経営哲学・知の実験室|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

《 立たざるを得ない“旗” 》

- 「責任」という言葉に載せられた意味 -

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プロローグ:

人と人が向き合うとき、
分かり合えなさは、しばしば避けるべき問題として扱われる。

正しく説明できなかったのか。
配慮が足りなかったのか。
どこかに「正解」があり、それに近づけなかった結果だと考えてしまう。

このコラムは、その前提そのものを問い直す。

分かり合えなさが生じた瞬間、関係の中で何が起きているのか。
正解は、どの地点で立ち上がり、
私たちはどの位置に立ってしまうのか。

ここでは、安易な結論を所有しない。
答えを提示するのではなく、
問いが立ち上がり続ける場所に、
共に立ち止まるための視点をひらいていく。

Vol.0|分かり合えなさの前提

— いつの間にか立つ正解の旗 -

人と人が分かり合えない、という出来事は珍しいものではない。

言葉は届いているはずなのに、意図がずれる。
誠実に話している感覚はあるのに、どこか噛み合わない。

こうした場面で、私たちはしばしば苦しさを感じる。

それは、分かり合えなかった事実そのものよりも、
「分かり合えたはずだ」という感覚(前提)が、どこかに残っているからかもしれない。

分かり合えるはずだった。
正しく伝えれば、理解されるはずだった。

そうした前提が置かれた瞬間、関係の中に、ひとつの“正解”が立ち上がる。

この連載では、人と人とのあいだで起きるズレや違和感を、解消すべき問題として扱わない。

代わりに、分かり合えなさの場に、どのような前提が置かれ、どのような構造が立ち上がっているのかを、一つずつ見ていく。

答えを急がない。
結論を所有しない。

ただ、正解という旗が立ってしまう、その手前の風景を、もう一度、静かに見つめ直してみたい。

Vol.1|正解が置かれる瞬間

— 分かり合えなさが問題になるとき -

人と人との対話の中で、
ふとした瞬間に、空気が変わることがある。

話は続いている。言葉も交わされている。
笑いも、相槌も、途切れてはいない。

ただ、何かが遅れる。
返事の速度。視線の戻り。次の言葉が出てくるまでの間。

その小さな遅れが、場の表面に触れたとき、
分かり合えなさは、ようやく姿を見せ始める。

小さな遅れが、意味を持ち始める

相手の反応が少し遅れる。
自分の言葉が、どこかで引っ掛かった気がする。

言い直そうか、一瞬迷う。
言い足すべきか、黙って進めるか。
その迷いが、相手にも見える形で漏れることがある。

この段階では、まだ「違い」で済ませることもできる。

立っている位置が違う。
見えている前提が異なる。
ここまでなら、関係の特徴として置いておける。

ただ、場がそのまま流れないことがある。
違いとして置いておく余白が、自然に残らない場面がある。

「説明が足りなかったのではないか」という気配

遅れの直後に、場に薄い圧が生まれる。

説明が足りなかったのではないか。
言葉が適切ではなかったのではないか。
配慮が欠けていたのではないか。

誰かが言い出すわけではない。
ただ、その可能性が、場の空気に混ざる。

そして、混ざった瞬間から、
言葉のやり取りは、少し違う目的を帯び始める。

分かり合えなさを眺めるためではなく、
分かり合えなさを解消するために、対話が続いていく。

正解が「先に」置かれる

ここで起きているのは、
「分かり合えなかった」という事実の増幅ではない。

もっと手前で、構造が変わっている。
正解が先に置かれる。

本来は、分かり合えるはずだった。
適切な言葉が存在したはずだった。
こちらの言い方が違っていたのではないか。

こうした想定が置かれた瞬間、
出来事の意味が静かに変わる。

分かり合えなさは、
関係の特徴ではなく、
修正すべき対象へと姿を変える。

正解前提が共有されるとき

この移行は、とても自然で、ほとんど無自覚に起こる。
誰かが強く主張するわけでもない。

ただ、正解があったはずだ、という前提が、
場の共有事項になっていく。

正解を探すことが、誠実さの証明になり、
正解に近づけないことが、過失の気配を帯びる。

そのとき、
分かり合えなさに応じる余地は、少しずつ狭くなる。

立っている位置を確かめる代わりに、
正解へ近づく方法が探され始める。

構造の転換は、ほとんど音を立てない

ここで起きているのは、対話の失敗ではない。
正解が先に置かれるという、小さな構造の転換である。

それは音を立てない。
誰かの悪意にも、誰かの怠慢にも見えにくい。

だからこそ、
自分が今どこに立っているのかが、見えにくくなる。

正解へ向かう足取りが、
いつの間にか「当然」になっていく。

Vol.2|応答という未定義

— 正解の外側で、何が引き受けられているのか -

正解の外側で何が引き受けられているのか

応答は、選択よりも先に起きている

正解が先に置かれる構造の中では、
人は選択しているつもりで動いている。

どの言葉を使うか。
どの説明が適切か。
どの判断が妥当か。

ただ、その手前で、すでに何かが起きている場合がある。

判断する以前に、身体が反応してしまう。
言葉を選ぶ前に、立ち止まってしまう。

この「先に起きている何か」は、
意思や判断の産物とは言い切れない。

ここで仮に使われる言葉が、「応答」である。

応答は、行為ではない

応答というと、
問いに答えること、呼びかけに返すことが想起されやすい。

ただ、ここで扱いたい応答は、
何かを返す行為そのものではない。

正しく答えようとする前の、
その場から離れられない感覚。
分かったふりをせずに、留まってしまう状態。

応答とは、
何かをする力というより、
起きていることを、起きているままに引き受けてしまう状態に近い。

正解があると、応答は見えにくくなる

正解が前提に置かれると、
思考は外側に向かう。

どこが間違っていたのか。
どう修正すればよいのか。
どの判断が妥当だったのか。

このとき、
その場に立っている自分自身の位置や感触は、
検討の対象から外れていく。

応答は、
正解に近づくための手段ではない。

そのため、正解が強く意識されるほど、
応答は「何もしていないもの」に見えてしまう。

何もしていないように見える時間

応答の時間は、
外から見ると、停滞のように見えることがある。

決めていない。
答えていない。
前に進んでいない。

それでも、その場に留まっている。

違和感をなかったことにせず、
判断を急がず、関係を切らずにいる。

この時間は、
怠慢でも回避でもない。

むしろ、
その場に立ってしまったことを、引き受け続けている時間と考えられる。

応答は、内側の声として現れる

応答は、はっきりとした言葉にならないことが多い。
正解の形をしていないため、説明も難しい。

ただ、後から振り返ったとき、
裏切ったかどうかだけは分かってしまう。

あのとき、
急いでまとめてしまったか。
違和感に蓋をしたか。
立っていた位置から、離れてしまったか。

応答は、
判断基準というより、
自分がどこに立っていたかを知らせる感覚として残る。

未定義のままにしておく理由

応答を定義しすぎると、
それはすぐに手段や能力に変わる。

どう応答すればよいか。
どの態度が正しいか。
どの振る舞いが望ましいか。

そうした問いが生まれた瞬間、
応答は再び正解の側に回収される。

だから、ここでは定義しきらない。
応答は、未定義のままにしておく。

その方が、
実際に起きている感覚に近い。

次の章では、
この応答を抱えたまま、
それでも「決めなければならない」場面について考えていく。

迷いを残したまま引かれる線。
覚悟や決断と呼ばれてきたものが、
どの位置から生まれているのか。

Vol.3|決断と覚悟

— 迷いを含んだ境界線 -

決めなければならない場面は、確かに存在する

応答を未定義のまま抱えていられる時間には、限りがある。
現実には、決めなければならない場面が訪れる。

医療の現場。
法的判断。
組織や事業の意思決定。

そこでは、考え続けること自体が、結果として誰かに影響を与える。
決めないという選択が、選択として成立しない局面がある。

このとき、決断は理想ではなく、条件になる。

決断は、確信の産物ではない

決断という言葉は、
しばしば迷いを断ち切る行為として語られる。

十分に検討した末の結論。
納得のいく判断。
自信を伴った選択。

ただ、実際の現場では、
確信が揃う前に線が引かれることの方が多い。

情報は不完全で、
影響は予測しきれず、
別の選択肢が消えたわけでもない。

それでも、線は引かれる。

応答を消さずに決めるということ

ここで重要なのは、
迷いが残っているかどうかではない。

応答が消えてしまっているかどうか、である。

違和感を無視したまま引かれた線は、
後から合理化されやすい。

説明は整うが、
位置が曖昧になる。

一方で、
応答を抱えたまま引かれた線は、
不完全さを含んでいる。

なぜこの判断だったのかを、
完全には説明できないかもしれない。

それでも、自分がどこに立っていたかは、分かっている。

覚悟は、迷いを終わらせない

覚悟という言葉は、
揺れを止める力のように使われることがある。

しかし、ここで扱いたい覚悟は、
迷いを消すことではない。

迷いが残っている状態を、
引き受けたまま前に進む姿勢に近い。

別の選択肢があったことを知っている。
失われた可能性があることも分かっている。

それでも、この線を引いた。
その事実から、目を逸らさない。

線を引く位置は、あとから分かる

決断の瞬間に、
すべてが明確になるわけではない。

むしろ、
線を引いたあとに、
自分がどこに立っていたのかが、
少しずつ見えてくることが多い。

結果が出たから正しかった、という話ではない。
成功や失敗の評価とも、少し違う。

裏切っていなかったか。
違和感を押し潰していなかったか。
応答をなかったことにしていなかったか。

その確認は、時間差で訪れる。

決断のあとに残るもの

決断は、すべてを終わらせない。
むしろ、
新しい問いを生み出すことがある。

なぜ、この線だったのか。
何を手放し、何を引き受けたのか。

ここに残る感覚が、
次の応答の起点になる。

決断は、応答の対極ではない。
応答の連続の中で、
一時的に引かれた線にすぎない。

次の章では、
ここまで扱ってきた
分かり合えなさ、正解、応答、決断
これらが重なり合う地点で、
ようやく一つの言葉が立ち上がってくる。

それが、「責任」と呼ばれてきたものかもしれない。

Vol.4|責任という言葉

—立ってしまっている旗に、責任という名が与えられる -

立ってしまっている旗に
責任という名が与えられる

責任は、ある瞬間に呼び出される

分かり合えなさが生じ、
正解が置かれ、
応答が揺れ、
それでも線が引かれる。

対話の中では、
その一つひとつが、
特別な出来事として意識されるわけではない。

ただ、やり取りは続き、
判断は先送りされず、
場は次の段階へと進んでいく。

その流れの中で、
気づけば、ある位置に立ってしまっている。

責任という言葉は、
その位置に気づいたとき、
あとから呼び出される名前のように現れる。

責任は、行為ではなく「位置」に近い

一般に責任は、
何かをした結果として語られやすい。

判断が正しかったか。
結果を出せたか。
義務を果たしたか。

ただ、ここで扱いたい責任は、
そうした評価の話ではない。

それは、
すでに立ってしまっている場所から、
簡単には降りられない、という事実に近い。

選んだという手応えよりも、
立ってしまった、という感覚の方が近い。

立ってしまっているという事実

決断の瞬間、
人は「責任を取ろう」と考えているわけではない。

言い切れない違和感を抱えたまま、
正解を確定できないまま、
それでも線が引かれる。

その結果として、
すでに、ある位置に立っている。

そこには、
「引き受ける/引き受けない」を
吟味する余地は、ほとんど残っていない。

立っているという事実が、
先にある。

応答し得る状態としての責任

この文脈での責任は、
何かを背負うことでも、
覚悟を決めることでもない。

それは、
起きている出来事に対して、
応答し得る状態を閉じないことに近い。

正解を返す力ではない。
適切に反応する能力でもない。

関係から降りないこと。
違和感を、なかったことにしないこと。
その位置に立ってしまっている自分を、
曖昧なままにしないこと。

責任とは、
反応を返す義務ではなく、
レスポンス・アビリティ――
応答し得る可能性を、
保持し続ける状態として現れてきたのかもしれない。

高純度の欲求と、掟の位置

この「位置」は、
外から与えられる規範とは異なる。

誰かに求められたわけでも、
守るべきルールとして教えられたものでもない。

それでも、
そこから離れたとき、
自分が自分でなくなる感覚だけは、
はっきりと分かってしまう。

高純度の欲求や、
自分を自分たらしめる掟としか呼びようのないものは、
この位置の内側から立ち上がっている。

責任は、
それと別のものではない。

関係の中で、
それに名前が与えられた姿に近い。

責任は、取るものではない

この意味での責任は、
自ら進んで「取る」ものではない。

取ろうとしなくても、
すでに、そこにある。

だから、
放棄することはできる。
別の位置へ移ることもできる。

ただ、
移ったことは、
自分には分かってしまう。

その感覚こそが、
責任という言葉が
消えずに残り続けてきた理由なのかもしれない。

回収の言葉として使われるとき

責任という言葉は、
混乱を整理するためにも使われてきた。

誰が決めたのか。
どこまでが自分の範囲か。
どこからが他者の領域か。

その整理は、
ときに必要でもある。

ただ、その瞬間、
責任が正解と結びつくと、
応答の余地は、急速に狭くなる。

位置の言葉だったものが、
評価や圧力の言葉へと変わる。

それでも、責任という言葉は残る

責任を使わずに語ろうとしても、
どこかで行き詰まる。

なぜなら、
立ってしまっている位置は、
なかったことにはできないからだ。

責任とは、
その事実を覆い隠すための言葉ではない。

むしろ、
自分がどこに立っているかを、
見失わないための
仮の名前として、
残り続けてきたのだと考えられる。

Vol.5|責任が旗になるとき

— 正しさが関係を動かし始める瞬間 -

旗は、立てようとして立つわけではない

責任が旗になるとき、
それは誰かの意図的な操作として起きるとは限らない。

混乱が続く。
判断が求められる。

立ち位置が曖昧なままでは、
関係が進まなくなる。

そうした場面で、
責任は次第に「位置の言葉」から
「方向を示す印」へと変わっていく。

正解と結びついた責任

責任が旗として機能し始めるのは、
それが正解と結びついたときである。

誰が正しかったのか。
どの判断が妥当だったのか。
何を基準に進めばよいのか。

こうした問いの中で、
責任は、立っている位置を示す言葉ではなく、
正しさを可視化するための印として使われ始める。

この瞬間、
責任は外側へと向かう。

掲げられた旗が生む作用

旗として掲げられた責任は、
周囲に影響を及ぼす。

説明する責任がある。
結果に責任を持つべきだ。
立場を明確にすべきだ。

それらは、
一見もっともらしい。

ただ、その内側では、
応答し得る状態は、
急速に狭められていく。

立ち止まる余地。
迷いを含んだまま留まる時間。
違和感を言葉にする前の沈黙。

それらは、
正しさの名のもとに、
後回しにされていく。

応答は、旗の下では起きにくい

旗が立っている場では、
応答は歓迎されにくい。

求められるのは、
態度の表明であり、
立場の選択であり、
賛成か反対かという二分である。

応答のように、
まだ言葉にならない揺れや感覚は、
曖昧さとして処理される。

ここで、
レスポンス・アビリティは、
責任から切り離されてしまう。

関係が整理されすぎるとき

責任が旗になると、
関係は急速に整理される。

誰が決める側か。
誰が従う側か。
誰が内側で、
誰が外側か。

その整理は、
秩序を生む。

同時に、
関係の中にあった
複数の可能性は失われていく。

問いが不要になった場所では、
関係は静止する。

それでも、旗は必要になる

責任が旗になること自体を、
完全に避けることは難しい。

組織や社会では、
判断を共有し、
行動を揃えるために、
旗が必要になる場面がある。

問題は、
旗が立っていることではない。

その旗が、
唯一の正解として固定されたとき、
応答の通路が閉じられる点にある。

旗を下ろすのではなく、位置に戻す

ここで必要なのは、
旗を否定することではない。

責任を放棄することでもない。

責任を、
再び「位置の言葉」として扱い直すこと。

掲げるものではなく、
立ち続けるものとして戻すこと。

正しさの象徴ではなく、
応答の起点として。

残り続ける問い

責任が旗になったとき、
私たちは、
どこから降りてしまったのか。

そして、
どの位置に立ち戻ることができるのか。

この問いは、
一度きりで終わるものではない。

判断が必要になるたび、
関係が生まれるたび、
何度でも立ち上がる。

エピローグ|問いが残る場所

ここまで見てきたのは、
分かり合えなさが生じ、
正解が置かれ、
応答が揺れ、
それでも線が引かれ、
気づけば、ある位置に立ってしまっている、という一連の運動だった。

そこに、
責任という言葉が与えられる。

やがて、その言葉は旗となり、
正しさや方向性を示す印として使われ始める。

この流れ自体が、
間違っているわけではない。

人が関係を結び、
共に何かを進めようとするとき、
整理や共有は避けられない。

ただ、その過程で、
ひとつの問いが見失われやすくなる。

自分はいま、
どこに立っているのか。

何を正しいと主張しているのかではなく、
どの位置から、世界と関わっているのか。

応答は、
正解を返すことではなかった。

決断は、
迷いを消すことではなかった。

責任は、
背負うものでも、取るものでもなかった。

それらはすべて、
立ってしまっている位置から、
関係を手放さずにいようとする運動だった。

高純度の欲求や、
自分を自分たらしめる掟としか呼びようのないものは、
その運動の内側で、静かに働いている。

問いは、
答えが出たときに終わるのではない。

問いは、
旗が立ったあとにこそ、残り続ける。

その問いを消さずにいること。
正しさに回収しすぎないこと。
位置を、位置のまま保持し続けること。

それができるかどうかは、
能力や知識の問題ではない。

どこに立ってしまっているかを、
自分自身に対して誤魔化さない、という態度に近い。

この連載は、
何かを教えるためのものではない。

答えを渡すためのものでもない。

ただ、
問いが立ち上がり続ける場所を、
消さずに残しておくための備忘録である。

そして、その問いは、
関係が生まれるたび、
判断が求められるたび、
何度でも立ち上がる。

終わらせないために、
ここに置いておく。

結論ではなく、
問いの余白として。

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