経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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株式会社"銀座スコーレ"
上野テントウシャ

《 対話とは何なのか? 》

- ズレを恐れず、わからなさを共にするということ -

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プロローグ:

「ちゃんと話し合おう」と言われたとき、どこか胸がざわついた経験はないだろうか。

意見が通るか、通らないか。
分かってもらえるか、否か。

そんな緊張が漂う場で、「対話」という言葉は、しばしば違う意味にすり替えられてしまう。

この文章は、“対話とはそもそも何か”という問いから始まる。

それは、わかりあうためではなく、わからなさのなかで共にいるための営みなのかもしれない。

1|“対話って、話し合いのこと?”

「もっと対話が必要だ」
「対話を重ねよう」

そんな言葉を耳にする機会が増えた。

しかし、そこで使われている“対話”という語が、本当に“対話”を意味している場面は、そう多くないようにも思う。

たとえば、「ちゃんと話し合おう」と言いながら、実際には“どちらかが相手を納得させようとしている”だけだったり、“合意形成”の名のもとに“説得”のフェーズに入っていたりする。

もちろん、話し合いや説得が必要な場面もある。
しかし、それらと“対話”は、似て非なる営みである。

2|“ふわっと”見える対話

「対話って、なんか“ふわっと”していて、意味あるの?」
「結論も出ないし、結局どうしたいのかよくわからない」

そんな感想をもらうことがある。

たしかに、対話は“即効性”がない。
その場で数字が動くわけでもなければ、誰かを変えられるわけでもない。

でも、それは“無力”なのではない。

対話とは、「いま見えている問い」を深め、「まだ語られていない声」に出会ってしまうための時間である。

それは、“答え”にたどり着く営みではなく、自分の輪郭が少しずつ揺らぎ、再構成されていくような時間なのだ。

3|成果を入り口にしても、いい

とはいえ、現実には「成果」や「結果」が求められる場が圧倒的に多い。
「対話をして、何が変わるのか?」という問いが返ってくるのも無理はない。

そのときに、「成果なんて意味がない」と切って捨ててしまえば、そもそも言葉を交わす場すらひらかれなくなってしまう。

だからこそ、たとえば──

  • 対話によって意思決定が早くなる
  • チーム内の摩擦が減る
  • 組織の風通しが良くなる

そんな変化をきっかけに、言葉が交わり始めることもある。

それは、対話の目的を“成果”に矮小化することではない。
むしろ、その過程で、人は自分自身の問いに触れてしまうことがある。

「なぜ、自分はこんなにも結果にこだわっていたのか?」
「何を証明しようとしていたのか?」

気づけば、自分の“成果観”そのものに、揺らぎが生まれている。

それはきっと、対話という時間が、ゆっくりと働きかけてきた証なのかもしれない。

4|“文脈の理解”が、なぜ「押し付け」にすり替わるのか

合意形成の場では、「文脈を読む」「背景を理解する」といった姿勢が欠かせない。

その場に流れている空気や、語られていない前提に耳を澄ますことで、単なる言葉以上の“関係の構造”が見えてくることもある。

しかし──そうした文脈的な働きかけが、相手にとって「押し付け」に聞こえてしまうことがある。

とくに、“正解”を前提とした思考に慣れた人にとっては、相手の配慮や解釈が「コントロール」と映ることすらある。

不思議なことに、これはたんに感受性の差ではない。
そこには、その人自身がかつて“誰かに正しさを押し付けてきた無意識の経験”が、逆方向に作用している場合がある。

つまり、自分がやってきた構造を、他者の言動に投影してしまうのだ。
しかもそれが、無自覚に起きている。

このとき、本人の中では“自分を守るための正義”が作動しており、たとえ目の前で対話的に語りかけられていても、その声は届かない。

届かないどころか、相手の言葉を“自分の物語”の素材としてしか扱えなくなってしまう。

結果として、対話の場は、「独り言が交差するだけの、モノローグの渦」になっていく。

5|対話とは、“ズレ”を引き受ける構え

では、対話とはいったい、何を目指す営みなのか。

それは、「ズレ」を解消することではない。
むしろ、ズレたまま共にいられる“構え”を育てることにある。

価値観の違い、言語感覚の違い、沈黙の持つ意味の違い。
そういった「うまく伝わらないもの」に耐えきれず、つい“自分の正しさ”や“理解の枠”で塗りつぶしたくなってしまう。

しかし、対話とは、その“塗りつぶしたくなる衝動”に気づき、それを一度脇に置く時間でもある。

「わからないまま、ここにいる」
その構えそのものが、対話という営みの核にあるのだ。

6|その先に、何が開かれていくのか?

ズレたまま共にいたとして、そこに何があるのか。

「だからどうなるの?」という問いが返ってくることもある。

しかし、ほんとうは──

  • 自分の“言葉の輪郭”が揺らぎ始める
  • 相手の沈黙に“気配”を感じるようになる
  • 「理解する」ことより、「問いを深める」ことに移行していく
  • 自分の“OS”がゆっくりと更新されていく

対話は、変化を起こす技法ではない。
しかし、変容が起きてしまう場である。

7|答えではなく、“在り方”としての対話

対話とは、「わかる」ことを急がず、「わからない」ことに留まる勇気を持ち続けること。

誰かを変えるためでもなく、何かを証明するためでもなく、その場に流れる沈黙や違和を、丁寧に持ち合うこと。

そこにひ開かれるのは、たぶん“答え”ではない。

しかし、確かに──その風景を一緒に見た誰かとのあいだには、もうそれだけで、言葉を超えた“なにか”が、宿り始めているのかもしれない。

補記|モノローグとダイアローグ

モノローグ(Monologue)とは、ひとり語り、独白のこと。

他者が目の前にいても、実際には「自分の中の物語」を語っているだけで、相手の声を“素材”や“反論の対象”としてしか扱っていない状態ともいえる。

この状態では、会話が成立しているように見えても、実のところ、お互いが“自分にしか語っていない”。
それは、“すれ違い”ではなく、“すれちがうことすらしていない”関係である。



ダイアローグ(Dialogue)は、その語源に注目すると面白い。
ギリシャ語で「dia(通して)+ logos(意味・言葉)」──つまり、「意味があいだを通っていく」状態。

言葉のやりとり以上に、「意味や問いが相互に流れ合っている」時間のことを指す。

対話とは、ただ話すことではなく、言葉を媒介にして、互いの“沈黙”に触れていくことかもしれない。

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