”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 思考のひとり遊び帳 》

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プロローグ:

思考とは、案外、ひとり遊びに似ている。
誰かに届けるでもなく、ただぽつりと浮かんだ問いを眺めてみる。

意味があるのかは、あとから決まること。

この帳面には、そんな“あとから効いてくるかもしれない”思考の欠片たちを、
忘れないように綴っていく。

笑えるような妄想でも、深夜の独り言でもいい。
ときどき拾い上げて、また遊ぶために。

願いましては、すでに成就

(本人が忘れているだけでございます)

「願いましては——」というフレーズを耳にすると、なぜだか、そろばんの音が頭に浮かぶ。
商店街の抽選会か、古びた寺子屋か。
いずれにしても、そこには「まだ手にしていないものを求める」空気が漂っている。

けれど、ふと考えてしまうことがある。
もしそのあとに、誰かがこう言ったらどうだろう?

「…すでに成就しております」

え?と思わず止まり、
次の瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
なんだそれ、冗談みたいな話じゃないか——と、思いながらも、どこか心に引っかかる。

もしかすると、それこそが一番リアルな話なのかもしれない。

生まれる。
体験する。
死ぬ。

この一連の流れこそ、人が生まれる前に願った“最初の願い”だったとしたら。
もし「存在すること」そのものが最大の願望であり、それが叶ってしまっているとしたら。

それを私たちは、日常という名の光の中で、すっかり見失っているだけなのかもしれない。

■ 欠けているように見えて、満ちている

「もっと認められたい」「いつか成功したい」
そんなふうに、私たちは何かを“追いかける存在”として社会を生きている。

けれど、ある欲望はすでに“満たされている記憶”から生まれてくる。

旅に出たくなるのは、すでに「帰る場所」があるからかもしれない。
愛されたいと願うのは、どこかで「愛を知っている」からこそかもしれない。

冷蔵庫の中にケーキがあることを知らずに、「甘いものが食べたい」と嘆いているようなものだ。

足りないのではなく、気づいていないだけ。
欲望は空虚ではなく、すでに満ちた場所から、静かににじみ出てくる。

■ 成就は風景になる

赤ん坊は何もしていないのに、歓迎され、祝福されて生まれてくる。
話せない、歩けない、何も「役に立たない」。

それでも、人は皆知っている。あれは奇跡だ、と。

あのとき、私たちは完全に「叶っていた」。

ただ、それが日常となり、背景となり、風景へと溶け込んでいっただけ。

風景になった願いの上に、また新たな欲望を重ねていく。
すでに成就したことに気づかないまま。

■ 遊びが始まるとき、願いは叶っている

もし本当に、何ひとつ叶っていなかったとしたら——
人は、望むことすらできないのではないだろうか。

望むとは、「遊べる状態」である証。

怒る、悩む、落ち込む、笑う——
それらすべてが、「今ここにいる」からこそ起こる体験。

まるでゲームのように。
プレイするには、まず電源が入っていなければならない。

つまり、欲望を抱くということ自体が、
「すでに叶っている」ことのサインでもあるのだ。

■ これは“誕生ゲーム”

考えてみれば、私たちはとても奇妙なゲームに参加している。

「生まれたい」と願った。
「感じてみたい」と願った。
「自分で選びたい」と願った。

その願いが、どうやら通ってしまったらしい。
この世界に“入場”できたことが、何よりの証拠だ。

うまくいくか、失敗するか。
愛されるか、見放されるか。
やる気に満ちるか、何もできずに終わるか。

そのどれであっても、「体験したい」という最初の願いに応じているとしたら…
もはや、すべてが報酬ではないだろうか。

このゲームに“勝ち”はない。
ただ、「遊べているかどうか」だけが基準になる。

だからこう言ってしまおう。
欲望とは、成就した者にだけ許された、ちょっとした遊び心である。

あなたがいま何を思っていても、何を望んでいても。

この文章を読んでいるということ自体、
「生きている」「感じている」「思考している」証であり、
それこそがすでに叶った“存在の願い”の継続であるのかもしれない。

私たちは忘れてしまう。
願ったことも、叶ったことも。

でも、生きるとは、思い出す旅でもある。

その旅のどこかで、ふと気づく瞬間が訪れるかもしれない。
ああ、もう叶っていたのか、と。

だから最後にもう一度、ふざけたように、しかしちょっと真顔でこう言おう。

願いましては、すでに成就。
本人が忘れているだけでございます。

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