”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 空を知っても、色を生きる 》

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プロローグ:

悟りたいと願いながら、また甘いものを食べすぎて後悔している。
空(くう)を知ったつもりで、色(いろ)に翻弄される。

そんな日々のなかに、赦しも、痛みも、愛おしさもあるのだとしたら──
私たちは、ただ「今日を生きている」それだけで、もう十分なのかもしれない。

第Ⅰ章|“わかってたつもり”の正体

「あのとき、ちゃんとわかってたはずなんだけどな」
そんなふうに言い訳をするときの“わかっていた”という言葉は、案外あやしい。

たいていの場合、それは“そう思い込んでいた”に近くて、
もっと言えば、“わかっていたことにしておきたかった”という心の都合だったりもする。

愚かだったとは、すぐには思えない。
あの判断も、あの行動も、その瞬間にはそれなりに必死だったのだ。

むしろ今振り返って、「あれは間違いだった」と言える今の自分のほうが、
少しだけ安全な場所にいるだけなのかもしれない。

自分の未熟さや粗さには、たいてい後から出会う。
それが“気づき”というやつなのかもしれないし、
もっと言えば、“赦し”の出発点もそこにあるのかもしれない。

あのとき、傷つけてしまった誰かがいる。
自分を守るためについた嘘がある。
それでも、自分は自分であり続けるしかない。

言い訳も、後悔も、ちゃんと抱えたまま、
赦しが訪れるとすれば、それは「過去を許す」ことではなく、
「このまま生き続けることを、選び直す」ことなのだと思う。

第Ⅱ章|足ることを知らないという、現代の飢え

どれだけ満たしても、満ち足りることのない感覚。

「もっと評価されたい」
「もっと成果を出したい」
「もっと意味のあることをしたい」──
そんな“もっと”の渇きが、日々の決断を加速させていく。

面白いのは、こうした渇望は「足りない」と感じたときにだけ起こるわけではないということだ。
むしろ、ある程度は満ちている状態──
肩書も、役割も、数字も、仲間も──
すでに“ある”状態の中でこそ、じわじわと現れる。

「このままでいいのか?」
「次は何を目指せばいいのか?」
問いが問いを呼び、気がつけば“追われるように”未来を消費している。

こうして、足りなさは「事実」ではなく、
「感覚」として私たちを縛る。

誰がそれを教えたわけでもない。
でも、私たちはいつからか“満たされない自分”を当たり前にしてしまった。

そこから抜け出すには、“もっと”を手放す勇気がいる。
けれど問題は、“手放す”ことそのものではない。

それよりも、「もっと」を追う自分を、どこかで愛おしんでいることに気づいてしまう瞬間だ。
つまり、「足りないままの自分」を自分が一番、見捨てられないのだ。

たとえば、金を払って太り、また金を払って痩せようとする──
そんなループに心当たりがあるのは、きっと私だけではないはずだ。

満腹になりたいのか、空腹でいたいのかも、もうわからなくなっている。
欲望の正体を見失ったまま、それでも何かを追いかけている。

なんの妖怪に取り憑かれてるの?って、我ながら思う。
でもたぶんそれが、人間ってやつなんだ。

バカみたいに無駄なことをぐるぐるやって、
そのエネルギーを消費することで、ようやく自分の輪郭を感じてる──
そんな生き物なんだと思う。

だからこそ、やっぱり愚かで、
だからこそ、ちゃんと愛おしい。

第Ⅲ章|“赦し”に触れる、その手前で

欲しいものは、もうずいぶん手に入れてきたはずなのに。
毎日なにかに追われて、頑張って、疲れて、また寝て──
なのに、なにかが物足りない。

なにかを感じていたはずの心が、いつの間にか、鈍っている。

もしかすると──
私たちは少し、不感症になっているのかもしれない。

すぐに退屈する。
すぐに飽きる。
何かを感じたいのに、何も感じられない。

その空白をごまかすように、
“もっと強い刺激”を欲しがってしまう。

赦しとは、そんなふうに“何かを感じられなくなった心”に、
少しずつ感覚が戻ってくるプロセスなのかもしれない。

それは、「許してあげよう」という大人な選択じゃない。
もっと、ゆっくりと温度が戻ってくるようなこと。

たとえば、誰かの何気ない言葉で、
あるいは、ふとした瞬間の風景で、
封じ込めていた感情がじわりと滲み出してくる──
そんな形でしか訪れないものなのだと思う。

赦しは、正義じゃない。
ましてや、他者のための美徳でもない。

それは、自分の内側にある
“もういいんじゃない?”というささやきに、そっとうなずく瞬間なのだ。

怒りも、悲しみも、恥も、後悔も、ぜんぶを否定せずに、
「それでも生きる」という方向に、自分を向けなおすこと。

だから赦しとは、判断のことではなく、
方向のことなんじゃないだろうか。

不感症だった心に、感覚が戻ってくる。
それは、痛みも一緒に戻ってくるということだ。

けれどその痛みこそが、私たちを生かしていることの証でもある。

赦しは、痛みを抱えたまま、
それでもなお、今日という日に加わること。

「ごめん」と言えなくても、
「ありがとう」と言えなくても、
それでも今日を終わらせる。

そんなささやかな合図のようなものかもしれない。

第Ⅳ章|空を知っても、色を生きる

— 「色即是空、空即是色」 -

その言葉の意味を、どこかで聞いたことはある。
すべての現象は空(から)であり、空なるものが色(形あるもの)として現れている。
だから執着から自由になれ、と。

とはいえ、そんな理屈を知っていても、
今日も私は、甘いものを食べすぎて後悔しているし、
誰かの言葉に一喜一憂しているし、
SNSの“いいね”の数でちょっとテンションが上下している。

たぶん私たちは、「空を理解したつもり」で、
「色を生きること」に抗っているのだ。

静かに微笑む悟り顔をして、
ほんとうは何も感じたくないだけだったり、
痛みや怒りを“手放すべきもの”として片付けてしまったり。

でもそんな自分を見て、ふと疑うことがある。

「それ、死んでからいくらでもできるんじゃね?」

そう思った瞬間があった。

“無になりたい”“静かでありたい”“超越したい”──
その願いはたしかに高潔かもしれないけれど、
今この生を生ききる覚悟からは、どこか遠い気もした。

それでも、私たちはここにいる。
血が流れて、腹が立って、欲があって、くだらないことで笑う。

赦しきれないし、忘れられないし、
みっともなく嫉妬したり、羨んだり、取り繕ったりしている。

それを全部やった上で、それでもなお──
「それでも今日をちゃんと生きている」
ということに、どうしようもなく美しさを感じてしまうのだ。

だから思ってしまった。

釈迦って、もしかして、〇カなんじゃね? ……なんて。

もちろん、本気でそう思っているわけじゃない。
ただ、“この生を突き抜けた人”に対して、
いまだこの世の泥の中でもがいている私から出てきた、本音のジョークだった。

「空即是色」。
空を知っても、色を生きる。

赦しも痛みも愚かさも、そのまま持ったまま、ここで呼吸をしている。
それだけで、いいじゃないか。
それだけで、ちゃんと、生きているんだから。

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