囲を巻き込むだけの暴走になる。

自覚を抱えたまま選び取ること。
それが唯一、欲求と事業を
誠実に保つ道である。

Vol.3|生きることは加害である

— 業という拡張された生 -

生きることの加害

人は、生きている限り、必ず加害者である。
呼吸し、食べ、立つだけで、世界に影響を与えている。

一口の食事は、他の命の犠牲の上にある。
家を建てれば、そこにあった緑は消える。

「無害に生きる」という理想は存在しない。
それを徹底するなら、
死によってしか達成できない。

事業は生の拡張

事業もまた、生きる営みを拡張したものだ。
動けば必ず誰かに影響を与え、痛みや犠牲を伴う。

あるサービスが流行すれば、別のサービスは忘れられる。
一つの企業が雇用を生めば、別の地域では職が失われる。

「誰も傷つけない事業」という言葉は、
美しく響いても、現実には成立しない。

最小の犠牲で挑める時代

それでも今は、かつてより犠牲の規模が圧倒的に小さい。
お金そのものが膨張し、資金や市場の流動が豊かだからだ。

かつては、工場の煙や川の汚染が犠牲の象徴として立ちのぼった。
今も犠牲はあるが、その多くは見えにくい。
失業率の推移や市場シェアの減少といった数字の裏に、誰かの痛みが隠れている。

積み上げられる犠牲は、ゼロにはならない。
だが、その数を最小限に抑えながら事業を立ち上げられる時代である。
加害の質を自覚する者にとって、
これほど恵まれた環境はない。

配慮としての事業

加害を消すことはできない。
だからこそ、誤魔化さずにその影を見つめ続けることが求められる。

犠牲をできるだけ軽くする工夫。
影に気づいたとき、すぐに応答する態度。
それが配慮であり、気遣いであり、誠実な事業の条件だ。

生きることと同じように、
事業もまた「加害を自覚しながら続ける営み」なのだ。

Vol.4|応答する加害

— 犠牲に向き合う態度 -

避けられない犠牲

生きることも、事業を営むことも、必ず加害を伴う。
どれほど誠実に選んでも、誰かの痛みや犠牲は避けられない。

それを完全に消そうとする発想自体が、すでに幻想である。
一人の顧客を得れば、別の誰かが失われる。
新しい仕組みを広げれば、旧来の仕組みが居場所をなくす。

そうした影は、「なかったこと」にはできない。

無自覚が生む加害

犠牲が生まれるのは、多くの場合、悪意からではない。
「自分は無害である」と思い込む無自覚が、結果として痛みを生む。

無自覚の不在を信じた瞬間、人は最も無自覚になる。
だからこそ大事なのは、犠牲をゼロにすることではない。
犠牲が生まれてしまったときに、
それをどう気づき、どう応じるかだ。

応答という責任

見なかったことにするのは簡単だ。
「仕方ない」と切り捨てることもできる。

だが、そこで足を止め、犠牲に真摯に向き合うこと。
それが、加害を引き受ける者に課された責任である。

応答とは、被害を補償することだけを意味しない。
気づいた痛みに応え、誤魔化さずに手を差し伸べること。
それは小さくても、事業を誠実に保つための態度だ。

誤魔化さない営みへ

加害を消せない以上、応答だけが誠実さを支える。
犠牲を認め、そこから学び、次の選択に活かす。

その営みの積み重ねが、事業を「ただの加害」で終わらせない。
応答する加害。
それは、逃れられない影とともに生きるための、唯一の歩み方なのだ。

Vol.5|共犯の構造

― 銀座スコーレの覚悟 ―

事業は共犯を生む

事業は、必ず誰かを巻き込む。
顧客も社員も投資家も、その構造の中に入れば「共犯者」となる。

それは加害と表裏一体の営みだ。
新しい市場を得ることは、別の誰かの市場を奪うことでもある。
加害を避けられない以上、事業は共犯の連鎖を生み続ける。

銀座スコーレの覚悟

銀座スコーレは、その事実から目を逸らさない。
お客さんの共犯者になるという覚悟を持っている。

だからこそ、扱うのは「純度の高い欲求」だ。
欲求が濁れば、共犯はただの搾取になる。

誤魔化しのない欲求を探求し、深掘りすること。
それを最重要のファクターとして据えている。

透明な共犯

共犯を誤魔化さずに引き受けるには、透明さがいる。
加害の影を隠さずに語り、選択の余地を互いに確かめること。

そのうえで共に歩むのか、引き返すのか。
意思を交わし合う関係をつくること。

問いを軸に据えるのは、そのためだ。
問いは、見えない影を照らし、共犯の自覚を可能にする。

Vol.6|共犯として生きる

― 事業の宿命を引き受ける ―

二重の責任

事業を担うとき、二つの加害の責任が生まれる。

一つは、事業者としての加害
市場を広げることは、必ず誰かの市場を奪うことだからだ。

もう一つは、共犯者としての加害
顧客や社員、投資家を巻き込み、その選択に加担させるからだ。

この二重の責任は、事業から切り離すことができない。

無害という幻想

「誰も傷つけない事業」があるように語られることもある。
だが、生きること自体が加害を含んでいる以上、
事業だけを無害にすることはできない。

犠牲の数や質を減らす努力はできても、ゼロにはできない。
無害を装うことは、かえって無自覚を強め、加害を深めてしまう。

引き受ける姿勢

だからこそ必要なのは、加害を避けようとすることではなく、
加害を自覚したうえで引き受ける姿勢だ。

事業は共犯を生み、その共犯に責任を伴う。
誤魔化さずに共犯関係を見据え、問いを軸に選び続けること。

それが、事業を生きるということの宿命なのだ。

銀座スコーレの立ち位置

銀座スコーレは、この宿命から目を逸らさない。
お客さんの共犯者になるという覚悟を持ち、
だからこそ「純度の高い欲求」を探り続ける。

欲求が濁れば、共犯は搾取に変わる。
誤魔化しのない欲求に触れることが、
最も誠実な伴走になると信じている。

影を隠さず、問いを差し出し続けること。
それが、銀座スコーレの姿勢である。

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