”銀座スコーレ”上野テントウシャ

schole_logo_icon_80x80

"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《 売るという姿勢 》

- “売る”が、風景になるとき -

プロローグ:

「売る」という言葉には、どこか冷たさがある。

だが本当に私たちは、モノを売っているだけだろうか。

それは姿勢であり、誰かとの関係を結ぶ営みかもしれない。

その在り方が、やがて風景となり、
誰かの心をそっと揺らす。

Vol.1|製品(Product)

— 過剰な優しさと無意識の自己防衛 -

“優しさ”が、製品の個性を奪うことがある

「誰にでも受け入れられる商品をつくろう」
「使いやすくて、嫌われないものにしたい」

そんな想いから始まるモノづくりは多い。

でもその“優しさ”が過剰になると、製品の輪郭はぼやけていく。
気づけば、尖りのない穏やかな何かができてしまい、心に残らない。

選ばれない理由をなくそうとすればするほど、
選ばれる理由は薄まる。

皮肉な話だ。

「使いやすい=正解」ではない世界

すべての製品に「使いやすさ」が求められるわけではない。
それどころか、“少し面倒なもの”だからこそ、魅力が宿る世界もある。

たとえば、ジッポーのカチッという音や開ける動作を味わうために、
オイルを都度補充する儀式。

手入れを繰り返すことで自分の足に馴染む高級革靴。

壊れやすさすら“色気”になるイタリア車や、
温まるまでじっくり待つ真空管アンプ。

それらはすべて、儀式のような手間を通じて、
所有者との関係を深めていく。

機能や合理性を超え、情緒や哲学に触れる瞬間だ。

傷つきたくないから、生まれる“遠慮”

クレームや低評価への不安、売れないかもしれない恐れ。

そうした“自己防衛”から生まれた商品はどこか遠慮がちで、
言いたいことを抑えているように映る。

一見「顧客想い」に見えても、
実は自分を守るための判断が隠れている。

だから顧客の心に届きにくい。
製品からは体温が感じられないのだ。

製品は「誰に向けて、どんな姿勢で立っているのか」がすべて

ただ便利とか、機能的とか、それだけでは人の心は動かない。

今求められているのは、
「その商品が、どんな姿勢を持っているか」ということだ。

たとえば──

なぜ、これをこのかたちで世に出したのか?

誰にとっての“選択肢”であってほしいのか?

どんな未来を描きたいのか?

そんな問いにきちんと答えられる商品には、
言葉にならない“確かさ”がある。

たとえ多数には届かなくても、
少数の「わかる人」には深く届くものだ。

「売れそう」よりも、「こうありたい」

“売れる商品”を目指すあまり、
気づけば「こうありたい」を見失ってしまう。

それは、誰かの期待に合わせることに夢中になり、
自分が何を信じていたかを忘れてしまうことに近い。

そしてそんな製品は、
選ばれるための“理由”ではなく、
選ばれないことへの“保険”を積み上げていく。

本来、商品はメッセージだ。

「こういう世界を、私たちは信じています」
という小さな旗印。

そこに立ち止まってくれる人と出会えれば、
それでいいのだ。

「嫌われないモノ」ではなく、「響くモノ」を

すべての人に好かれる必要はない。

むしろ、ある人にとっては刺さりすぎて、
ある人にとっては「ちょっと無理かも」と思われるくらいがちょうどいい。

選ばれるとは、
“誰かに選ばれない”ことを同時に意味する。

だから大切なのは、
「誰に選ばれたいか」を最初に決めることなのかもしれない。

そうすれば、製品に込めるべき言葉も、
熱量も、ずっとクリアになるはずだ。

Vol.2|流通(Place)

— “どこにあるか”ではなく、“どんな世界をつくっているか” -

「場所」という概念の、静かな変化

かつて流通とは、「どこで手に入るか」という問題だった。
アクセスしやすいか、目立つか、安く仕入れられるか。

だが今、購買における「場所」は、もっと別の意味を持ちはじめている。
単なる地理や利便性ではなく、
「その場所に、どんな空気が流れているのか?」

たとえば、同じTシャツでも、
セレクトショップで買うのと、量販店で買うのとでは、まったく異なる体験になる。

それは、商品が置かれている“空間”が、
顧客に対して語りかけているからだ。

「ここは、あなたが共鳴できる世界ですか?」と。

店は、“選ばれたものだけが集う場所”たりうるか

いま、流通の現場で起きているのは、
単なる仕入れと販売の繰り返しではない。

むしろ、何を扱わないか、何を入れないかという“選択の姿勢”が、世界観を形成している。

だが実際には、
「不安だからとりあえず流行ってるものを仕入れる」という自己防衛が、
その世界観を曖昧にしてしまう。

なんでも屋になったお店には、物語の統一感がない。
顧客は“理由なき選定”に戸惑う。

逆に、
「ここには“これ”しかない」と思わせる店は、
訪れただけで自分の好みを肯定されたような気分になる。

それは、扱っているモノ以上に、
“選んだ理由”の集合体が生み出す場の説得力だ。

販売チャネルは、世界観の翻訳装置である

たとえばオンラインストア。
クリック一つで買える便利さだけを追うと、無機質な取引になる。

でも、そこに手書きのメッセージが一枚添えられていたら?
梱包にちょっとした工夫があったら?

あるいは、リアル店舗。
商品が置かれている高さ、照明、BGM、接客の距離感。

それらすべてが、
“売るため”というより“感じてもらうため”の設計であるなら、
それはもう販売ではなく、提案である。

流通とは、商品を届ける手段ではなく、
世界を感じさせる舞台装置なのだ。

流通から、文化は生まれる

人は、ただモノを買いたいわけではない。
「このお店から買いたい」とか、
「この場で買うこと自体が好きだ」と思える理由がほしいのだ。

たとえば、毎月開催されるマーケットイベント。
そこに並ぶ商品は一つひとつに背景があり、
作り手がいて、ストーリーがある。

その空間全体が、文化的な意味合いを帯びた“居場所”になっていく。

つまり流通とは、
商品を流す線ではなく、
文化を醸す器でもあるということだ。

“届ける”ではなく、“場を立ち上げる”という視点へ

今、企業やブランドに求められているのは、
“どこで売るか”という問いよりも、
“どんな場をひらくか”という問いかけである。

それは、単に販路を選ぶことではない。

「その場で、人々はどんな気持ちになれるのか?」
「そこに身を置いたとき、自分がどう変わると感じられるか?」

流通とは、行動を変えるのではなく、感情を変えるもの。

だからこそ、選ばれる理由は、
「モノがある場所」ではなく、
「意味がある場所」に宿っていく。

Vol.3|プロモーション(Promotion)

— “伝える”ではなく、“響き合う”という提案 -

「伝える」の限界

どんなに丁寧に作られた商品であっても、
「良さが伝わらない」と嘆く声は多い。

だから企業は、SNSで広告を打ち、
キャッチコピーを練り、キャンペーンを繰り返す。

でも、そもそも「伝える」こと自体が、
前提としてズレているのかもしれない。

なぜなら、相手は“情報”ではなく、“意味”を探しているからだ。

そして意味とは、押しつけられて受け取るものではなく、
自分の内側から“腑に落ちる”ことで初めて成立する。

プロモーションは、言葉の勝負ではない

ある言葉が人の心に届くとき、
それは“上手く言った”からではない。

むしろ、なぜか“自分の感情に似ていた”と感じる瞬間に、
人は動かされる。

だから、本当に響くプロモーションには、
「説明」よりも「共振」がある。

それは、正しさや論理ではなく、
温度や息遣いをともなった関係性の提案なのだ。

届けたいのは「商品の魅力」ではなく「世界観」

たとえば、ある小さなコーヒーブランドがある。

彼らは豆の品質や焙煎技術を語るよりも、
「この一杯が、どんな朝をつくるのか?」という問いを投げかける。

そのメッセージは、
豆の特徴を言葉で並べるよりもずっと強く、
受け手の暮らしに入り込んでくる。

なぜならそれは、
商品を売ろうとする姿勢ではなく、
“どんな時間を届けたいか” という想いだからだ。

言葉より先に、世界を見せる

本当にいいプロモーションは、情報ではなく、“風景”を描く。

「このブランドに触れると、どんな世界に連れていかれるのか?」
その感覚を、目に見えない空気のように感じてもらう。

コピーライティングも、ビジュアルも、音楽も、
すべてはその風景の一部である。

それらが調和して初めて、
人は「これは私のためのものだ」と感じる。

説得ではなく、共鳴のデザインへ

プロモーションは、本来“口説き文句”ではない。

「こういう価値があるから買ってください」ではなく、
「この世界に共感できるなら、よければどうぞ」
と静かに開かれているもの。

それができるブランドには、どこか“余白”がある。

その余白が、顧客の想像を誘い、
「自分で選んだ」という実感につながっていく。

響き合いのメディア設計

SNSも、動画も、イベントも、
プロモーションのための道具ではあるけれど、
単にバズらせたり、目立たせたりするだけなら、
それは短命なノイズになる。

むしろ、そこに
「世界の入り口」としての設計がなければ、
意味は続かない。

プロモーションは、
“場の演出”であり、
“関係性のデザイン”であり、
そして “物語の共鳴点”として、
静かに機能していくべきものなのだ。

Vol.4|価格(Price)

— 顧客主導の時代における“価格”という対話 -

価格は、タグではなく、物語の入り口

「価格」は、かつてただの数字だった。
比較され、競われ、選ばれるための記号。

だが今、
その数字に私たちは、何かもっと深い意味を感じ取ろうとしている。

それは、
その商品が語る物語への扉
そのブランドが誘う風景の入口

そして、
その世界に自分も加わってみたいかどうかを確かめるための、
最初の一文である。

安さの正義が、風景を平坦にする

価格は長らく、「合理性」の象徴だった。
コストを抑え、効率化し、より多くを届けることが “善” とされた。

だが、その結果何が起きたか。

商品の背景は見えなくなり、
作り手の温度は伝わらず、
どこにでもある “それっぽいもの” が大量に並ぶ売り場ができあがった。

比較されることを前提に設定された価格は、
やがて「違い」を飲み込み、
「選ばれる理由」を溶かしていく。

■ 「高いかどうか」ではなく、「共感できるかどうか」

あるクラフトビールのラベルに、こんな言葉があったとしよう。

「素の“自分”に還り味わう“特別な夜”。」

それだけで、どんな物語なのか、
どんな時間と一緒にあるのかが浮かび上がる。

そして、そのビールの価格は “高い” とは思われない可能性が高い。

価格とは、作り手が差し出す共感の通貨
その想いにふれた人は、
数字を「対価」としてではなく、「共鳴の証」として受け取る。

価格設計は、世界観設計である

「いくらで売るか?」ではなく、
「どんな世界に連れていきたいか?」

価格の背後にある意図が明確になると、
その数字には熱が宿る。

たとえば、手仕事で作られた木製カトラリー。
量産品の数倍の値段でも、
それが「作り手の暮らしと技術を未来につなぐ金額」だとわかれば、
むしろその高さに納得と誇りを感じる人もいる。

価格とは、ブランドの姿勢を翻訳した“ことば”なのだ。

「買う」は、消費から参加へ

いま、買うという行為は「取引」ではなくなりつつある。
それは、「私はこの世界観に共感します」と表明する行動。

どこでコーヒーを買うか。
どのレコードショップで音楽を探すか。
その選択は、その人がどんな文化に共鳴しているかの静かなメッセージである。

価格は、その文化への“参加料”。
そこには、安い・高いでは語れない、多層的な意味が宿る。

数字の奥にある温度を、どう伝えるか

価格に込められた時間、労力、敬意、そして思想。
それらが一つの数字に折りたたまれている。

それを伝えるには、「安さ」や「希少性」ではなく、
その数字に込められた“温度”を手渡す必要がある。

「この数字が、あなたの暮らしにどんな景色を届けるか」
「その支払いが、どんな未来につながるか」

価格という名の“対話”を、
私たちはもう一度見直してみる時期にきているのかもしれない。

Vol.5|選ばれる理由が消えるとき

— 「共感される存在」であることの難しさと希望 -

「売れる理由」は、どこからやってくるのか

「なぜそれが選ばれているのか?」
「どうして今、そのサービスが必要とされているのか?」

売り手はときに、この問いから目を逸らしたくなる。
マーケティングの“4P(製品=Product、価格=Price、流通=Place、プロモーション=Promotion)”に忠実であるほど、
いつの間にか「売れる構造」を最適化することが目的になってしまい、
「誰のどんな気持ちに応えているか」という本質的な問いが抜け落ちる。

だが今、選ばれる理由は単なる機能や価格ではなく、
もっと曖昧で、感覚的な「関係性」や「共感」の中に生まれているのではないだろうか。

売る構造が最適化されすぎた時代の、その先へ

広告で関心を引き、SNSで囲い込み、ECで瞬時に届ける。
顧客接点を「効率化」し尽くした現代において、
本当に問われているのは、“それでもなお選ばれる理由”である。

構造だけでつながった関係は、すぐに切れる。
「なんとなく使わなくなった」
「他に良さそうなのがあった」。

そんな理由で、あるブランドは簡単に選択肢から消えていく。
では、選ばれ続けるブランドとは、何が違うのか。

共感と参加で結ばれる、新しい関係のつくりかた

選ばれ続けるブランドには、ひとつの共通点がある。
それは、「ただの商品」ではなく、
「価値観や文化」に触れる体験を提供していること。

人はもはや、ただ“物”を買っているのではない。
その奥にある「思想」や「姿勢」に共鳴し、
自分の価値観と重ね合わせている。

価格、店舗、プロモーション、
それらすべてが「世界観に触れる接点」として設計されているとき、
商品は“選ばれる理由”としての深みを持ち始める。

「価格に意味がある」ブランドの風景

ある小さな焙煎所がある。
フェアトレードの豆を、現地農園との対話の中で仕入れ、
ロースターの手で丁寧に焙煎する。

一杯のコーヒーは800円。決して安くはない。
けれどその焙煎所は、「高いから売れない」とは言わない。

むしろ、価格の内訳を公開し、仕入れ先のストーリーを伝え、
時間をかけて「このコーヒーに関わるすべての人の温度」を
届けようとしている。

その世界観に共鳴した人は、価格を「対価」ではなく、
「共感への参加料」として自然に受け入れる。

それは「買う」という行為が、
“支持”であり、“参加”になる瞬間である。

共感の不一致と消費の行方

しかし、価格や品質、ストーリーが
消費者の価値観と合致しない場合、
単なる「不買」という行動も、
根底には「共感できない」という不参加表明が潜んでいる。

いま世界中で起きている様々な不買運動やエシカル消費の背景には、
こうした価値観のズレが大きく影響している。

消費は単なる取引ではなく、
価値観への支持か否かの意思表示であり、
ブランドと消費者の共鳴の有無が問われているのだ。

この視点は、選ばれるブランドになるために欠かせない、
共感と参加の重要性を改めて浮き彫りにする。

共感の不一致と消費の行方

しかし、価格や品質、ストーリーが
消費者の価値観と合致しない場合、
単なる「不買」という行動も、
根底には「共感できない」という不参加表明が潜んでいる。

いま世界中で起きている様々な不買運動やエシカル消費の背景には、
こうした価値観のズレが大きく影響している。

消費は単なる取引ではなく、
価値観への支持か否かの意思表示であり、
ブランドと消費者の共鳴の有無が問われているのだ。

この視点は、選ばれるブランドになるために欠かせない、
共感と参加の重要性を改めて浮き彫りにする。

売ることが、誰かと“関係する”という営みに戻るとき

マーケティングとは、本来「伝える技術」ではなく、
「関わり方の設計」だったはずだ。

モノの向こうにいる誰かのことを考え、
どうすればその人の世界にやさしく触れられるかを問う営みだった。

選ばれる理由を問うことは、
もう一度、売るという行為を“関係性”としてひらくことでもある。

それが、もしかしたら今、私たちが立ち返るべき問いなのかもしれない。

あとがき

このコラムで、「売ること」が単なるモノの取引ではなく、
姿勢や関係性の営みであることを考えてきました。

しかし現実には、
大量生産や量販店での価格勝負が今も根強く残っています。
かつて「モノが足りなかった時代」に確立されたこの売り方は、
今なお使われ続けているのです。

特にデフレ傾向が続く市場では、
価格での競争が合理的に思え、
ついそれに頼ってしまうこともあるでしょう。

ですが、単なる価格競争は長期的にブランド価値を損ない、
結果として消費者の共感を失いかねません。

これからの時代は、
単に「売る」だけでなく、
「どんな世界を届けるか」「どんな関係を紡ぐか」
という視点が欠かせません。

理想と現実のはざまで揺れながらも、
私たちは新たな価値の形を模索し続ける必要があるのだと、
改めて感じています。

上部へスクロール