”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 正しさが孤独を生むとき》

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プロローグ|“正しさ”は、いつから孤独の源になったのか

かつて、言葉は希望だった。
理不尽に輪郭を与え、「それだ」と思わせてくれる、小さな光だった。
けれどその光は、いつしか強すぎて、誰かの声をかき消していった。

「正しい言葉」が流通する社会で、私たちは何を信じ、何を見失ってきたのか。
このコラムでは、「正しさ」に潜む暴力性と、そこに宿った本来の願いの行方をたどっていく。

問いはただ一つ。
その言葉は、ほんとうに誰かと共に生きていただろうか?

Vol.0|言葉は、誰を救い、誰を置き去りにするのか?

“良きもの”として現れ、
“理想”として語られ、
“ノイズ”として忘れられていった言葉たち 

かつて、あの言葉に救われた気がした。
初めて耳にしたとき、「それだ」と思った。

目の前にあった違和感が言葉になることで、
私たちは、見えない地図のなかに立っていることに気づいた。

でも、しばらくして気づく。
その言葉が、どこかでズレていくこと。
使うたびに、理想との距離がにじむこと。
言えば言うほど、自分の輪郭がぼやけていくこと。

気づいたときには、もう手遅れかもしれない。
その言葉は“良きもの”から“うるさいもの”に変わり、
誰かの「正しさ」ではなく、「自分を縛るもの」になっていた。

「どうして、こんなに孤独なんだろう」

それは、言葉のせいだろうか。
それとも、私たちの“言葉との付き合い方”の問題なのだろうか。

 

いくつもの「正しさ」が流通してきた。
エシカル。ダイバーシティ。エンパワーメント。ウェルビーイング。

名指しはしないけれど、どれも「よりよく生きたい」という願いが込められていた。

でも、その願いが熱を帯びすぎると、やがて変質していく。
マーケティングに消費され、信仰のように語られ、戒律として振る舞い始める。

そして、「その言葉を信じて動き出した人」が、最も苦しむことになる。

思うようにいかない現実と、自分の未熟さに挟まれて、
「これでも、まだ足りないのか」と、
自分にだけ、より厳しい“正しさ”を課してしまう。

いつの間にか、その人は誰よりもまじめに、
誰よりも強く“言葉”を信じていた、ただの人だった。


 

このシリーズでは、「なぜ正しさが孤独を生むのか?」という問いから出発し、
言葉と倫理と私たちの関係性を、たどりなおしていく。

その言葉は、ほんとうに私の味方だったのか。
誰かの声を、無意識に消してはいなかったか。
その言葉を使うとき、私は何を担い、何を引き受けようとしているのか。

この時代に、
それでも“言葉とともに生きる”ということの意味を、
もう一度、自分の言葉で確かめていきたい。

Vol.1|戒律化する善意

— “正しくあること”が関係性を壊すとき

(よかれと思った言葉が、誰かを黙らせてしまう paradox)

■ 「正しさ」に潜む静かな違和感

ある言葉に出会ったとき、
それが「正しい」と思えるほどに、人はその言葉に自分の在り方を重ねたくなる。

それは悪いことではない。
むしろ、誠実で、真摯な態度の表れだ。

この社会で、あらゆる分断や不条理を前にしながらも、
「少しでもましな未来を」と願うこと。

それはまっすぐな衝動であり、だからこそ、
「正しくあろうとすること」は、私たちの良心の証でもある。

ところが…

ある瞬間から、その“正しさ”が、空気を冷やしていく。
場にいた誰かが、ほんの少しだけ息を詰める。

その沈黙に、気づけなかった自分のまま、話を続けてしまったことがある。
あるいは、逆に、自分がその“正しさ”の前で、言葉を飲み込んだこともあった。

「間違っているとは思わない。でも、なんだか話しづらい」
「言ってることは正論だけど、その場が急にしんとする感じがある」

——そんな場面が、あなたの記憶にもあるのではないだろうか。

善意ゆえの言葉が、なぜ、関係性を閉じてしまうのか。
正しくあろうとすることが、なぜ、問いかけや対話の余白を奪ってしまうのか。

ここには、目に見えにくい“優しさの暴力”の構造が潜んでいる。

■ 「正しさ」の裏側に潜む沈黙の圧力

たとえば職場で、誰かが「やっぱり環境に配慮した取り組みをすべきだよ」と言ったとき…
その場にいる誰かは、「うん、そうだよね」と頷きながらも、心のどこかでこんなことを考えていたかもしれない。

「でも現場には余裕がない」
「コストとの両立が難しい」
「そこまでやるほどのモチベーションが湧かない」

……そんな声は、往々にして“わがまま”や“無理解”と片付けられてしまう。
まるで、「言うべきこと」と「言ってはいけないこと」が、あらかじめ線引きされているかのような空気だ。

ところが――

正しさが語られるとき、そこには“語る自由”と同時に、“語れない不自由”も立ち上がる。
そしてその場に沈黙が生まれると、多くの人はそれを「納得」や「同意」だと誤解してしまう。

実際には、それは「矛盾を口にしてはいけない空気」かもしれないのに。

善意で語られた言葉が、結果として誰かの声を奪ってしまう——
この静かな 矛盾は、「正しくあること」が持つ暴力性と深くつながっている。

“より良く”あろうとする志は、たしかに尊い。
とはいえ、 もしその“より良さ”が、他の視点や感情や状況を「ノイズ」として扱いはじめたら?

それはもう、関係性を育てる言葉ではなく、
「正しさという構え」になってしまう。

■ 正しさが奪うもの、関係が育むもの

あるとき、自分の正しさが誰かを傷つけていたことに、ふと気づく瞬間がある。

「そんなつもりじゃなかった」と思う。

けれど、「そんなつもりじゃなかった」は、関係の断絶を修復するには足りない。

語る側が“正義”を背負うほど、語られる側は“劣位”に置かれる。

どれだけやわらかく語ったとしても、「それ、やるべきだよね」は、「やっていないのは間違っているよね」という含意を、静かに漂わせてしまう。

そこに問いはない。あるのは、判断だ。

そして判断は、関係性の動きを止める。

善意が戒律となり、意図しない“管理のまなざし”を生むとき、私たちは知らず知らずに、関係の風通しを塞いでしまっている。

「正しさ」という衣をまとった言葉が、実は誰よりも、問いや感情の揺らぎを受け止める余白を奪ってしまっているのだ。

でも、言葉のすべてがそうなるわけじゃない。

正しさを手放すことは、あきらめではない。

それはむしろ、関係を信じること——

自分の正しさに、誰かを服従させなくても、私たちは一緒にいられる、という感覚。

だからこそ、言葉は問いとして響くときにこそ、他者との間に“場”を開いていく。

「こうあるべきだ」ではなく、「私はこう思う、あなたはどう?」と差し出された言葉にだけ、関係は芽吹く。

“正しさ”はときに関係を壊してしまうが、

“関係性”を育てる言葉が、正しさの外側に芽生えることもある。

その微かな芽を、私たちは、見失わずにいられるだろうか。

Vol.2|選ばれし者たちの孤独

— 言葉が生む選民思想

(言葉の正しさに酔うことが、なぜ世界との距離を生むのか)

■ 正しさの旗を掲げたとき、世界は遠ざかる

「これは正しいことです」と誰かが言うとき、
その言葉の背後には、無意識の序列が生まれる。

意図せずとも、
「それに賛同できる者」と「そうでない者」とのあいだに、見えない線が引かれる。

そして、線を越えられる人々だけが“こちら側”に招かれ、
越えられない者たちは“向こう側”に置き去りにされる。

言葉は、人と人とをつなぐはずだった。
なのに、正しさという名の旗を掲げた瞬間、
言葉は、選別の装置へと変わってしまう。

■ “よい人たち”の静かな苦しみ

多くの場合、「エシカル」や「サステナブル」といった言葉を実践する人々は、
世界をよりよくしたいと本気で願っている。

その志が疑わしいわけではない。
それでも、そこに宿ってしまう“ある静かな苦しみ”がある。

たとえば、「エシカルであること」が日常のあらゆる選択に染み込んでいくとき、
それはやがて信仰に近い態度を生む。

そしてその信仰は、

「そうでいられない人」
「一歩踏み出せない人」
「知識が足りない人」

に対して、無意識のうちに優越感と距離をつくりはじめる。

「わたしは、正しくあろうとしているのに」
「なぜ、あの人たちはそうしようとしないのか?」

その問いが生まれた瞬間、“善意”の中に、選民的な孤独が芽吹く。

■ 承認されるために、正しくなろうとする

やや別の角度から見るならば、「正しくあること」は今、承認されるための通行証になっている。

SNSで賞賛される活動、メディアで持ち上げられる発言、企業のプロモーションに乗りやすい立場——
そこにアクセスできるのは、「正しい言葉」を知っている人たちだ。

だから、社会に声を届けたければ、仲間を得たければ、言葉を“学び”、正しく“振る舞う”ことが求められる。

ただ、それは本当に自分の言葉だろうか?

言葉の外からやってくる“正解”に合わせようとするうちに、私たちはいつしか、
自分の願いよりも、規範に適応することを優先してしまう。

そのとき、「正しい言葉」は、個人の表現ではなく、“通貨”になっていく。

■ 世界を変えるはずの言葉が、「わたし」を置いていく

言葉は、本来、誰かに寄り添うために、痛みに触れるために、生まれてきたはずだった。

ところが今、「正しい言葉を知っていること」が力になり、「そうでない人」が見えなくなる。

いつの間にか、世界を変えようとした言葉が、
わたしの孤独を深め、誰かの声を遠ざけるものになっていないか?

正しさの言葉に酔い、語ることに熱中するうちに、
私たちは、手の届く距離にいたはずの人の、沈黙や戸惑いに気づけなくなってしまう。

言葉は、誰かを救うこともできる。
でも同じくらい、誰かを“ひとりにする”こともあるのだ。

Vol.3|消費される理想

— マーケティングが奪った「願いの言葉」

(流行語化することで、“希望”が“商品”に変わる構造)

■ 願いが、パッケージに詰められていくとき

「ロハス」「オーガニック」「スローライフ」。

かつては、“より良く生きたい”という願いや問いを託されていた言葉たち。

便利さや効率を追い求める社会の中で、
人間らしさや自然とのつながりを取り戻そうとする試み。
それは「いまのままではいけない」という直感に根ざした、静かな抵抗でもあった。

なのに今、そうした言葉たちは、
商品のキャッチコピーになり、CMのBGMになり、
「ちょっといい暮らし」の代名詞として売られるようになっている。

本来そこにあった問いや願いは、どこへ行ったのだろう?

■ 理想を「誰かが届けてくれるもの」へと変えてしまう装置

マーケティングは、人の願いを言語化し、商品にする。
その仕組み自体が悪いわけではない。

ただ、そこに“変化の外注”が起こるとき、問題が生まれる。

たとえば、「スローライフ」という言葉。
それは、働き方や暮らしのペースを問い直す提案だったはずなのに、
いつしか「おしゃれな田舎暮らし」や「丁寧な暮らし」のブランド名になっていった。

その瞬間、理想は「誰かが作ってくれた体験セット」として売られるようになる。

■ 言葉が“ブランド”になるとき、痛みは見えなくなる

「オーガニック」という言葉も、本来は、
環境負荷や労働条件と向き合うための選択肢だった。

でも、それが“高級志向”と結びつき始めたとき、
言葉は“善意の象徴”から“意識の高さ”の記号へと変わってしまう。

その結果、「語る権利」も「選ぶ資格」も、特定の層に限定される。

■ 願いの言葉が、誰かの口から離れていく

一番の問題は、こうして“きれいな言葉”になったとき、
それを最初に必要としていた人々が、もうそれを口にできなくなることだ。

高価なオーガニック製品を買えない人。
“意識が低い”と見なされる暮らしをしている人。
正しい言葉を知らないがゆえに、責められてしまう人。

そうした人々が、自分の経験や痛みを語ろうとしたとき、
その言葉は「古い」「浅い」「ズレている」と退けられてしまう。

言葉が洗練されすぎると、
本当にその言葉が必要だった人の声が、届かなくなるのだ。

■ 本当に取り戻したいのは、「不完全なまま願える自由」

私たちがもう一度見つめ直したいのは、
言葉が流行になる前の、未完成で不器用な声たちかもしれない。

それは、洗練されていないし、
正確な知識にも、かっこいいライフスタイルにもつながらないかもしれない。

でもそこには、何かを願おうとする切実さがある。
そしてその願いこそが、言葉に本来宿っていた力だったはずだ。

商品ではない言葉。
ブランドではない理想。
誰かに届けるためではなく、自分の中から生まれてくる声。

それを、もう一度すくいあげることから始められないだろうか。

Vol.4|使い捨てられた言葉たち

— 「倫理」という名の死骸

(傷ついた言葉、誤解された言葉、もう口にできない言葉たちの行方)

■ あの言葉は、どこへ行ってしまったのか?

一時は誰もが口にしていた言葉。
街にあふれ、SNSで飛び交い、企業がこぞって看板に掲げた言葉。

けれどある日を境に、その言葉は、急に色あせたように見えなくなる。
忘れられたわけではない。ただ、人々が口にするのをやめただけだ。

「ナチュラル志向」
「個性を大切に」
「丁寧な暮らし」

かつて希望を託された言葉たちが、
いまや皮肉や疲弊とともに語られるようになっているのは、なぜだろう?

■ 倫理という「正しさ」の暴走

「倫理的であること」は、本来、
誰かの痛みに想像力を持ち、行動を変えることだった。

ところが、その“倫理”が、いつしか
「こうするべきだ」「それは間違っている」という指導的態度へと変化していく。

そのとき、言葉は問いかけではなく、命令になる。
対話ではなく、正解の提示になる。

そして、正しさに疲れた人々は、
その言葉を避けるようになり、
やがて、「倫理」という言葉自体が、うっすらとした嫌悪感をまとうようになる。

■ 傷ついた言葉、誤解された言葉

ある言葉が、ただ消費されただけでなく、
「誤用」や「誤解」のうちに拡散されるとき、
その言葉は本来の意味を失い、“疑似倫理”の看板として利用される。

たとえば、「多様性を大切に」というスローガンが掲げられながら、
実際には声の大きな人だけが取り上げられ、
「意見を出せない人」や「不器用な表現しかできない人」が排除されていく現象。

あるいは、「インクルーシブであれ」という言葉のもとに、
特定の“模範的当事者像”だけが歓迎され、
語り方を間違えた瞬間に糾弾される空気が生まれる。

そうして言葉は、人を守るための道具ではなく、
人を傷つけるための刃物になっていく。

■ 「もう、その言葉は使いたくない」という感覚

疲弊した人が最初に手放すのは、
その言葉の意味ではなく、「その言葉を口にする権利」だ。

「なんだかもう、ロハスって言葉を使うのが恥ずかしい」
「どうせ意識高いだけに見られる」
「この言葉を使った瞬間に、何かを背負わされる気がする」

そんな声が聞こえてくるとき、
その言葉はすでに、“倫理”としての命を失いかけている。

それはまるで、身体を失った亡霊のように、
意味だけが空中を漂っている。

■ 使い捨てられた言葉の墓場

いま私たちは、膨大な“かつての希望の言葉”に囲まれて生きている。

それらは、もとは誰かの切実な祈りだった。
誰かが、声をふりしぼって語った言葉だった。

ところが、その言葉を「商品」や「常識」に仕立てた瞬間から、
言葉は、疲労と幻滅の対象へと変わっていく。

そして、「それを語ると面倒だと思われる」「信頼を失う」といった気配の中で、
人々は、かつて信じていたはずの言葉を、黙って墓場に埋めていく。

■ それでも、言葉の死骸を見つめるということ

使い捨てられた言葉たちは、
「使い方を間違えたから」
「賞味期限が切れたから」
という理由だけで消えたわけではない。

それは、私たちが言葉の重さと、他者との関係を、
引き受けきれなかった証でもある。

言葉が死んでしまうとはどういうことか。
それでも言葉と生きるとは、どういうことか。

Vol.5|崇拝と呪縛

— 言葉に一切を捧げてしまう私たちの弱さ

(なぜ人は、“言葉の正義”に自己を投影しすぎてしまうのか)

■ 正しさにすがりたくなる時がある

誰かを否定したかったわけじゃない。
ただ、「自分は間違っていない」と思える場所がほしかった。

不安や無力さに押しつぶされそうな夜、
“正しい言葉”は、自分を守ってくれる小さな鎧だった。

「環境に配慮するべきだ」
「差別をなくさなければならない」
「一人ひとりが責任を持って選択する社会を」

そのどれもが、正しくて、美しい。

それでも、言葉の正義に頼りすぎたとき、
私たちは“関係”を見失っていく。

■ 言葉に「自分のすべて」を預けてしまうとき

たとえば、「これはサステナブルじゃない」と糾弾する声。
それが誰かの行動を問い直すための対話であればいい。

ところが、時にそれは、「私は正しい側にいる」という確認作業になる。

そこにあるのは、
相手との対話ではなく、
自分の不安から目をそらすための手段としての正義。

つまり、言葉に自分のすべてを預け、
それが“壊される”ことを恐れて、
他者の声を封じてしまう。

■ 正しさの“祈り”が、いつしか“呪い”に変わるとき

言葉が正しければ正しいほど、
それに従わない人は「未熟」や「加害者」として見なされやすい。

善意で語った言葉が、
いつの間にか誰かを裁く基準になり、
世界を「わかる人」と「わからない人」に分けてしまう。

そうして、「正しさに祈る人」は、
気づかぬうちに「正しさで縛る人」に変わっていく。

■ 私たちは、“言葉に救われた経験”があるからこそ

なぜ人は、そこまで言葉に自己を託してしまうのか。

それは、きっと——
過去にその言葉に救われた経験があるからだ。

孤独だったときに出会った「あなたはそのままでいい」という言葉。
苦しかった日々を照らしてくれた「世界は変えられる」という希望。

その言葉があったから、前を向けた夜が、たしかにあった。

だからこそ、その言葉を“守らなきゃいけないもの”にしてしまう。
誰かに揶揄されるのが怖くて、反論されると心がざわついてしまう。

でも、言葉は神ではなく、灯りのようなものだったはずだ。

■ 自分の輪郭を、正義のかたちに重ねすぎない

自分の内側にある不安や痛みを、
「正しい言葉」の外殻に閉じ込めてしまうと、
その言葉が疑われた瞬間、私たちの輪郭も崩れてしまう。

でも、本当は——
言葉は壊れても、私たちは壊れない。

私たちは、言葉を信じながら、
それでもなお、言葉から自由になれる。

正義にすがりたくなる自分を否定せずに、
その奥にある願いや傷つきやすさを、そっと見つめてみたい。

言葉に祈るのではなく、
言葉を手渡すことで、関係をもう一度始めてみるために。

Vol.6|それでも、言葉とともに生きるために

(言葉の正しさではなく、“関係を生きること”を選ぶにはどうすればいいか)

■ 正しさの“終着点”ではなく、問い直しの“出発点”へ

誰かを否定したかったわけじゃない。
ただ、「自分は間違っていない」と思える場所がほしかった。

不安や無力さに押しつぶされそうな夜、
“正しい言葉”は、自分を守ってくれる小さな鎧だった。

「環境に配慮するべきだ」
「差別をなくさなければならない」
「一人ひとりが責任を持って選択する社会を」

そのどれもが、正しくて、美しい。

それでも、言葉の正義に頼りすぎたとき、
私たちは“関係”を見失っていく。

■ 「わかること」より、「わかろうとすること」

誰かと違う意見に出会ったとき、
私たちはつい、「わからせたい」と思ってしまう。

正論で、情報で、歴史的事実で、
“相手を変えよう”としてしまう。

でも、言葉が関係を生むのは、
「わかること」ではなく、
「わかろうとすること」に踏みとどまったときだ。

理解より、対話。
正解より、まなざし。

その姿勢が、言葉を通じて“生きた関係”をつくっていく。

■ 言葉が壊れても、関係は壊れない

傷ついた言葉、誤解された言葉、すれ違った言葉。
それでも、やり直せる関係はある。

「そんなつもりじゃなかった」と伝える勇気があれば、
言葉の行き違いは、必ず関係の断絶にはならない。

言葉が壊れても、関係は壊れない。
それを信じることが、私たちを言葉の呪縛から自由にする。

■ 不完全なまま、ことばを渡し合うこと

正しさを言い切ることではなく、
たしかな不完全さを、たしかなまなざしで受け取ること。

「うまく言えないけど……」
「ちょっと間違ってるかもしれないけど……」

そんな風に、おそるおそる差し出される言葉にこそ、
本当の関係が宿ることがある。

完璧な言葉じゃなくていい。
不安定なままで、臆病なままで、
それでも誰かとつながりたいと思う、
その姿勢がすべてだ。

■ 言葉は、わたしたちの“いま”を生きる道具である

「言葉に希望を託してはいけない」というわけじゃない。

ただ、言葉は“絶対的な答え”じゃなくて、
“いま”を生きるために選び取る、仮の道具なのだ。

だから私たちは、
言葉の“正しさ”ではなく、
いまここで誰かと生きるための“やさしさ”を選んでいきたい。

問いながら、迷いながら、すれ違いながら、
それでも関係をつなぎ直すために、
言葉とともに、生きていく。

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