理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 主語の余白 》

- “わたし”は、間から立ち上がる -

プロローグ:

“わたし”という言葉は、あまりにも簡単に主語として使われる。
しかし、その「わたし」は本当に自分の内側にあるものなのか。
人と話すたび、誰かと関わるたびに、その輪郭は少しずつ変わっているように思う。

これは、“わたし”という主語について、あらためて問い直してみようとする記録である。
もし、語らなくても存在できるとすれば、「わたし」はどこにいるのか。
この問いを起点に、思考を整理していく。

Vol.0|最初のノイズ

— – 他者の笑いが、わたしを生んだ – -

■ あれは、笑われていたのか、それとも…

あるとき、自分が真面目に話していた内容に対して、
周囲がどっと笑い出した場面があった。

その瞬間、「笑われた」と感じた。
しかし、それと同時に、「場が和んだ」という印象も残っていた。

なぜか不思議だった。
本来なら不快に感じてもおかしくない場面なのに、
むしろ安心感があった。

そこでひとつの可能性が浮かんだ。
あれは「笑われた」ではなく、
「笑わせた」状況だったのかもしれない。

■ 主体の位置が反転する

自分がどう扱われたか、という受け身の視点に立っていると、
そこには常に評価や線引きが存在する。

しかし、「自分はその場に何をもたらしたか」という問いに切り替えると、
見え方が変わる。

たとえそれが意図しない失敗であったとしても、
結果として場に笑いが生まれたという事実がある。
それは、何かしらの動きが起きたことを示している。

その瞬間から、
「自分がどう見られたか」よりも、
「その場がどう変化したか」が気になりはじめた。

自分が主語で、他者が対象であるという固定的な構図に、ズレが生じる。
そのズレが、自意識のあり方に影響を与えてくる。

■ 「わたし」という輪郭は、どこから立ち上がっていたのか?

「わたし」は、自分の内側にいるものなのか。
記憶の蓄積なのか、それとも心の奥にある何かか。

そう思っていたが、
実際には“わたし”という感覚は、
誰かとの関係のなかで生じていたように思う。

たとえば、視線を向けられたとき、
すれ違いを感じたとき、
空気の変化に気づいたとき。

そういった瞬間に、自分の輪郭が意識に上ってくる。

つまり“わたし”は、
内面に常に存在しているものというよりも、
外との関係の中で立ち上がる性質のものかもしれない。

■ 関係から立ち上がる主体

この気づきは、小さな視点の転換だった。

「自分」ははじめから固定された存在としてあるのではなく、
その都度、関係性の中で浮かび上がってくるものかもしれない。

主体は、他者や場との関係のなかで反応的に立ち上がる。
この前提を持つと、日々の出来事の捉え方が少し変わってくる。

たとえば、傷ついた出来事について、
「自分が傷つけられた」という見方だけでなく、
「場が揺れた」「関係に変化が起きた」という視点も持てる。

嬉しかった出来事についても、
「自分が認められた」だけでなく、
「その関係に何らかの共鳴があった」という捉え方ができるかもしれない。

Vol.1|内側にいない“わたし”

— “わたし”は、ほんとうに中にいるのか? -

■ 「内側にいる自分」という前提

多くの人が、自分という存在を
「この身体の中にいる何か」としてとらえている。

たとえば、脳のなかにある意識、胸の奥にある感情、
あるいは自分だけが知っている“本当の自分”。

そうした前提を持っていると、
この世界は「わたしの外側」に広がっているように感じられる。

他者の言葉や態度、環境の変化、社会からの評価。
それらはすべて、
自分という中心に影響を与えてくる“外”として機能する。

このとき、「内」と「外」がはっきり分けられていて、
主体である自分が、その境界を守っているように見える。

ただ、“わたし”の実感はもっと揺れている

多くの人が、自分という存在を
「この身体の中にいる何か」としてとらえている。

たとえば、脳のなかにある意識、胸の奥にある感情、
あるいは自分だけが知っている“本当の自分”。

そうした前提を持っていると、
この世界は「わたしの外側」に広がっているように感じられる。

他者の言葉や態度、環境の変化、社会からの評価。
それらはすべて、
自分という中心に影響を与えてくる“外”として機能する。

このとき、「内」と「外」がはっきり分けられていて、
主体である自分が、その境界を守っているように見える。

■ 主体は、関係から生まれる“現象”なのかもしれない

この見方に立てば、「主体」とは明確な実体ではなく、
関係の中に一時的に生じる現象のようなものだと捉えることもできる。

「あなたがいたから、わたしになった」
「この場があったから、この自分が現れた」

そうした状況に応じて立ち上がる“仮の輪郭”を、
わたしたちは「わたし」と呼んでいるだけなのかもしれない。

■ “固定されたわたし”が揺らぎはじめるとき

このような見方を持ち始めると、
自分を語る言葉も変わってくる。

「私はこういう人間です」と断定するのではなく、
「そのときの自分はこう感じた」「その場ではこうふるまった」と、
場面ごとに分けて語るようになる。

そこには、「揺れること」を許容する姿勢が含まれている。

固定された“わたし”を探し続けるのではなく、
そのときどきに立ち上がる“わたし”を見ていくという姿勢である。

Vol.2|主語なき飛行

— “主語”のないマーマレーション -

誰が先頭にいるわけでもないのに

ある日、マーマレーションの映像を見ていた。
数百羽、数千羽のムクドリが、一体となって空を飛び回る。
ぶつかることもなく、乱れることもなく、それでいて整っている。

見ているうちに気づいたのは、
そこには誰かが指示を出している様子も、
先頭を飛んでいる個体も見当たらないということだった。

命令も計画もないように見える。
それでも、全体がひとつの動きとして成立している。

■ 隣り合う“あいだ”だけで、全体が動く

研究によると、マーマレーションでは
1羽1羽の鳥が、自分の周囲の6〜7羽の動きに合わせて飛んでいるらしい。

それぞれが隣の動きに反応し、
その影響が連鎖しながら群れ全体に伝わっていく。

つまり、全体を動かしているのは、命令でも計画でもなく、
局所的な相互調整の積み重ねである。

あるのは、関係の中で起きるリアルタイムな調整だけだ。

■ 主語のない動き

この飛行には、「意志のようなもの」が感じられる。
ただし、それは誰か個人の意志ではない。
誰かが指揮しているわけでもない。

そこでは、“わたし”という主語が立っていない。
しかし、動きは起きている。

つまり、動きを生み出しているのは、
「あいだ」そのものかもしれない。

こうした動きは、人間の世界にも似た構造がある。

たとえば、対話。
たとえば、即興的な音楽や踊り。
あるいは、誰かの沈黙に反応して生まれる言葉。

そういった場面では、誰かひとりが主語になっているというよりも、
関係のなかで反応が起きている。

■ 主体をめぐる構図の見直し

マーマレーションを見ていると、
「主体とは誰か?」という問いそのものが
少し違っているように思えてくる。

「主体があるから行動が起きる」のではなく、
関係の中での反応や調整が先にあって、
あとから主体のようなものが立ち上がるのかもしれない。

行動の背後に、常に意図や指令があるとは限らない。
状況との応答の積み重ねが、
結果としてひとつのまとまりをつくっている場合もある。

■ 主語の余白がある場

誰かが話すとき、そこに「主語の余白」があると、
他の人が入り込む余地が生まれる。

それは、場を支配しようとせず、
むしろ余地を開いておく姿勢でもある。

マーマレーションのように、
個々が他者の気配を察知しながら調整する場面では、
それぞれが自律していながら、全体としての動きが生まれていく。

誰かが主語を独占するのではなく、
それぞれが主語になったり、ならなかったりしながら場に関わっている。

そうした状態を成立させるために、
「あいだ」を感知する力が求められる。

Vol.3|場が動くとき

— 誰が動かしているのでもないのに、場が動き出すとき -

リーダーがいないのに、動いている場がある

誰かが強くリードしているわけではないのに、自然と流れが生まれる場がある。
誰かが発言を始めたわけでもないのに、場の呼吸が合っていくような感覚。
そういう場に出会ったことがある。

そこには、強い主張や仕切りはない。
むしろ、誰かが“主語”を独占していないことが、居心地のよさにつながっているように感じられる。

■ 「余白を残す人」が場にいる

そのような場には、目立たないが重要な役割を果たしている人がいることが多い。

流れを操作するわけではなく、
ただ周囲をよく見ている人。

発言が少なくても、周囲の動きや空気を読み取り、
誰かが話しやすくなるような雰囲気をつくっている。

発言を整理するわけでもない。
けれど、その人がいるだけで、
他の人が安心して発言できるようになる。

つまり「主語になってもいい」と思える雰囲気が、場に広がる。

■ 「語りすぎない」という姿勢

「余白を残す」とは、何も語らないことではない。
ただ、自分の語りで場を閉じないということ。

たとえば、「こう思います。皆さんはどう感じましたか?」という言い方には、
次の人に手渡す意図がある。

また、「それって、どういう意味ですか?」と問い返す姿勢には、
相手の中にある言葉を引き出そうとする関心がある。

語りながらも、同時に場の状態を見ている。
そうした姿勢が、他者にとっての安心やきっかけにつながっている。

■ 支配ではなく、共鳴によって場は動く

これまでのリーダー像には、
「方向を示す」「導く」といったイメージが多かった。

だが、マーマレーションのような動き方においては、
「導かなくても、全体は動く」という構造が見えてくる。

リーダーは「主語」になるのではなく、
主語が自然と立ち上がるための環境を整える人とも言える。

直接的に動かすのではなく、
動きが生まれる条件を保つことに力を使っている。

■ 誰も主語になりすぎないとき、人は話しやすくなる

全員が主語になれることと、
誰もが常に主語であり続ける必要がないことは、別の話である。

主語の役割が固定されていない場では、
人は話しやすくなる。

「この人が引き出してくれた」という感覚ではなく、
「この場なら話せる気がした」という感覚が生まれる。

そこにいた誰かが場を整えたのではなく、
場そのものが語りやすい状態になっていた。

Vol.4|揺れている、わたし

— “わたしらしさ”は、ずっと揺れていていい -

「自分を持て」と言われ続けてきたが

「自分らしさ」や「自分の軸を持つこと」は、
長らく大切なものとして語られてきた。

「ブレない生き方」「信念を持った人間」などの言葉が、
それを支えてきた。

しかし、そうした“らしさ”が、
自分を縛るかたちに変わっていったという感覚がある。

「私はこういう人間です」と言い切ることが、
安心になる一方で、自由を狭めることもあった。

■ わたしは、関係のなかで立ち上がる

Vol.1でも触れたように、
「わたし」という感覚は固定されたものではなく、
誰かとの関係のなかで、そのつど立ち上がってくる。

今日は落ち着いて話せたが、昨日は不安で言葉が出てこなかった。
ある人と一緒にいるときは自然にふるまえるが、
別の場面では緊張して身動きがとりづらくなることもある。

そうした違いは、「自分がブレているから」ではなく、
そのときどきの状況や関係によって、
「わたし」が立ち上がるかたちが異なっているということかもしれない。

■ 「揺れていること」は不安定ではなく、応答である

かつては、揺れている自分に対して、
自信のなさや軸のなさを感じていた。

周囲に合わせて変わってしまう自分が、
頼りないようにも思えた。

今は、「揺れ」は反応であり、応答であると考えている。

環境の変化に反応する。
人の声や表情に気を配る。
空気の重さに少し黙る。

そういった動きの中に、
むしろ自分の感覚や判断が表れているのかもしれない。

自分らしさとは、固定された性質ではない

「自分らしさ」は、あらかじめ決まっているものではなく、
状況や関係のなかで、都度かたちづくられていく質感のようなものだと捉えている。

そしてそれは、自分ひとりの内側だけでは確認できない。
誰かとの関係ややり取りの中で、立ち上がってくる。

一人で決めた「これが私だ」という像は、
時間とともに崩れていくこともある。

だが、誰かとの関係のなかで見えてきた「自分」は、
繰り返し更新される可能性がある。

その数だけ、自分のかたちも変わっていく。

Vol.5|主語が消える時

— わたしという主語が、いなくなってもいいとき -

語ることに疲れる時がある

何も語りたくなくなる時がある。

誰かに伝えることも、
自分の考えを言葉にすることも、すべてが遠く感じられる。

「わたしはこう思う」という感覚すら、うまくつかめない。

そうしたとき、自分の言葉が表面的に思えてくる。
人に向けて語った自分も、どこか他人のように思えてくる。

「自分を持つべきだ」
「自分の考えを発信すべきだ」

そんな言葉を繰り返し聞いてきた結果、
語り続けなければならないような感覚が残っていたのかもしれない。

■ 主語がなくても、存在は消えない

それでも、そうした時の中にも、
自分がいなくなったわけではないという感覚が残ることがある。

言葉にはならなくても、
呼吸のリズムや身体・心の変化の中に、自分の存在を感じることがある。

そこにあるのは、「誰かに語る自分」ではなく、
ただその場にいる状態そのもの。

名前や主語を必要としない、
自分の在り方がある。

■ 語ることから離れることで、関係が立ち上がることもある

主語を持たなくても、人とつながることはできる。

むしろ、自分が語らなくなったときに、
誰かが自然と話し始める場面もある。

語ることで立ち上がった「わたし」が、
いったん言葉を置いたとき、

空白の中から新しい関係が生まれてくることもある。

それは「個」が消えたわけではなく、
「個」が関係の一部として、
別のかたちで現れているとも言える。

■ “わたし”という現象を、そのまま受け入れていく

これまで、「わたし」という主語を立てて語ることで、
自分を確かめようとしてきた。

今思うのは、
それが立ち上がるときもあれば、
沈んでいくときもあるということ。

語れるときもあれば、語れないときもある。

それらをすべて含めて、
「わたし」という現象をそのまま受け入れていくことができるかもしれない。

常に主語を立て続ける必要はない。
語れないことや、揺れ、空白も含めて、
自分の一部として扱っていく。

■ 終わりに

「主語」は、関係の中から立ち上がる。
そしてその関係の中で、
わたしたちは今日も、何かとつながりながら存在している。

語ることだけが主体性ではない。
語らないこと、語れないこともまた、
ひとつの関係のかたちである。

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