《 “月明かり”に灯る“ろうそく” 》
― 承認の光と、動機の火のあいだで

プロローグ:
月は、自分で光らない。
けれど、そのやわらかな明るさに、救われる夜がある。
ろうそくは、静かに燃えている。
誰かを照らすためではなく、ただそこに在るために。
見せるための光と、燃えることで生まれる灯り。
そのあいだで揺れる私たちの生き方を、そっと見つめてみたい。
■「注目される」という光の正体
信用経済。バズ。フォロワー数。
いまの世の中は、外からの光を浴びることに価値があるとされている。
自分を照らしてくれる誰かの存在。
もっと言えば、その誰かにどう映るか。
知らず知らずのうちに、私たちは「誰かの目にどう映るか」を中心に据えた生き方を選んでいるのかもしれない。
同時に、そうやって集めた光が強くなればなるほど、落とす影もまたくっきりしてくる。
■ 影をつくる光、影をつくらない光
強い光には、つねに影がついてまわる。
称賛と批判、希望と失望、安心と不安――
どれもが「照らされる」という状態の中で生まれるコントラストだ。
一方で、自分の内側から灯る火のような光はどうだろう。
それは360度にひらかれ、誰かに向けられたものではなく、ただそこに在る光。
周囲をあたためても、まぶしさで誰かを遠ざけることはない。
必要以上に照らさず、何かを押しつけることもない。
そんな光には、影ができない。
あるいは、影という概念すら必要としないのかもしれない。
■ 外からの光、内からの火
「注目されること」は、どこかで「誰かに選ばれたい」という思いとつながっている。
一方で、内発的な動機から生まれる行動には、他者評価の介在がない。
ただ、「それをやっていること自体が喜び」だから続ける。
そうして燃えている人は、自分が燃えていることを誰かに証明する必要がない。
燃えているから、勝手に光が生まれる。
その光が、結果的に誰かを照らしたり、安心させたりする。
でも、それは“目的”ではなく、“副産物”にすぎない。
■ 見せるより、ただ燃えていたい
いま、「どう見せるか」に疲れている人は多い。
「どう見られるか」に不安を抱えている人も多い。
だからこそ、そっと問いかけたい。
見せるための生を選び続けるのか、それとも――
自分が燃えることを大切にする生を選ぶのか。
その火は、派手ではないかもしれない。
でも、静かに、たしかに、誰かの心をあたためていく。
そして、その火が消えないように、そっと見守る人がいる。
■ 火でいる、という在り方
誰かのまなざしに照らされて、そこに自分の価値を見出そうとする生き方は、きっと誰にでもある。
褒められたい、認められたい。もっと言えば、必要とされたい。
ただ、そのまなざしに応えようとするうちに、いつしか自分の動機が“自分の外側”に移っていく。
強く照らされれば照らされるほど、影もまた濃くなっていくように。
火でいる、という在り方。
誰かに見せるためではなく、ただ燃やしたくて燃えている。
その在り方は、誰かを照らすことさえ意図しない。
そして、自分の中心から自然とあたたかさが広がっていく。
火は、360度に光を放つ。だから影ができない。
見返りを求めず、善意を重ねもせず、ただそこに燃えているということ。
それが、自分のうちにあるほんとうの動機から生きる、ということなのかもしれない。
■ 編集後記
私たちは、何に照らされたいと思っているのか。
そして本当は、どんなふうに“光で在りたい”と思っているのか。
書きながら、自分自身にも問いが残りました。
この小さな問いが、あなたの中にも何かを運んでいたら、うれしく思います。