理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 正しさからの撤退論 》

- 戦略的「負け」のススメ -

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プロローグ:

「逃げることは悪いことだ」
そんな前提が、私たちの中に深く刷り込まれている。

だが、すべてを「やりきる」ことだけが正しさなのだろうか。
ときに撤退は、生き延びるための戦略であり、
自分を守るための高等技術かもしれない。

このコラムでは、「逃げる」という行為に新しい光を当てながら、
私たちが無自覚に抱える“正しさ”の輪郭を見直してみたい。

Vol.0|高等技術「尻尾を巻いて逃げる」

— 「正しさ」の裏で、静かに疲弊していく人 -

「逃げる」は、ほんとうに「悪」なのか

「尻尾を巻いて逃げる」。
この言葉を聞いて、どんなイメージが浮かぶだろう。

弱さ? 臆病? 敗北?
それとも、なんとなく“情けなさ”のようなものだろうか。

おそらく多くの人にとって、「逃げる」という行為は、ポジティブなものではない。

子どもの頃から、さまざまな場面で
“逃げるな”“諦めるな”“最後までやり抜け”と繰り返し教えられてきた私たちにとって、
逃げることは、どこか“してはいけないこと”として染み込んでいる。

でも、ふと立ち止まって考えてみる。
果たしてそれは、本当に「正しい」前提なのだろうか。

「正しさ」は、誰のためのものか

「最後までやり抜く人は素晴らしい」。
確かに、それはときに人を支える言葉になる。

でも、その言葉が刃に変わる瞬間もある。
とくに、「もう限界かもしれない」と感じながらも、
それを口に出せない人にとっては。

逃げることを許されない社会には、共通した構造がある。
それは、「正しさは常に進むことにある」という前提だ。

立ち向かうこと、克服すること、努力し続けること。
——そのような価値が“正義”として、教育や組織文化の中に組み込まれている。

しかし、それはほんの一方向から見た物語でしかないかもしれない。

「逃げられなさ」が人を壊すことがある

“逃げてはいけない”という思想は、一見すると美しい。

でも、それが逃げ道を塞ぎ、命を追い詰める構造になってしまったとしたら?

過労で倒れるまで働く人。
限界に達しても「頑張らないと」と自分を責め続ける人。
もう立ち止まりたいのに、「逃げたら終わりだ」と思い込んでしまう人。

それらは、個人の弱さのせいだろうか。
それとも、「逃げることは許されない」という社会的な物語の副作用だろうか。

逃げることは、ひとつの“技術”かもしれない

動物は、危険を感じたら逃げる。
植物も、過酷な環境では自らの活動を最小限にすることで生き延びる。

生き物たちは、本能的に「生き残るための撤退」を知っている。
だとすれば、人間が“逃げる”こともまた、自然な防衛本能の一つだ。

逃げることは、怠慢ではなく、状況を見極め、限界を察知する力の発露なのかもしれない。

むしろ「尻尾を巻いて逃げる」という行為には、
自らを守るための知性やセンス、勇気が含まれているのではないだろうか。

逃げるという選択ができる人は、
自分の命を尊ぶことができる人だ。

撤退の再定義。それは敗北か、戦略か

この連載では、「逃げる」という行為を、もう一度見直してみたい。

それは敗北なのか、それとも戦略的な選択なのか。
私たちはどこまで、「正しさ」という見えないルールに縛られているのか。
そして、どのようにそれを“アンインストール”できるのか。

「尻尾を巻いて逃げる」という言葉が、
いつか人間らしさを取り戻すひとつの技術として語られるようになったとしたら。
それは、どんな世界を私たちにもたらすのだろう。

Vol.1|ヒーローに悪役が必要なように

— 「課題依存」という思考の罠 -

課題がないと不安になる

どんな場面でも、「課題を持て」という声が聞こえてくる。

自己啓発の本も、ビジネスの現場も、教育の現場も、
何かに取り組むことが“前向き”であり“正しい”とされている。

だが、ふと思う。
私たちはほんとうに、いつも課題を持ち続けなければならないのだろうか?

何も乗り越えるべきものがない状態、
問題を感じていない時間。

そうした“空白”の瞬間に対して、
なぜか、漠然とした居心地の悪さを覚えることがある。

それは、「このままではいけない」という、
どこかから聞こえてくる無言の圧力のせいかもしれない。

■ 「課題」がアイデンティティになるとき

ある人は、自分には「これを乗り越えなければならない壁がある」と語る。
ある人は、「この問題を解決することが私の使命だ」と語る。

そう語ることそのものが、力強く、美しく、肯定されやすい空気の中で
私たちは、課題があること=価値があることという
等式を、いつの間にか内面化してきた。

まるでヒーローが、悪役の存在によってその意義を証明されるように、
私たちは「解決すべき問題」があることで、
自分の存在に意味を感じている。

■ なにかを「乗り越えつづける人生」への疲労

課題を解決することには、確かに充実感がある。
前へ進む実感、わかりやすい成長の指標。

でも、それが続いていくと、
いつの間にか「休むこと」や「満ちること」がわからなくなる。

常に「次の課題」を探してしまう。
次の山を登らなければならない気がして、
立ち止まることが怖くなる。

なにも課題がない状態に耐えられなくなるのは、
もしかすると、
「課題のない自分には価値がない」という
どこかで刷り込まれた前提のせいかもしれない。

■ 自覚的に課題に向き合うということ

重要なのは、「課題を持たないこと」ではないのかもしれない。
むしろ大切なのは、自覚的に課題に取り組んでいるかどうかだ。

なぜその課題に向かっているのか。
それは本当に自分にとって必要なことなのか。

そうした問いを持ちながら課題に向かうとき、
私たちはようやく気づく。
「常に何かに取り組んでいなければならない」という前提が、
自分の中にあったのだと。

課題への自覚的な態度は、その前提を照らし出し、
ときにその呪縛から自分を解放してくれる。

課題に向き合うことは、
自分の価値を証明するための行為ではなく、
よりよく生きるための“手段”に戻ってくる。

■ 「課題がない」は、衰退ではないかもしれない

たとえば、ある経営者がこう語ったとする。
「今、会社としては特に大きな課題はありません。
みんなそれぞれ心地よく働いていて、売上も安定しています」

この発言は、とても健やかに聞こえる。
しかし、聞く側によっては
「成長を止めてしまったのか?」という不安や違和感を持たれるかもしれない。

それほどまでに私たちは、
「課題があることが正常」という認識に囚われている。

でも、“健やかさ”と“成長”は、
必ずしも課題解決によってのみ得られるものではない。

ときに、「特に何もない」という静けさこそが、
最も深い満足と安定のしるしなのかもしれない。

■ 「課題を探す脳」からの撤退

自覚のないまま課題を追いかけると、
それはいつしか義務となり、自分自身を削っていく。

だからこそ、課題を自覚的に持つという態度には、
「課題のない状態にも意味があるかもしれない」という余白を同時に内包している。

何もしていない自分に、静かに価値を見出してみる。
ただ「今」を生きているだけの自分に、少し目を向けてみる。

課題は、生きるための重力にはなりえても、
生きる目的そのものではないのかもしれない。

■ あとがきのように

ヒーローに悪役が必要なように、
「課題を持つ私」でいなければ不安になるのだとしたら。

その構造を、少しだけ遠くから見つめてみる。

それが、“正しさからの撤退”の、最初の一歩かもしれない。

Vol.2|「撤退=敗北」という誤解

— 勇気と撤退のあいだにあるもの -

「進むこと」だけが美徳とされてきた社会

私たちのまわりには、いつもこうした言葉があふれている。
「前に進め」「立ち向かえ」「あきらめるな」。

映画や漫画、スポーツの勝利の瞬間も、
ビジネス書の成功談も、
その多くは「困難を乗り越えた者」を讃えている。

だからかもしれない。
「逃げる」「撤退する」という選択肢は、
暗黙のうちに「弱さ」の象徴のように扱われることが多い。

まるで、後ろに下がることは敗北であるかのように。

■ “勇気ある撤退”は、本当に肯定されているのか?

一方で、「勇気ある撤退」という言葉も耳にする。

だが、その言葉が許されるのは、
あくまで「合理的判断」や「未来へ向けた前向きな決断」の場合に限られている気がしないだろうか。

感情的で、理由が説明しきれない撤退は、
依然として「甘え」や「逃避」と見なされることが多い。

このことは、私たちが「理性」や「論理」を最上位に置く現代社会の価値観を象徴しているようにも思える。

言葉にできない感情の揺らぎや、理由にならない“感覚”の声は、軽視されてしまう。

■ 撤退は、選択である

とはいえ、本当にそうだろうか?
撤退とは、単なる後退ではないかもしれない。

むしろ、「何を守りたいのか」「どこに戻るべきか」「見失ってはならないものは何か」
そうした自問自答のうえに立つ、極めて能動的な“選び直し”なのかもしれない。

時間軸に沿って見ると「戻る」ように映るけれど、
実は大きな“方向転換”であり、再起動のプロセスでもある。

「戻る」と「逃げる」は違う。
「手放す」と「負ける」も違う。

しかし「常に進まねばならない」という圧力が、
その繊細な違いを見えなくさせてしまうのだろう。

■ 「今ここ」から決めていいという回復

撤退が難しいと感じられるのは、
それが「過去の自分の選択を否定すること」だと思えてしまうからかもしれない。

しかしそれは、
過去の自分を否定するのではなく、
過去の選択を尊重しつつ、今の自分の輪郭を引き直す行為なのかもしれない。

仕事を辞めること、
関係性を断つこと。

そうした決断には、
「もうこれ以上自分を消耗しない」ための強い意志が宿っている。

それは、逃げではなく、
生き延びるための戦略だ。

■ 言葉にならない撤退にも、意味がある

「理由がないとやめてはいけない」
「説明できなければ逃げているのと同じ」

そんな無意識のルールに、私たちは縛られている。

しかし、本当に心がすり減っているとき、
理由は後から言葉にできるようになるものだ。

言葉にまだ追いついていない心の叫び、
「ここではない」というサインに、もう少し耳を傾けてみる。

それもまた、大切な“撤退”のひとつの形なのだろう。

■ あとがきのように

「やりきること」が美徳の社会で、
「やめること」は恐れられる。

でも、本当に強さとは何か?

もしかすると、
勇気ある撤退は、
生き延びるための羅針盤のような行為なのかもしれない。

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