理念形成から始まる経営コンサル|”銀座スコーレ”上野テントウシャ

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"銀座スコーレ"上野テントウシャ

《我関せず、のち晴れ 》

- 「正しさ」の影に潜む、静かな圧力 -

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プロローグ:

「それ、いいですね」と共感を示しながらも、胸にざわつきを覚える瞬間がある。

古い正解を手放したつもりが、気づけば新しい正解に縛られている。

善意から滲み出す「こうあらねば」の空気は、知らぬ間に他者の自由を奪うこともある。

だからこそ問いたい。選ばない自由、関わらない自由もまた、確かな選択肢ではないか、と。

Vol.0|違和感は繰り返される

— 新しい正解 -

ある日、SNSを眺めていたら、目に留まった投稿があった。

ざっくり言えば、こんな主旨だった。

「うちはもう、お客様との飲み会や会食は一切やってません。」
「毎月の経費、ほぼゼロで回してます。」
「レジ袋もレシートも断ってる。“無駄”を持たない暮らしが心地いいんです。」

—たしかに、ひとつの考え方としては、わかる。

だけど、なぜか胸の奥がざわつく。
言葉にはできないけれど、どこかで感じたことのある“違和感”だ。

「脱・正解」の顔をした、新しい正解主義

この違和感の正体は、おそらくこれだ。
「旧来の正解主義」を否定しながら、別の形の“正解”を打ち立てている構図。

「こうすべき」という明文化された指針はなくとも、
「これが自然でしょ?」「こっちが誠実でしょ?」という空気が、
やんわりと、しかし確実に他者を包み込んでいく。

古い価値観の押し付けがダメだということは、みんな分かってきている。
でもその反動として、「新しい正しさ」を作りたくなる衝動もまた、人間の性なのかもしれない。

それが、

「経費を使わない私は自立している」
「ポイントカードを持たない私は損得に支配されていない」

というかたちで表出すると、
知らぬ間に、また別の“理想像”を量産することになる。

善意が染み出す、その先にある圧力

厄介なのは、それらが「善意」から発されているということだ。
悪意でも支配欲でもない。

ただ「自分がそうしたら、心地よかった」
「だから勧めたい」—それだけのこと。

でも、ふとした瞬間に思うのだ。
それってほんとうに“自由”なの?
それを採らない人の“自由”は、どこにあるの?

押しつけのつもりはなくても、
共有が過剰になれば、やがて“空気”になり、
空気が定着すれば、それは見えないルールになる。

「自分の選択」を語っているようで、
その語り方が、“他人の選択肢”を閉ざしてしまうことがある。

「正しさ」より、「責任」の方が深い

ぼくは、コロナ禍のときに、そのことを痛感した。
あのとき、ワクチンをどうするかという話題が、世間を二分していた。

打つべきか、打たざるべきか。
善か、悪か。
正義か、愚かさか。

でも、そのどれでもなく、
「自分の人生として、どう選ぶか?」 を、はじめて本気で考えた。

誰かの意見をうのみにするでもなく、
誰かに後押しを求めるでもなく、
「後悔しないかどうか」を軸に、自分で決めた。

そのときはじめて、
「選択に責任を持つ」ということが、
こんなにも自由で、怖くて、静かなんだと知った。

違和感は、次の問いを開く種

だからこそ、感じるのだ。
この静かな違和感が、どこかでまた「新しい檻」になりかけていることに。

それが悪いわけではない。
何かを信じて、選ぶことは大事だし、共感しあうこともあっていい。
でも、その正解の輪の外にいる人たちを、取り残すような語りは、
できれば避けたいと思うのだ。

正しさよりも、責任を。
共感よりも、余白を。

たとえ一人ひとりの選択が違っても、
その違いが、心地よく風に揺れるような社会であってほしい。

違和感は、次の問いを開くための、静かなノックなのかもしれない。

Vol.1|善意のくせがすごい

— 優しさの圧力 -

善意のマントの下で

「あなたのためを思って言ってるんだけどさ」
この言葉の出だしには、だいたい少しの善意と、たっぷりの正しさが混ざっている。

税理士が「小さな会社こそインボイスはチャンスですよ」と言ったとき、
それは職業倫理かもしれないし、親切心かもしれないし、単なる営業トークかもしれない。

でも、受け手がそれを“唯一の正解”として聞き取ってしまったとき、
善意は一気に「信仰」へと変わってしまう。

SNSでよく見かける「本当に豊かに生きるための5つの習慣」なんてのも、
たいていはその人の経験則であって、万人にとっての真理ではない。

でも、その語り口が断定的であるほど、
それを正解と信じたくなる人が現れる。

善意のくせがすごい。

■ 「それが正しい」と信じたい心理

不思議なもので、人は自分の選択に確信が持てないときほど、
他者の選択に口出ししたくなる。

「そうじゃないよ」「こうしたほうがいいよ」
その声の根っこには、
“自分の選んだ道がきっと正しい”という確信が欲しい、
という静かな不安があるように思う。

なぜ、そうなるのか。
おそらくそれは、
自分が選んだことによって得られる未来を、どこかで強く期待しているから。
まだ来ぬ未来に、選択の正しさを委ねているから。

逆にいえば、いまこの瞬間の自分に納得していれば、
他人の選択にそこまで敏感にはならない。
「そういうのも、あるよね」と自然に言える人は、
きっと“自分のあり方”に、ある程度の手応えを持っているのだと思う。

■ 正しさの布教活動

“自分の選択”を“みんなの正解”にしようとするのは、
どこかで安心を共有したいからだ。

それ自体は悪いことじゃない。
ただ、その行動が「正しさの布教」になってしまうと、
途端に“自由”が失われる。

たとえば生活スタイルや子育て論、働き方改革や地方移住。
どんなトピックでも、誰かが語りはじめた瞬間、
それが「理想」として消費されてしまう。

語り手が自信たっぷりであればあるほど、
聞き手はそれを“正解”だと信じたくなる。
でも、よくよく見てみると、
その理想の形が「自分の望む豊かさ」とはまったく違っていた、なんてこともある。

それでも、声が大きければ勝ってしまうのが、
この世界の構造だ。

■ マジョリティの旗の持ち替え

面白いのは、かつてマジョリティの立場にいた人が、
“脱マジョリティ”の旗を掲げるときの力学だ。

「かつての自分は、間違っていた」と語る姿には潔さもある。
けれど、その語りが“新しい正しさ”を生んでしまうこともある。

たとえば都市生活から地方移住した人が、
「本当の豊かさは自然の中にあった」と語る。
それ自体は真実かもしれないし、心からの実感なのだと思う。

でも、それが「地方こそが本来の生き方」となってしまうと、
また別の圧力が生まれてくる。

一周回って、やってることは「元いた場所」とあんまり変わらなかったりする。
ただ、看板が変わっただけ。

■ 「それもありだね」と言える人

本当に自分のあり方に納得している人は、
他人の選択に干渉しない。

「それは違う」とも言わないし、
「こっちが正しい」とも言わない。
ただ、「それも、ありだね」と静かに言うだけ。

それって、ものすごく勇気がいることだと思う。
自分を信じつつ、他人の選択も尊重するという姿勢には、
内側の成熟がいる。

でも、私たちはコンサルティングという場に立っていると、
そうも言っていられないことがある。

相手の無自覚な前提を指摘せざるをえない時、
“自分の選択を押し付けてしまうかもしれない”というジレンマが生まれる。

「それもありだね」と思っていても、
同時に「ここは見ておいた方がいいですよ」と言いたくなる。

■ 盟友との対話

ここで登場するのが、“盟友”の存在だ。
アーノルド・ミンデルの言うところの、厄介者でもあり、力でもある存在。

曖昧さのなかに留まりつつも、必要なときには輪郭を立てる。
そのとき、ふと現れては、破壊的なまでの明晰さをもたらす。
ときに鋭く、ときに苦々しい真実を突きつける。

この“盟友”は、自分の中にある“エッジ”——越えづらい境界を知らせてくれるし、
相手がどこで立ちすくんでいるのかにも気づかせてくれる。

つまり、ただの鋭さではない。
ただの優しさでもない。
あくまで、その場に必要な“明晰さ”を連れてくる存在。

僕たちは、この“盟友”を恐れずに、ちゃんと仲間として迎え入れる必要があるのかもしれない。
善意と正しさの狭間で、揺れるその場に、ほんの少しの深呼吸とともに。

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